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2010年09月 アーカイブ

2010年09月15日

それでも冷笑や諦観ではなく

ある集まりで高名な研究者の方がおっしゃっているのが耳に聞こえてきた。おおよそ以下のようなことだ。結局この社会のすべてのデータ、使うに価するデータは時の政府と官僚が握っていて、外には出てこない。全体そういうものなのだ。政府中央に近づかなければデータは取れないし使うことも動かすこともできない。自分は(近いところにいるので)使えるし、結果きちんとした研究成果が出せて、政策策定にも関与できる……。たぶん、そういうことであるのだろう。ただなんとなく、やっかみかもしれないが、例えば、サヨク学生運動あがりの人が政治家や官僚を目指すときの言い訳、あるいは与党でなければ何も仕事は出来ぬと涙ながらに離党する人の弁と、同じような香りがその時漂った気がしたのだ。

みなさん、ごくごく真面目にそう思っているのである。説得力もありげだから、そういうものなのだろうなあと思ってしまう。が、しかし……
「取り込まれる」というのは、こういうことをさすのではないかと思ってしまうのは、私だけなのだろうか。知らずとそう遠くないうちに、権力側のご意向を「良心的に」裏打ちしていく役割を担わされることになりはしないだろうか。

本音を言えば、政府に参与している高名な研究者も、政治家や官僚になって「国のため、次世代のために命を堵して(こういう言葉を言ったり聞いたりして感動する感覚がそもそも気持ち悪い)働く」と言っている人も、政権側にいなければ何もと納得顔で言う人も、(全員がそうだとは言わないが)結局はなにもしてくれはしないと思っている。手柄は全部独り占めにして、失敗したら何もなかったかのように違う場所に移動するに違いないと思っている。

でも冷笑や諦観では何も変わりはしないのも事実だろう。議員や官僚や政策立案に関わる研究者がいなくていいというわけにはいかず、現に真っ当なかたもいるのだろうから、それはそれで働いていただかなくてはならない。自分たちが国を動かしている、自分たちだけがデータを握りかつ動かせるといった驕りを許さないように、社会運動側が監視しなくてはいけない。

当事者のみなさんが多数参画して今議論が進んでいる、障がい者制度改革推進会議及び総合福祉部会にしても、やはり冷笑と諦観は何の力にもならない。孤立させないために、議論がおかしな方向にもっていかれないために、外側に分厚い応援と監視の層が存在することをいつも意識させることなんだろうと思う。それでも十全な制度などできないのかもしれないが、どういう過程で作られたかは、その後も続く終わりのない闘いの、少なくともかなり有効な武器になるはずだ。

2010年09月29日

「教育」へのなんとなしの違和について

小社刊、倉石一郎さんの『包摂と排除の教育学』に以下の一文があります。
 
 …教育が「非-人間」を「人間」化する同化的営みであることが問題ではない。「人間」であるための資格要件として、教育可能性がたえず参照されることが問題なのである。ここには「educableな存在(=人間)だけに教育は施すことができる」というトートロジーが読み取れる。そしてマイノリティ〈包摂〉の教育も、この「論理」から逃れられない。(同書50ページ)
 …解放教育を主要な発信源とする〈包摂〉の言説は、人間と非人間とを隔てる境界線を消滅させたのではなく位置をずらし、子ども一人一人の内部に引いた。〈略〉「荒れ」という徴候さえ確認されれば、今や非-マイノリティの子どもさえもが線引き対象となりうる。(同書51〜52ページ)

これも小社刊、すぎみらなおみさん+しーとんの『発達障害チェックシートできました』の中には以下の一文があります。

 …1960年代の教師は、生徒に差別感をもたせたくないがために「区別は差別」であると声をあげた。この運動のためのスローガンは、まずは区別したうえで、区別しない配慮をすることによって「差別をなくす」という実践知に基づくものであったろう。だが、スローガンとして定着する過程において実践知がおきざりにされ、「区別そのものが悪」という言説が形成されてしまった。〈略〉そして「区別しないで配慮する」とは、教員にとっては「特別扱いしない」ことを意味するかもしれないが、当該生徒にとっては「必要な配慮がなされない」ことと同義になるのではないだろうか。(同書108ページ)

お二人の主旨とは離れるかもしれませんが、私が「教育」に感じる違和について、様々なことを教えてくれている気がします。それが解放教育や在日朝鮮人教育や障害児教育などの「ともに」をベースにした所謂人権教育であっても、違和は変わりません。語弊があること理解不足は認めた上で、あえて言わせていただくと、善意であれ、いやであればこそ、実はそこにいる児童なり生徒なりの学ぶこと学校で生きていくことその日常を保障するのではなく、教育を「施す」側の名分・都合・気持ちよさを守ることに、もしかするとなっていはしないか。万に一つもその可能性はないと言えるだろうか。
内部に線引きされたり、特別扱いされないかもしれないけれど「ほうっておかれる」子どもたちにとって、それはいったいどんな気分なのだろう。その現実への想像力を持たないまま掲げられるスローガンってなんだろうと、やはりどこかで思ってしまいます。

もちろん様々な教育実践の中に素晴らしいものがたくさんあることは前提した上でですが、学校教育というものが、あるいは教育者が真面目であればあるほど抱えているかもしれない、内在的な罠のようなものがあるのではないか。それが私が感じる違和感にどこか繋がっている気がしなくもないのです。

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