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分別をわきまえないことの大事さ

今日はようやく落ち着きましたが、ここのところ大変な暑さでした。東北出身のわたしとしては、山形のもつ記録が塗り替えられたことに、なんとなしの敗れ感をもってしまったりしますが、そんなことはともかく、夏ばてでまいらぬようにせねばなりません。

会社を立ち上げる時に、治った、立った、歩いた、感動したという類の本は、出来うる限り作るまいと決めました。そうした本の存在意義について安易には云々できないし、もちろん、一般化することはとても危険だと思うのですが、ある種のそういう本が、ある人々や事柄にとっては、とてもしんどいことや、つらいことになるかもしれない、わたしとしてはそちらの人々や事柄のことを大事に考えたい、だから作らない。

そんなことを考えるきっかけになったのは、今は亡き横塚晃一さんの『母よ!殺すな』で、会社を作って以来のひとつの目標だったこの本の復刊も、いよいよ目前に迫ってきたのですが、これについては来月またゆっくりお話させていただくことにして、今日は、出来たばかりの新刊、『身体の社会学のブレークスルー』について。

後藤吉彦さんのこの本、編集はNが担当したのですが、わたしも企画段階から、原稿をいただいて最初の意見をつけてお戻しするまで、勉強させていただきながらご一緒しました。先行研究・言説を整理紹介して見取り図を提示するところに留まるのではなく、既存の秩序が人間の身体を区別し、仕分けし、分断し、みなが「分別をわきまえて」生きることによって、予定調和的な安寧を保とうとするなら、そしてそのことが、人々を生き難くさせていることにひどく加担しているとするなら、そうではない道を探さねばならない、その道とは何かを考え続けているところが、この本に輝きを与えていて、「社会学」足らしめる所以にもなっているように思います。

原稿をいただいた時から、後藤さんがおっしゃっていた、シニカルな相対主義に陥り留まることよりも、様々な批判は覚悟しつつも普遍を語ること、その高みを目指すことから撤退しないという姿勢は、最後まで貫かれています。

「分別をわきまえる」ことに異議をとなえることはどこに向うか、後藤さんによれば、境界を侵犯しておもいがけないつながりをもつ身体であり、身体の「傷つきやすさ」を起点として普遍性(自明のものではなく構築するものとしての)を展望するということになるのでしょうか。
例えば、「障害者/健常者カテゴリーの不安定化」という論考など、後藤さん自身もおっしゃっているように、カテゴリーを引き受けることの意義、あるいは障害の社会モデルに対する評価など、議論を呼ぶところかとも思いますし、後藤さんもまたそうした議論自体を望んでおられるように思います。その意味では、来月の横塚さんの復刊が、この時代にどう読まれていくかが、またとても大事なことであるようにも感じます。

ともあれ、身体、人間へのある意味での肯定感に満ち、「分別をわきまえない」ことの大事さを教えてくれる、この刺激的な論考、是非お読みいただければと思います。


PS1:木村晴美さんの『日本手話とろう文化』、はや3刷りとなりました。まだお読みでない方は、是非!

PS2:夏になると食べたくなるのが、中央線は西荻窪「甘いっ子」の氷いちごみるく。学生の時から行っていた店ですが、代が変わっても健在のようです。平皿にのったかき氷ですが、氷が滑らかで、苺はシロップではなくピューレ。ここ数日「食べたい」モードに入りっぱなしであります。


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2007年08月18日 12:40に投稿されたエントリーのページです。

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