10月のブログで雨宮処凛さんが書いてくださった『母よ!殺すな』の書評のことをとり上げさせていただいた。雨宮さんと、ビッグイシュー日本版編集部にお願いして、全文公開をお許しいただくことが出来た。すでに立岩真也さんの生存学のHPでもアップされているが、以下全文である。
「殺される側」からの叫び 雨宮処凛
最近、ずーっと読みたかった本をやっと手に入れ、読んだ。それは1975年に出版された『母よ!殺すな』。07年に生活書院から復刊された同書は、脳性マヒの横塚晃一氏によって書かれたものだ。横塚氏は78年に42歳でガンのため亡くなっている。
母よ、殺すな。ドキッとするタイトルだ。一体、母が誰を殺すというのだろう。この言葉の背景には、ある事件があった。70年、2人の重度の脳性マヒの子どもを抱えた母親が、2歳の下の子を殺してしまったのだ。母親は脳性マヒの子どもに対し、「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」と思ったという。
この事件に対して世間は同情を寄せ、子どもを殺してしまった母親への「減刑嘆願運動」が起きる。それに対して、脳性マヒの人々の団体「青い芝の会」が「殺されてもやむを得ないのなら、殺された側の人権はどうなる」と、「殺される側」から声を上げたのだ。まさに障害をもつ人々の「生存権」を賭けた問いであった。
横塚氏は同書で、以下のように書いている。
「なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている」
ここにあるのは、あるがままの「命」を肯定しようとする叫びである。しかし、脳性マヒの人々が声を上げると、「世間」との軋轢が生まれてしまう。「哀れな障害者」には同情的な世間は、彼らが「主張」を始めるとたちまち手のひらを返すからだ。そうして働けるか働けないか、役に立つか役に立たないかで選別し、生存を否定、あるいは条件つきにしようとするあらゆる力に対し、彼らは全力で抗う。「青い芝の会」の行動綱領には「われらは強烈な自己主張を行う」「われらは愛と正義を否定する」「われらは問題解決の路を選ばない」という、一見「過激」ともとれる言葉が並ぶ。このような当事者運動が70年代に始まっていたことに驚愕し、彼らの言葉がまったく古くないどころか、目を覚まさせてくれるような躍動感に満ちていることにただただ驚いた。
「母よ、殺すな」。このような言葉を言わなければいけない現実はあまりにもつらい。だけどこの本を読んで、改めて「生きる」ことについて、考えている。
「世界の当時者になる」VOL.71、『ビッグイシュー日本版』128号(2009/10/1)より転載
そして、雨宮さんの書評のおかげもあって、ついに『母よ!殺すな』が第2版へと向えることになった。復刊して2年、私にしてみればもっと早くにという気もするにはするが、何にしてもめでたい。そして、単に刷増しではなく、色々と考えている。
まず一つ、図々しくも雨宮さんに帯をお願いしてみたら、なんと「ぜひ、書きたい」とおっしゃってくださった。現在考えていただいているところだ。お楽しみに!
もう一つ、復刊時に、すずさわ書店版では未収録だった横塚さんの書き物をかなり補遺したのだが、同志社の廣野俊輔さんが、まだ拾えていなかったものを見つけ出してお送りくださった。以下の横塚さんの書き物を今回の第2版で更に追加させていただこうと考えている。
「回想」(マハラバの総括文)、「地域社会と障害者の姿勢」、「重症児殺害事件その後」、「キャンプ報告」、「役員推薦を辞退します」、「青い芝再出発にあたって」、「団結こそ解放への道――藤田正弘氏自殺への抗議行動によせて」、「文部省の方針と法律」、「77年年頭にあたって」。復刊初版を買ってくださった方々には申し訳ない気もするが、見つかった以上、読んでこれは是非入れなければと思った以上、入れるしかないと思った。お許しを、そして出来れば第2版も是非お手許に……。
準備を進めている第2版は、早ければ年内ギリギリに、遅くも年明け早々には出来てくる予定だ。
雨宮さん、廣野さん、初版をお買い上げいただき読んでくださった多くの皆さん。ありがとうございました。そして、まだ『母よ!殺すな』を手にとっていない皆さん、どうか楽しみにお待ち下さいますように。