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2010年07月 アーカイブ

2010年07月14日

書評情報 4月下旬〜7月中旬現在

久しぶりの書評情報更新です。以下敬称は略させていただきます。

4月 吉村夕里『臨床場面のポリティクス』出版ニュース4月下旬号
5月 前田拓也『介助現場の社会学』部落解放6月号、評者:桜井厚
  立命館大学生存学研究センター『生存学vol2』出版ニュース5月中・下旬号
  西倉実季『顔にあざのある女性たち』インパクション174号、評者:阿久澤麻理子
  トマス・ポッゲ『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』出版ニュース6月上旬号
  倉石一郎『包摂と排除の教育学』図書新聞2967号、対談:倉石一郎×好井裕明 
6月 三島亜紀子他『妖怪バリャーをやっつけろ!』ふぇみん2925号
  すぎむらなおみ他『発達障害チェックシートできました』ふぇみん2926号
7月 すぎむらなおみ他『発達障害チェックシートできました』図書新聞2972号、評者:三村洋明
  吉村夕里『臨床場面のポリティクス』看護学雑誌8月号じゅあ44号
  三島亜紀子他『妖怪バリャーをやっつけろ!』ナーシング・トゥディ8月号
  ピープルファースト東久留米『知的障害者が入所施設ではなく地域で生きていくための本』ふぇみん2929号

クリーンな世の中はそんなに良いのかということについて

相撲をめぐる情況が喧しいことになっている。大勢は、理事会に外部から人を迎えるだとか、公益法人格をはずすだとか、相撲茶屋の見直しだとか、部屋制度そのものをなくして力士は協会預かりにしろだとか、とにかく「反社会的勢力」を排除して、クリーンなスポーツにということらしい。

何か勘違いをしている。これだとそのうち、力士はみなスポーツ刈り、行司は蝶ネクタイかなんかして出てきかねない。そんなものを誰が見たいと思うのだろうか。髷を結って、大仰な土俵入りだの弓取りだのをし、キンキラリンの衣装着て軍配もって、とても大人4人も座れそうにない升席で、焼き鳥食って酒飲みながら見るから、相撲なのだ。スポーツではない。興行であり芸能であり、自分で金勘定などしないような人たちがやっているから、浮世離れしているのだ。巡業も含めた興行全体を通してのその様式があるからこそ、浮世の憂さを忘れることができる空間であり、田舎の親に一度見せてやるべえとなる。それをすべて良しとするわけではないが、そういうものとして成立してきたことは間違いないだろうと思う。

封建的だ保守的だということにそれはなるのかもしれない。閉鎖的だと言われればそれもそうだろう。暴力団の資金源になっていると言われればまたしかりかもしれない(そのことを良しとしているのでは勿論ない。いちいち断らないと、短絡して「じゃあオマエは暴力団を容認するのか」となる。誰もそんなことは言っていない)。だが、あえて言えば芸能や興行には成り立ちからいって、そうしたものが寄り添ってしまっているのであり、力士や芸能の世界に生きる人は、几帳面で時には抜け目なく立ち回りつつ日常の経済社会を生きていく多くの人々とは、違う世界を生きているのではなかったのか。社会人たれ、その模範たれという説教は私にはとても胡散臭く聞こえる。

「クリーンな社会」と言われてしまうと、みな黙らざるを得ないような雰囲気も逆にとても怖い。「反社会的勢力」で括られたらなんでも排除OKになってしまう。いや、暴力団は別だと言うかもしれないが、個別個別の成り立ち方、関係性を見ないで一派一からげに「排除」とされる社会になってしまったら、次は形と方法を変えて、別の対象にだって襲いかかってくるかもしれない(最初は限定的に言っていて後になったら何にでも適用なんてのはよくある話だ)。雰囲気としての「正義」が社会を覆うことの息苦しさも、もっと想像するべきだと思う。

この先、スポーツ相撲クリーン相撲に嫌気がさした人たちが、行き過ぎて保守的な興行を別枠で始めるなど、もしあったとするとどうなるだろう。落語にしろ、歌舞伎にしろ、閉鎖的な社会で培われた部分が大きいにせよ、大衆芸能として人々の目に晒されてきたからこそ、今に生きる活力を得てきたはずだ。「クリーン」と「復古」に分かれてしまうなら、その活力からはもっとも遠い、とっても退屈な出し物が提供されることになるに違いない。

2010年07月27日

愛おしいものを書くということ――『手招くフリーク』

今週末から書店に並ぶことになる、『手招くフリーク』は障害学のジャンルに括られる本としてはかなり異質なものだろうと思う。万人から好まれる本であるとは言えないだろうし、この人がこのことを書くのかと違和感をもつ読者もいるだろう。まぎれもなくこれは障害学の本だが、一方で、障害学が扱ってこなかったり落としてきたかも知れないものにこだわったという意味では、障害学の本ではないのかもしれない。

筆者の一人、矢吹康夫さんが本書を紹介する一文に書かれた、「表現されたものをただ批判するのではなく、ある種の愛をもって論じるというスタンスは本書全体にも通底しており…」は、まさしくその通りで、編著者の倉本智明さんの「友部以前と以降で、ぼくの見る風景は変わった。それは幸運なことであったように思う。世界なんて、そんなにすばらしいものじゃない」や、土屋葉さんの「『そんなキミが好き』のみによって回収されるのではない障害の肯定という視点を入れた、少女マンガを読んでみたいと思う」といった文章はそれを物語っている。偏愛する対象があるということ。それを書くということ。むろん独りよがりのものであってはならないし、愛すればこそ突き放してということがきちんと担保されていることを前提にしつつ、批評という行為の一つの大事な場所にそれはやはり位置しているだろうと思う。

この本は、法や制度、お金や分配などを扱ったもののように、広く読まれたりあるいは実務に関わって役に立つといったことはないかもしれない。ただ、有用性のみが本の価値を決定するものではないのであって、この本を世に送り出せたことが版元の私にとって大きな喜びであることは、間違いのない事実だ。願わくはより多くの読者の手に届かんことを、と思っている。

最後に、倉本さんの「序」から少しだけ引用させていただく。
「表現への規制をめぐる議論に参加する人たちのあいだに、その表現が置かれた<場>に認められる独自な作法や感受性への理解はどれだけ共有されているだろうか。労働や所得保障をめぐる議論をすすめる際、アイデンティティや実存をめぐる問題がそこに直結していることを、人びとは前提しているだろうか」


ps:昨晩はじめて自分の住んでいる場の火災を体験した。賃貸マンションの階下の一室が燃えた火事で類焼があったわけではなく、その部屋の方以外に被害が及ぶことはなかった。ただツイッターであるかたがおっしゃっていた、たとえ軽微な火災であったとしても、失火もとの部屋の方が従前どおり気持ちよく暮らしていけるのか、我々他の居住者の態度はどうなっていくのか、という問いはなかなかに重い。
そのこと自体がその場でもつ意味と、そのことの結果を関係性の中でどう捉えて排他的にならないありかたを目指すかは、延長線上に置かれてストレートに解決できることではないのだろう。それはさまざまな局面で出現し、そして、そう簡単に「私は」などと言えることではないとあらためて。

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