12月29日の午後九時過ぎ、まだ働いています。
今年は17点の本たちを世に送り出しました。色んな人の力を借りて、何とか生活書院の4年目が暮れようとしています。
「働く」ということをまたこの頃考えています。
年明け早々に横塚さんの『母よ!殺すな』の第2版を出すのですが、そこにあらたに補遺する「地域社会と障害者の姿勢」という文章の中で、横塚さんは以下のように書いています。
「肉体的に劣った我々障害者が、なぜ肉体労働において健常者と競わなければならないのであろうか。その必要性はどこにあるのであろうか。労働することが正義であり善であるとする考え方は長い間人間を支配してきた。それは物を作る(生産する)ということが至上命令とされていたからである。<略>たとえ寝たきりの重度者でも生きる権利はあると言われるが、私にいわせれば、彼等も社会の一員であり、そのままの姿で社会に参加しなければならない。ウンコをとって貰う(とらせてやる)のも社会のためなのである。とにかく我々障害者問題に関しては従来とは違った尺度の思考法が要求されよう。」
一方その文章の後段では以下のようにも、
「形態のちがいこそあれ、人間だれにとっても働くということは自然の姿である。生きていて何もしないことは辛いことであり、不可能なことである。だから人間がその能力に応じて働くのは自然であり、物を生産することは本来苦でなく楽しみであるべきで、従ってそれは他人から押しつけられるべき性質のものではさらさらないのである。労働と一口にいっても、彼等が言うように肉体をすり減らすことばかりが労働ではあるまい。知的な労働・或は知能的生産というものがある。詩、俳句などをつくることも労働であり、古典や歴史・哲学などの研究をするのも立派な仕事である。」
「働けるから、働いているからえらいと言うな」は度々言われていることですし、「ウンコをとらせるのも労働だ」というのはあまりに有名なフレーズで今回補遺する文章が初出ではもちろんありません。ただ、こうしてあらためて横塚さんの未収録の書き物を読んでいると、これまた当たり前のことですが、横塚さんは「労働」そのものの価値なりなんなりを否定しているわけではないということがよくわかります。「ウンコをとらせるのも」といって、その枠組みを大きく考え直そうとするわけで、これはとてもとても大きいことなのですが、それでも「労働」という概念そのものを「いらない」としているわけではない。『母よ!殺すな』の解説で立岩真也さんがお書きになっているように、横塚さん自身は「えらいと言うな」と言いつつもよく働いた人でした。
最近お話を伺ったある社会福祉の研究者の方も、例えばベーシック・インカムに全面的に乗れないというときの理由として、「労働」を通して社会と繋がっていくという大事なことが揺るがされないか、といった趣旨のことをおっしゃっていました。
でも、やはりどこかで「労働」「働く」ということ(その枠をいくら広げたとしても)ではなく、社会に在る、生きているということ、その意味合いというか価値意識というか、そこにこだわっていかないと、横塚さんが残したものを引きうけつつ、しかし考え続けるということにはならないのではないか。そしておそらくそれは知的や自閉や精神やといった人たちの生きて在る姿と何らか関わってくるのではないか、そんなことをまた来年もわからないなりにゆっくりと、色々な人に教えてもらいながら考え、そして出来れば本にしていきたいものだと、思ったりしています。
来年もめんどくさくも、実は結構面白いことを、しつこくやっていこうと思います。
皆さんも良いお年を!