「正しいこと」「善いこと」が内包する危うさ――『包摂と排除の教育学』
人は結構「正しいこと」や「善いこと」に弱い。それがはらんでいる危うさや、担ってしまっているやもしれない体制補完的役割に何かきな臭さを感じたとしても、耳を塞いだり目をそむけたりしてしまう。そして「正しいこと」や「善いこと」を語り行う人はもちろんそれを疑ったりなど毛頭せず、自信満々に他人にも「せよ」と言う。
こうした事柄をきちんと見すえ批判することは、実は大変に困難で、時には一斉に反発されかねないという厄介さも抱えることになるのだが、今月末刊行予定の『包摂と排除の教育学』の中で、著者の倉石一郎さんは、その困難さや厄介さをきっちり引き受けている。
例えば、1970年代初頭の全朝教の教育実践の語りを読み込んで、倉石さんは以下のように言う。
<……「人間」であるための資格要件として、教育可能性がたえず参照されることが問題なのである。ここには「educableな存在(=「人間」)だけに教育は施すことができる」というトートロジーが読み取れる。そしてマイノリティ〈包摂〉の教育も、この「論理」から逃れられない。かつて〈排除〉の教育言説は日本人と朝鮮人とのエスニックな境界線に重ねて、人間/非-人間の線引きをした。〈包摂〉の言説はその線引きをずらして、朝鮮人の子ども一人一人の内部にそれを引き直した。その引き直しに鮮明な反差別・反レイシズムの意思が込められていることは言うまでもないが、それでもなお、この線引き実践そのものは問い直されることなく引き継がれ、トートロジカルな教育の論理も温存された。<略>朝鮮人は教育不可能な存在だから埒外に放逐するという〈排除〉の立場と、朝鮮人には教育可能な余地が見い出せるから〈包摂〉しようという立場は、同じコインの表裏の関係にあるのだ。だから〈包摂〉の教育言説は教育の論理総体を批判・対象化するに至らないという限界を抱え、これまでの実践の積み重ねを守るという保守的立場に転化しかねない危うさも抱え持っている>
また、別のところでは以下のようにも語っている。
<これらの教育実践記録の語りが口をつぐみ、黙殺を試みているものは何だろうか。それは、「人権教育」がその名において取り組みを始める、その始源のときから切り捨てを約束される「他者」の存在である>
生半可な覚悟ではこうしたことは言えないと思う。できたらそうした場からは逃げていたいという気持ちがないかと問われたら、わたしにも自信はない。でも研究なり学問なりというものが引き受けるべきは何かということになれば、断然決然、倉石さんの態度は支持されねばならない。
この本で倉石さんが目指しているのは、もちろん上記の内容に留まらない。批判の対象となる硬直した物語世界の構造がくずれ、「外部」自体が主題となってくるような「語り」にも、きちんとその目は向けられている。
真っ当なこの本が、真っ当に人びとに届き読まれることを願う。ザワザワとした感覚を味わうことになるかもしれないが、それは事柄の深淵にたどり着くためにたぶん必要なことだ。