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田舎にて

田舎の義理の叔父が亡くなり、日帰りで葬儀へ。膵臓癌が見つかって入院してから、2ヶ月足らずで逝ってしまった。60歳。言っても詮無しとはいえ、早すぎる。

まだ小学生のころ、叔母のデートの出しに使われたことがあり(亡くなった叔父の働いていた、隣町の電気店に車で行って、少し話をするというだけのものだが、当時交際を反対されていたらしく、本屋に私を連れて行く―私の生まれた町には本屋がなかった―という方便で出かけたように記憶している)、それもいい思い出なのだが、叔母と結婚した後も、近くに住んでいることもあって、私の生家の農作業などよく手伝ってくれていたようだ。私はと言えば、なんだかんだと理屈はいうものの、農業の実務など一切出来ず、老親や兄とは遠く離れ、まあ勝手なことをやっているわけで、そうしたことにはとても感謝していたものだ。

その叔父、めったに会うことはなくなっていたが、豪快で元気がよく、色々な手作業にも明るくて、何よりいい酒の呑み方をする人だった。

通夜ではなく葬儀に出るので式服がいるが、買い替えをせねばならず、急ぎ購入して、朝、新幹線に飛び乗る。F駅で降りる。ここ何年かの冬では一番寒い。少しの待ち時間の間、立ち喰いの〈肉蕎麦〉*を啜りこむ。第三セクターのA急行線に乗り換えて、H駅からはタクシーで葬儀の式場である叔父叔母宅へ。叔母と一緒に大きくした苺栽培、そのハウスとハウスとの間を貫く農道を抜けていく。遺族席に叔母と子どもたち。私の父も畳の座敷の少し前の方にいた。仕事のこともあり、お悔み、焼香の後は、精進上げにも参加することなく、生家に僅かの時間立ち寄った後、日に3本しかないF駅への直通バスの最終便(といっても夕方の4時なのだが)に乗り、東京へは夜7時過ぎに戻った。

これから、田舎へ行かなければならない事由として、弔事が多くなるのかもしれない。それは止むを得ないことなのだが、60歳での死は予想すべくもなく、やはり応える。

私自身は、いつまで生きることになるのだろうか。ズルイ事をして名を成したいとは、些かも思わないけれど、立てた志に(少しは)恥じることのない本を、この後も出し続けていくことが出来るだろうか。仕事に倦んだり、惰性で動いたりということに陥ったり、あるいは陥っていることにすら気づかない、といったことにはならないだろうか。時間はある。しかし時間はない。

年の瀬に、田舎で、バスに揺られながら、そんなことを思った。


*温かい蕎麦に、豚肉のバラが入ったもの。東京だと豚肉が入った蕎麦は、カレー系になるが、南東北ではカレー南蛮は鶏肉(のはずだが、今もそう言い切れるかの自信はなし)。〈肉蕎麦〉は、かけに豚肉というごくシンプルなもの。冬、ことのほか美味い。ちなみにA急行線、F駅改札近くの立ち喰いでは、450円。

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2007年12月16日 16:57に投稿されたエントリーのページです。

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