ある学会でケア労働が労働として成立するための要件についてのお話を聞いた。専門性や熟練がむしろ邪魔になるといった指摘など、それを聞く相手によってはかなり挑発的なもの言いになるが、理屈は至極尤もでストンと胸に落ちた。お話を聞いてさらにその先と、残った感じは、上手く言えないが、以下のようなものだ。
ケア労働の有償化・公的な保障で、「お金」の不平等感や報われない感が、「他と同じ程度に」解消されたと前提するとして、そこで他の何かではなく、介助(介護でも支援でも言葉はここではまあいいとして)を選ぶ動機付けはなんだろう。動機付けに頼らないからこその有償化・公的な保障なのだから、そこは問題にしないということなのか……
コテンパンに理屈でやられそうな気はするけれど、どうも、ときどきお話したりする支援者の人たちを見ていると、「お金の報われない感」は当然解消されるべきだけれど、そうでもない何かでやっている気配もかなり強い気がして、だいたい「専門性」は邪魔になるなんて言えたり分かってたりする支援者って、むしろかなりの専門家という気もしなくはない。どうなんだろうなあ?
と、そのへんの私なりの分からなさを書き手の人にもぶつけ、「あなたは本当に分かってないね」など言われながら本を作っていこうと思う。
ps:風邪など引いている余裕はないのに引いてしまった。上野は珍々軒のタンメンにたっぷり酢をかけて、唇を火傷しながらすすり込めばおさまる気がするのだけれど。あとは、名前は忘れたけれど、京成八幡駅そばの、職人も建物も相当に年季が入った蕎麦屋のカレー南蛮か(ここのカレー南蛮は長葱・カシワという大好きな組み合わせで安くて美味い。豚と玉葱なんてうどんか飯でしょ)。