先だっての土曜の深夜というか日曜の未明、荒木町でしこたま飲んだ後、タクシー代ももったいない故、事務所近くのファミレスで始発を待つことになった……。
新宿や池袋・澁谷といった大ターミナル駅近くなら大勢の人で賑わうのだろうが、終電もとうになくなった午前2時半過ぎの四谷は、タクシーで帰るか、朝まで呑めるであろう荒木町に居座るかなのだろう、一人で入ったファミレスJは閑散としている。
今更コーヒーという気にもなれず、安いワインのハーフボトルをちびちびやりながら、夜が白んでくるのを待つ。いただき物の杉田俊介さんの新刊、『無能力批評』をめくってみたりするのだが、アルコールが体中に回っていて、読むことに対してすでに力が無いのである。昼からずっと編集会議、夜はわたしのスピーチがとんでもなくスベッテしまったパーティ(パーティ自体はとても素敵なものだったが、年を追うごとに人前で話すとき心臓がバクバクする度合いが増している。9月には割りと長めの話を人前でしなくてはいけないのに大丈夫かわたしは)、そして2次会と、心身ともに疲れきっているのに、まだ酒だけは入る。一人で明け方のファミレスにいるなんていつ以来だろうと思う。と思って回りを見渡すと、ほとんどの客が単独者だ。世間はあまり金を持っていそうでなく、風采のあがらない(その場のわたしのような)単独者に冷たい。何か事件があると、とんでもなく広い範囲に話を一般化して貼り付け、「変な人」を排除しにかかる。「親の顔が見てみたい」などと、自分が言われたらどう思うだろうかというようなことを、誰もかれもがしたり顔で言い出す。それとこれとは別の話ということすらわからなくなってヒステリックになる。何が怖いといってそういった風潮が一番怖い。批判は人の口車に乗ってやってはならない、仄聞や憶測や声高な者からの強要や、そういったもので自分の言葉を固めてはいけない。自分で聞いて自分で読んで自分で考えて、たとえそれが稚拙な段階にとどまったとしても、その態度は持ち続け、稚拙だという反論があればまたそれを引き受けて考えていくしかない。
という具合に、なんの脈略もなくまとまりもなく、話がおそろしくあちらこちらに飛ぶのだが、酔いがてっぺんまで回った頭で色んなことを考える。
まあ、でも、「みんながそう言っているからきっとそうなんだ、面倒くさいからそれでいいや」は、やはりあまりよろしくないと思う。第一、少しは「そうかな」と思って考えたほうが楽しいわけだし……。
さあ、始発で帰って少し寝たら、ゲラ読んで手を入れて、愛しの著者にご送付だーっつ!
PS:なんとかゲラは無事送り出すことが出来た、その日曜の夜。酒は……やっぱり呑んだ。