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2007年08月 アーカイブ

2007年08月06日

昔・東京の町の売り声

今日は仕事を離れ(仕事絡みは校了が重なってくるなどあまりにせわしなく、ちょっと書けません)、少し一息入れるための本のご紹介です。昔、中学のころ、安藤鶴夫さんの文章がとても好きだった時期があって、当時の旺文社文庫*1でよく読みました。落語が好きだったから、安鶴を好きになったのか……その逆はおそらくないと思うのですが。

安鶴さんの書く東京は、なぜか暑い暑い夏か、凍える冬という漠とした印象が私にはあって、この時期になると、棚から出して読みたくなり、文楽*2びいきだったそのエッセイを読むと、「四万六千日、お暑い盛りでございます」となって、鰻が食べたくなり、ああ、そう言えば、中国産に問題有りとかで、やたら高くなっているんだっけ、まあよしとくか、ということになるのでした。

表題にお借りした本は安鶴さんのラジオエッセイを活字化したもので、旺文社文庫は絶版ですが、古本を探す以外に、これでも読めるようです。売り声の話はその中の一編であって、お得意の芸人もの「志ん生復活」や「燕雄昇天」他、多趣のエッセイ集で読み応えがあります。
とまれ、うだるような暑さの日、四代目今輔がよく引いたという「町町の時計になれや小商人(こあきうど)」の川柳にはじまって、金魚売りや、朝顔の苗売りのくだりなどを読んでいると、少しほっとして、夏も悪くないかなと思ったりします。

もうなくなったかのような、物売りの声ですが、ボッタクリとかで何かと問題の多い竿竹売りや、健在の焼き芋だけではなく、最近では若い売り子が手甲脚絆姿で豆腐を売り歩く商売も、出てきたようです。

落語で物売りといえば、「ひと声と三声は呼ばぬ卵売り」から入って、大根と牛蒡の売り声の違いあたりの枕を振ってから本編に入る、三代目金馬の「孝行糖」が有名ですが、夏のこの時期、炎天下の与太郎がいとおしい、五代目小さんの「かぼちゃ屋」がまた良いものです。志ん朝や円生の「唐茄子屋政談」ももちろん結構ですが、胡乱な人情噺より夏はからっとという方は、全盛期の小さんで、是非「かぼちゃ屋」を!

落語のことを書いてしまったついでに、もう一つ、これは冬の噺ですが、非情なストーリーで有名な「黄金餅」は道中付けでも知られ、志ん生、志ん朝、談志それぞれ素晴らしいのですが、道中付けで思い出すのは、ケレン読み浪花節の広澤瓢右衛門。悪声ながらと自分で言っては呻った「英国密航」は絶品でした。米朝が瓢右衛門と、談志が木村重松の「慶安太平記」とカップリングした企画版がLPで出ていて、持っていたはずなのに、手許に今はありません。CDでの再発は望むべくもないのでしょうか。道中付けファン(いないかそんな人)の皆さん、入手方法などご存知ないでしょうか。


*1 当時(70年代から80年代半ば)の旺文社文庫は落語・芸談ものの宝庫で、文楽、円生、金馬の自伝から、小さん落語集三巻、安鶴、江国滋、興津要、はては織田作の珍妙なる一編「猿飛佐助」まで、本当にバラエティがありました。

*2 安鶴さんのお父さんの職業のほうの文楽ではなく、噺家の八代目桂文楽のこと


PS1:とはいえ、仕事のほうからもお知らせを一つ、『「成長の限界」からカブ・ヒル村へ』が、毎日新聞8月5日付け書評面で、作家の池澤夏樹さんによって大きくとりあげられました。こちらです。環境と生活と未来について考えるための出発点として優れた本であるという評です。全文で2000字超の書評ですので、是非ご一読の上、本それ自身と向き合っていただければと思います。

PS2:夏の食べ物話も一つ、「冷汁」は宮崎が有名ですが、Tの田舎福島では、ちがう作り方と食べ方をします。まず、擂鉢で胡桃(本当はジュウネン=えごまがいいが、慣れていないとえぐいかも知れません。ただ、美味いのはジュウネン)をあたります。大葉を細かく刻み、胡瓜を小口に薄く切っておきます。あたった胡桃(ジュウネン)を味噌か醤油でのばします。水をはって、準備しておいた大葉と胡瓜を入れ、さらに氷を浮かべます。これをお椀によそって味噌汁代わりに飲みます。宮崎みたいにご飯にかけたりはしませんし、具も大葉と胡瓜だけです(豆腐やみょうがを入れたり、煮干もあたったりするレシピもあるようですが、暑い夏の農家の昼飯でそんな手間をかけちゃいけません)。「そんなもん食えるか」とおっしゃらずに是非! けっこうはまります。こつは、できるだけ大きな擂鉢で、胡桃(ジュウネン)をあたったら、その擂鉢にそのまま、水をはり具を入れ氷を浮かべて、そこから直接よそって飲むこと、したがって理想は5、6人分いっぺんに作ることです。

2007年08月18日

分別をわきまえないことの大事さ

今日はようやく落ち着きましたが、ここのところ大変な暑さでした。東北出身のわたしとしては、山形のもつ記録が塗り替えられたことに、なんとなしの敗れ感をもってしまったりしますが、そんなことはともかく、夏ばてでまいらぬようにせねばなりません。

会社を立ち上げる時に、治った、立った、歩いた、感動したという類の本は、出来うる限り作るまいと決めました。そうした本の存在意義について安易には云々できないし、もちろん、一般化することはとても危険だと思うのですが、ある種のそういう本が、ある人々や事柄にとっては、とてもしんどいことや、つらいことになるかもしれない、わたしとしてはそちらの人々や事柄のことを大事に考えたい、だから作らない。

そんなことを考えるきっかけになったのは、今は亡き横塚晃一さんの『母よ!殺すな』で、会社を作って以来のひとつの目標だったこの本の復刊も、いよいよ目前に迫ってきたのですが、これについては来月またゆっくりお話させていただくことにして、今日は、出来たばかりの新刊、『身体の社会学のブレークスルー』について。

後藤吉彦さんのこの本、編集はNが担当したのですが、わたしも企画段階から、原稿をいただいて最初の意見をつけてお戻しするまで、勉強させていただきながらご一緒しました。先行研究・言説を整理紹介して見取り図を提示するところに留まるのではなく、既存の秩序が人間の身体を区別し、仕分けし、分断し、みなが「分別をわきまえて」生きることによって、予定調和的な安寧を保とうとするなら、そしてそのことが、人々を生き難くさせていることにひどく加担しているとするなら、そうではない道を探さねばならない、その道とは何かを考え続けているところが、この本に輝きを与えていて、「社会学」足らしめる所以にもなっているように思います。

原稿をいただいた時から、後藤さんがおっしゃっていた、シニカルな相対主義に陥り留まることよりも、様々な批判は覚悟しつつも普遍を語ること、その高みを目指すことから撤退しないという姿勢は、最後まで貫かれています。

「分別をわきまえる」ことに異議をとなえることはどこに向うか、後藤さんによれば、境界を侵犯しておもいがけないつながりをもつ身体であり、身体の「傷つきやすさ」を起点として普遍性(自明のものではなく構築するものとしての)を展望するということになるのでしょうか。
例えば、「障害者/健常者カテゴリーの不安定化」という論考など、後藤さん自身もおっしゃっているように、カテゴリーを引き受けることの意義、あるいは障害の社会モデルに対する評価など、議論を呼ぶところかとも思いますし、後藤さんもまたそうした議論自体を望んでおられるように思います。その意味では、来月の横塚さんの復刊が、この時代にどう読まれていくかが、またとても大事なことであるようにも感じます。

ともあれ、身体、人間へのある意味での肯定感に満ち、「分別をわきまえない」ことの大事さを教えてくれる、この刺激的な論考、是非お読みいただければと思います。


PS1:木村晴美さんの『日本手話とろう文化』、はや3刷りとなりました。まだお読みでない方は、是非!

PS2:夏になると食べたくなるのが、中央線は西荻窪「甘いっ子」の氷いちごみるく。学生の時から行っていた店ですが、代が変わっても健在のようです。平皿にのったかき氷ですが、氷が滑らかで、苺はシロップではなくピューレ。ここ数日「食べたい」モードに入りっぱなしであります。


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