ある集まりで高名な研究者の方がおっしゃっているのが耳に聞こえてきた。おおよそ以下のようなことだ。結局この社会のすべてのデータ、使うに価するデータは時の政府と官僚が握っていて、外には出てこない。全体そういうものなのだ。政府中央に近づかなければデータは取れないし使うことも動かすこともできない。自分は(近いところにいるので)使えるし、結果きちんとした研究成果が出せて、政策策定にも関与できる……。たぶん、そういうことであるのだろう。ただなんとなく、やっかみかもしれないが、例えば、サヨク学生運動あがりの人が政治家や官僚を目指すときの言い訳、あるいは与党でなければ何も仕事は出来ぬと涙ながらに離党する人の弁と、同じような香りがその時漂った気がしたのだ。
みなさん、ごくごく真面目にそう思っているのである。説得力もありげだから、そういうものなのだろうなあと思ってしまう。が、しかし……
「取り込まれる」というのは、こういうことをさすのではないかと思ってしまうのは、私だけなのだろうか。知らずとそう遠くないうちに、権力側のご意向を「良心的に」裏打ちしていく役割を担わされることになりはしないだろうか。
本音を言えば、政府に参与している高名な研究者も、政治家や官僚になって「国のため、次世代のために命を堵して(こういう言葉を言ったり聞いたりして感動する感覚がそもそも気持ち悪い)働く」と言っている人も、政権側にいなければ何もと納得顔で言う人も、(全員がそうだとは言わないが)結局はなにもしてくれはしないと思っている。手柄は全部独り占めにして、失敗したら何もなかったかのように違う場所に移動するに違いないと思っている。
でも冷笑や諦観では何も変わりはしないのも事実だろう。議員や官僚や政策立案に関わる研究者がいなくていいというわけにはいかず、現に真っ当なかたもいるのだろうから、それはそれで働いていただかなくてはならない。自分たちが国を動かしている、自分たちだけがデータを握りかつ動かせるといった驕りを許さないように、社会運動側が監視しなくてはいけない。
当事者のみなさんが多数参画して今議論が進んでいる、障がい者制度改革推進会議及び総合福祉部会にしても、やはり冷笑と諦観は何の力にもならない。孤立させないために、議論がおかしな方向にもっていかれないために、外側に分厚い応援と監視の層が存在することをいつも意識させることなんだろうと思う。それでも十全な制度などできないのかもしれないが、どういう過程で作られたかは、その後も続く終わりのない闘いの、少なくともかなり有効な武器になるはずだ。