今週末から書店に並ぶことになる、『手招くフリーク』は障害学のジャンルに括られる本としてはかなり異質なものだろうと思う。万人から好まれる本であるとは言えないだろうし、この人がこのことを書くのかと違和感をもつ読者もいるだろう。まぎれもなくこれは障害学の本だが、一方で、障害学が扱ってこなかったり落としてきたかも知れないものにこだわったという意味では、障害学の本ではないのかもしれない。
筆者の一人、矢吹康夫さんが本書を紹介する一文に書かれた、「表現されたものをただ批判するのではなく、ある種の愛をもって論じるというスタンスは本書全体にも通底しており…」は、まさしくその通りで、編著者の倉本智明さんの「友部以前と以降で、ぼくの見る風景は変わった。それは幸運なことであったように思う。世界なんて、そんなにすばらしいものじゃない」や、土屋葉さんの「『そんなキミが好き』のみによって回収されるのではない障害の肯定という視点を入れた、少女マンガを読んでみたいと思う」といった文章はそれを物語っている。偏愛する対象があるということ。それを書くということ。むろん独りよがりのものであってはならないし、愛すればこそ突き放してということがきちんと担保されていることを前提にしつつ、批評という行為の一つの大事な場所にそれはやはり位置しているだろうと思う。
この本は、法や制度、お金や分配などを扱ったもののように、広く読まれたりあるいは実務に関わって役に立つといったことはないかもしれない。ただ、有用性のみが本の価値を決定するものではないのであって、この本を世に送り出せたことが版元の私にとって大きな喜びであることは、間違いのない事実だ。願わくはより多くの読者の手に届かんことを、と思っている。
最後に、倉本さんの「序」から少しだけ引用させていただく。
「表現への規制をめぐる議論に参加する人たちのあいだに、その表現が置かれた<場>に認められる独自な作法や感受性への理解はどれだけ共有されているだろうか。労働や所得保障をめぐる議論をすすめる際、アイデンティティや実存をめぐる問題がそこに直結していることを、人びとは前提しているだろうか」
ps:昨晩はじめて自分の住んでいる場の火災を体験した。賃貸マンションの階下の一室が燃えた火事で類焼があったわけではなく、その部屋の方以外に被害が及ぶことはなかった。ただツイッターであるかたがおっしゃっていた、たとえ軽微な火災であったとしても、失火もとの部屋の方が従前どおり気持ちよく暮らしていけるのか、我々他の居住者の態度はどうなっていくのか、という問いはなかなかに重い。
そのこと自体がその場でもつ意味と、そのことの結果を関係性の中でどう捉えて排他的にならないありかたを目指すかは、延長線上に置かれてストレートに解決できることではないのだろう。それはさまざまな局面で出現し、そして、そう簡単に「私は」などと言えることではないとあらためて。