月に2回ぐらいはブログを書こうと思うのだが、あまりに時間の余裕がないとネタを考えるのすらおぼつかない。今日は、朝、雪となった東京を出て、関西にやってきた。一つ仕事を終えて、次の待ち合わせまでわずかの時間、宿に荷物をぶちこんで、PCを開けた。夜には別のシコシコ仕事も待っており、ここで書かないと明日はもう28日、昼は研究会参加、夜は(たぶん間違いなく)呑みだろうからブログは書けない。必然、今書かないと今月は1本だけになってしまう。などど強迫観念に駆られて書くようなものではないことは承知しているが、なんとなく落ち着かないのである。
年が明けて出した新刊は、昨日手許に届いた『教員のための子ども虐待理解と対応』で3点なのだが(新刊をブログできちんと紹介できていない。次週には何とか)、このほかに重版3つ、さらに立命館大学のお仕事をいくつかと、とにかく忙しかったし、忙しい。それはとてもありがたいことであり、出版でなんとか食っていくために色んな人が力を貸してくださることに感謝している。
一方、お約束していてずるずる刊行が延びているものも、かなりあります。本当にお詫びするしかない。必ずやります。皆様、もう少しお待ちを!
最近、人と人が関係性をもつ、繋がるというのは、容易ならざることだなとあらためて思う。いつでもそこから逃げ出せる人が、自分がとても真摯に物事と向き合っている良い人だということの確認や自己満足のために、逃げ出せない、逃げ出すわけにはいかない人と時々向きあう。そうとは思っていなくても、結果的にはそうなっているし、明日もまたそうする。これは自戒なのである。生き難い生を生きる人に寄り添う出版をといっても、その本を作るとき、その原稿を読むとき、その人と酒を呑むときなどなどの他は、いつだって逃げ出させるし、逃げ出している、要は自分の利害、自分の気持ちよさのためなのだ、そのことを私は自覚せねばならない。ある人のお話を東京は某所でうかがったのがきっかけだが、その人はそのまま私なのだ。そしてその上でなお私の仕事は出版だということだ。のほほんともしていられないのだ。
で、関西である。今日打ち合わせをし、おそらく秋には形になるであろうその本の書き手の方にも、心底真面目に考え、こうすればこの企画はもっと良くなるというお話をしたつもりなのだが、終えて、やはり心配なのである。なにか習い性のような語りっぷりになっていなかったか、プロ面のしたり顔はしていなかったか…。見た目に似合わず心配性の私は、今日もこうして人と会い話をしている。そして、どこかで、自信満々の出版人編集者といった人たちよりは、すぐにくよくよする自分のほうがまだましだと思っていたりするのだ。