酒をよく呑む。昨日は東京の西の方で月一回ある、小さいけれど密度の濃い講座の日で、この講座上がりには当たりまえのように毎回呑み会がセットされていてこれがまた楽しい、私などは酔った勢いで思いつきや知ったかぶりを言っては後が続かずに説明に窮し、朱かった顔が急に蒼ざめるなどもしょっちゅうだが、まあそれもよしと勝手に思うことにしている。
金曜はもっと西の方から来た人と中央線沿線の某所で呑んだ。人はみんなそれぞれに厄介ごとを抱えているもので、まあまあと呑んでは愚痴をこぼし、一息入れる。それも酒の効能ではやはりある。
外でも呑むが家でも呑む。先日遅く帰って呑み足らず、落語なら「替わり目」というところだが、もちろんそんなわけにはいかず、自分で「とろろ昆布の湯浸し?」を作って(作るというようなものではないが)、つまみにした。田舎の父が大好きなつまみで、ただ出来合いのとろろ昆布(かんなで削ったような高いものではもちろんなく、スーパーで安く売っているただの袋物のやつ)を小皿にとって、これまた出来合いの削り節パックからかなり多めにそのひらひらをふりかけ、乾燥唐辛子の小口切りかなんかあったらパラっとやって、熱湯をわりにダボっとかけて、醤油を5たらしぐらい。要するにとろろ昆布が吸い物にならずにどろどろぐずぐすになった状態のやつを、箸でひっかけひっかけ酒のつまみにするという、みみっちいといえばみみっちい食い物ではある(でも美味いよ)。
それを喰っていて、突然卵黄の味噌漬けのことを思い出した。あれはいつだったか、少なくもここ10年よりはずっと前に父が東京に出てきて、一緒に酒を呑んでいた時、やや得意気に、「変わったつまみがあるのを知っているか」と言う。「……」「漬物だけど野菜じゃない」「……」「からすみみたいになる」「……」「どうやって作るか知ってるか。柔らかくて潰れるんだ普通は」「……」「わかるか?」「卵の黄身の味噌漬けだろ。味噌床を殻で少し窪ませて、ガーゼしいて黄身入れて、またガーゼかぶせて味噌乗せて…(つまらなそうに言った)」「なんだ知ってるのか…」
その時の父のがっかりもし情けなくもあるようなその顔を唐突に思い出したのである。
なんだかとても良くないなと、あらためて思う。今でも私は懲りずに色んな場面でそんなことをしているのかもしれない。得意気に。鬼の首でもとったかのように……。
人を凹ますのは楽しいことかも知れない。理屈が前に転がるために必要であるだろうし、「知っている」ことは良いことだ。ただ少しだけこうも思う。「俺なんかとうに知っているぜ」という身振りは、時と場合と文脈によっては、かなりみっともなくも恥ずかしい、振る舞いであり立ち位置だ。