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2007年07月 アーカイブ

2007年07月08日

夏、京都、遠い記憶

打ち合わせで京都に行ってきました。
日本中で一番か二番に暑い夏の京都と、覚悟を決めて出かけたのですが、
あにはからんや、とても過ごしやすい、梅雨の合間の一日でした。

打ち合わせの内容とは全く関係のないことなのですが……
京都にKBSという放送局があって、中学の終わりから高校にかけて、東北の片田舎で、KBS(当時は近畿放送)のラジオ深夜放送を、必死にチューニングをあわせ(夜はロシア語や中国語の放送[語学じゃないやつ]の方がよほどよく入った)、聴いていたことを思い出しました。

エンディングにウディ・ガスリーの原曲を日本語訳した「ヘイ・ヘイ・ヘイ」が必ず流れたその番組は、ナターシャセブンというバンドの持ち番組*1で、メンバーは高石ともや、城田じゅんじ、木田たかすけ、坂庭しょうごということになるのですが、今日は坂庭省悟さんのことです(ソロのときは名前は漢字表記)。

ミュージシャンにサインをもらったというのはその時の省悟さんが、初めてなのですが(その後も一度も無いけれど)、それは、2003年の千葉県は柏市での彼のソロ・ライヴでした。精神障害のある人たちのピア・サポートの会のチャリティイベントで、確か、市野川容孝さんも関係されていた会でしたが、その日は、いらっしゃってなかったように思います。

省悟さんのフラットマンドリンとギター、決して上手ではないけれど、ハイロンサムという気分を日本では一番体現していると勝手に思っていたボーカルの、私は大層なファンでした。終演後、省悟さんにサインをお願いしました。差し出したのは、高校2年のとき、受験の下見と嘘をついて東京で聴いたナターシャのコンサートで買った、『107SONG・BOOK』の見返し。赤いサインペンで「Shogo 2003.3.15」と書いてくれました。緑色の表紙の25年も年を経て汚くなった、『107SONG・BOOK』を見て省悟さんは、「うわー、なつかしい。よく持っていてくれましたね」と言ってくれたのです。

省悟さんはその9ヵ月後の同じ15日、がんでこの世を去ってしまいました。盟友のバンジョー弾き、じゅんじさんも、訳あって今は獄中のはずです。

省悟さんの30周年記念ライブ版、『この想い』という2枚組みのCDがあって、その中の、「別れのうた」や「クスの木の森で」はとてもリリカルで好きな歌です。ゲストのイサトさんや、渡さん*2との、掛け合いもとてもいい。ソングライターとしても、もっともっといい曲をたくさん書けた人だったと、いまさらながらに思います。


まったく出版稼業とは関係のない話になってしまいましたが、夏の一日、京都を訪れて、この地で生まれ、この地で歌い、53歳で逝ってしまった省悟さんのことを少し想いました。


*1 「日本列島ズバリリクエスト」という深夜の帯番組でナターシャは水・木が担当

*2 高田渡さんは2005年に逝くのですが、2003年の映画「タカダワタル的」の中でも省悟さん、イサトさん、渡さんの3人でのライヴ演奏を見ることが出来ます。渡さんの存在感でもっているだけで、映画作品としてはどうかなーと思いますが、この演奏はステキです。でも省悟さんにはさすがに病のカゲが……

2007年07月22日

社会化・専門性・お金

○○が何かによって、もちろん話はまったく違ってくるし、素人が乱暴に語ったりしてはいけない事柄なのでしょうが、方向としてとりあえず「○○の社会化」というのは正しいというのは、自明なことなのでしょうか? 

たとえば「ケア」だとします(「介助」「介護」…なにが入るかで、なにを入れるかで考え方、立場がでることもある)。「下手」な人にやってほしくない。対人援助技術をもった相性のいい人がいい。したがって有償化し社会がそれを保障する以外に無い。ヘルパーの方々への報酬、待遇が劣悪である。専門性についてはきちんと評価し、社会的に保障しよう、実際にケアを担えない人は、お金を出そう。でなければ、ケアを必要とする側も、ケアを提供する側もどちらも不利益を被る。うーん、そうなんだろうな。間違ってないな。

でも、「社会化」の部分が、実際にケアは担わない人達にきちんと理解されるだろうか、という疑問がどうしても残るのではないでしょうか。担う人とお金を出す人とに、いわば社会的に分担されているということに、意味はみんなが認識した上で、なるのだろうか。ケアを直接には担えない(あるいは担いたくない)人が、その手段として有償ケアを位置づける、逆にいえばそう志向する以上、無償ケアは認めない。極端に言えば、無償のケア行為を媒介して、何かを考えたり、研究成果を得ようとするような態度も認めない(その態度のあり方はおくとして)、といったことにはならないのか。関係の契機が失われることには繋がらないのか。

専門性の評価についても、あまり強調されると、「専門性による支配」になりかねないのではないか。「尻をぬぐってやるのに何で資格がいるのか」と言って「友人関係の介助」をベースに施設や家を出たあり方を、もう少し考えてみてもいいのではないか。障害者と高齢者って、やはり問題のある場所が少し違う気がするけれど、幼老障一元で考えるのはどうなんだろう。

とはいっても、金が使えて、適切かつ快適なサービスを時間量を気にせず取ろうと思えば、やはりケア労働の有償化しかないのだろうか。ぐじゃぐじゃした感情が入り込んでくることも、過剰な思い入れやら感動の押し付けも、そのほうがずっと少ないだろうし。それに、第一、現実にケアが質量ともに確保されていないという事実にほうかむりしているだけじゃないか、などなど。素人考えでも、悩ましいことはとても多いように思うのです。

悩ましく、わたしなどには「どこがわかりにくいか」すらわからないので、このことだけではない、自立生活と支援に関わるもっとごじゃごじゃしたことを、しつこく考える本を作っていただこうと、相談が始まったところではあります。


PS:いつも古くからの歌い手の話ばっかりで辛気臭いと思われても癪なので、こんなんどうでしょ。
春一番にも出てたり、これや これなどで、渡さんの歌を歌ってたりするので、「同じじゃないか」と言われると困るけど、同じじゃないです。

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