というわけで、出版という仕事を通して、大事なことを考えている人たちのお手伝いを少しでもしていけたらいいなと思っています。あらためてよろしくお願いします。
10月20日、生活書院にとっての初めての本が出来てきました。柏女霊峰さんの『子ども家庭福祉・保育のあたらしい世界』です。〈援助者の仕事〉ということについて多くの示唆に富んだ書物ですので、とくにこれから保育士や子ども福祉の仕事につこうとしている方がたにはぜひ読んでいただきたいと思います。
早いところでは、27日ぐらいから全国の書店に並ぶと思います。どうか店頭で手にとってご覧下さい。また、お約束してきましたとおり、生活書院ではジャンル云々を問わず、刊行するすべての出版物において、書字へのアクセスが困難な方へのテキストデータの提供をします。墨字本の巻末についている引換券での交換になります。詳細はお問い合わせ下さい。
〈生活者に届く〉という設立のマニフェストを、簡明な、わかりやすい、入門書という方向にのみお考えいただく向きもあるようですが、そうではありません。書き手の狙いからどんどん離れていくようなミスリードをなるべく減らす、丁寧な本作りをしていきたいということであって、そのこと自体はジャンルやスタイル、内容によって動く類のものではないと考えています。
安直な感動強要本もまた目指してはいません。
亡くなった安藤鶴夫さんを評して、永六輔さんが書いている文章のなかに(文藝春秋版『遠くへ行きたい』1972年刊)、「常に感動を求め続け、探しつづけ、遂には感動をするための美談を創作して感動する。<中略>こうして安藤サンは当り前のことに感動し、感動する自分に感動し、僕はその感動振りに感動したものだった。<中略>僕達の周辺にはいろいろな種類の美談がいりみだれて、これは女性週刊誌のスキャンダル以上に、判断力をまどわせてはいないだろうか」というのがあって、師匠と仰ぎ敬愛した安鶴先生を、「いずれ、このあたりから評伝を書きたい」と結んでいます。この一文だけでも永六輔さんは信用できると今でも思っていたりするのですが、かなり前の朝日新聞に、奥泉光さんが、こんなことを書いていて、「感動することは無条件によいといえるだろうか。感動とは心が何かの力に動かされることであり、だから感動しやすい人とは、簡単に動かされてしまう人でもある。<中略>感情的になるあまり、判断力を失い、感動の背後に隠された差別や抑圧や自由の圧殺に気付かない人でもある」。
あまりに安直に泣いたり怒ったり、その感動やら怒りやらを他者に押し付けたり、沈思黙考している人を嘲笑したりすることは、止めたほうがいいのだと思いますし、奥泉さんいうところの「その程度で感動してたまるか」というやせ我慢は、出版の仕事を継続する上でも肝に銘じたいと思います。
どうかこれからもご支援をよろしくお願いいたします。(10.21 代表T)
PS:昨夜は初の新刊出来ということで、会社の仲間、ブックデザイナーさんと連れ立って(皆さん本当にお疲れ様でした。あらためて感謝します)、有名な牛タンのお店に出かけてきました。予約していたので、何とか入れましたが、店頭は長蛇の列。しかしてそのお味はいかに。……生前の姿・形があのように容易に想像できる舌をはじめて食べました。わたしに限って言えばリピータになることは考えられません。