小社刊、倉石一郎さんの『包摂と排除の教育学』に以下の一文があります。
…教育が「非-人間」を「人間」化する同化的営みであることが問題ではない。「人間」であるための資格要件として、教育可能性がたえず参照されることが問題なのである。ここには「educableな存在(=人間)だけに教育は施すことができる」というトートロジーが読み取れる。そしてマイノリティ〈包摂〉の教育も、この「論理」から逃れられない。(同書50ページ)
…解放教育を主要な発信源とする〈包摂〉の言説は、人間と非人間とを隔てる境界線を消滅させたのではなく位置をずらし、子ども一人一人の内部に引いた。〈略〉「荒れ」という徴候さえ確認されれば、今や非-マイノリティの子どもさえもが線引き対象となりうる。(同書51〜52ページ)
これも小社刊、すぎみらなおみさん+しーとんの『発達障害チェックシートできました』の中には以下の一文があります。
…1960年代の教師は、生徒に差別感をもたせたくないがために「区別は差別」であると声をあげた。この運動のためのスローガンは、まずは区別したうえで、区別しない配慮をすることによって「差別をなくす」という実践知に基づくものであったろう。だが、スローガンとして定着する過程において実践知がおきざりにされ、「区別そのものが悪」という言説が形成されてしまった。〈略〉そして「区別しないで配慮する」とは、教員にとっては「特別扱いしない」ことを意味するかもしれないが、当該生徒にとっては「必要な配慮がなされない」ことと同義になるのではないだろうか。(同書108ページ)
お二人の主旨とは離れるかもしれませんが、私が「教育」に感じる違和について、様々なことを教えてくれている気がします。それが解放教育や在日朝鮮人教育や障害児教育などの「ともに」をベースにした所謂人権教育であっても、違和は変わりません。語弊があること理解不足は認めた上で、あえて言わせていただくと、善意であれ、いやであればこそ、実はそこにいる児童なり生徒なりの学ぶこと学校で生きていくことその日常を保障するのではなく、教育を「施す」側の名分・都合・気持ちよさを守ることに、もしかするとなっていはしないか。万に一つもその可能性はないと言えるだろうか。
内部に線引きされたり、特別扱いされないかもしれないけれど「ほうっておかれる」子どもたちにとって、それはいったいどんな気分なのだろう。その現実への想像力を持たないまま掲げられるスローガンってなんだろうと、やはりどこかで思ってしまいます。
もちろん様々な教育実践の中に素晴らしいものがたくさんあることは前提した上でですが、学校教育というものが、あるいは教育者が真面目であればあるほど抱えているかもしれない、内在的な罠のようなものがあるのではないか。それが私が感じる違和感にどこか繋がっている気がしなくもないのです。