お盆休みの前に――臓器移植がよいこととされることについて
交替で休んであけておくというわけにもいかず、明日から17日まで事務所もしめて盆休みをとらせていただきます。
このところ気持ちがザワザワするニュースが続きました。新聞など読んでいると、こんなこと言うのは少数派なのかもしれませんが、臓器移植が家族の同意だけで認められ、切り分けられた臓器が各地で利用され、これを「命のリレー」のはじまり、などとする。このことが存外すんなりと世間に受け入れられ、「私たちもいざというときのために話し合いしておこうか」といった光景が好ましいものとして語られる。本当に恐ろしい時代が始まったものだと思います。
じゃあ、「オマエは5年も6年も臓器を待ち続けている、いたいけな子どもとその家族のことをなんとも思わないのか」と言われる。でも、くり返し言わざるを得ないのですが、そのことと、家族同意だけでいわば「殺されていい命」があるなどということとは、同列においていい話ではないのです。障害者とりわけ知的の当事者の姿などここではひとかけらも考えられていません。「いらない命」と「救うべき命」を、「善意や同情」というオブラートにくるんで、実は冷徹に切り分けていく事態がここにある、といったら言いすぎでしょうか。ネットでは死刑囚の人の臓器ならどうだなどということまで、平気で議論する人までいます。暗澹たる気分とはこのことです。
死刑の執行についても裏切られた気持ちで一杯です。他になんのとりえがなくとも、少なくもこの政権の間はあるいはこの法務大臣の間は死刑は執行されないだろう、その一点だけで票をあの党に入れた(私はそうでした)人もいるのではないでしょうか。社会の安寧と言う。「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」と言う。しかし、またぞろそれでも言わねばならないのですが、そのことと、国家が人を殺すことを認めてよいということとは、同列におかれていい話ではないと思うのです。冤罪の可能性のことももちろんあります。ただそれだけではないと思います。国が人を殺すことで、罪と罰の意味すら奪ってしまう、何もなかったことに却ってしてしまう、なぜと考えることは止めよと私たちすべてに強要する(その意味で終身刑にも私は反対です)。それはとても怖いことです。
ザワザワします。でも考えるのは止めず、それはどうしても納得しがたいということは、最後までぶつぶつぶつぶつ文句を言っていこうと思います。