まるまる3ヶ月が過ぎても、まだ被災地では仮設住宅も満足に建たず、福島では逃げるに逃げられない状態が続いている一方、世の中はみなあげて「脱原発」だいや「そうでない」とその一点の議論になっている。これはお叱りを受けるのを覚悟だが、「脱原発」に今は乗っておけ、乗って別のことに利用してやれという人も、相当数いるのではないか。だって、あの人も、あの人だって、何か突然言いだしたし……。もちろん大事な議論なんだろう。でも、よくよく中身は見ないといけないと思うし、その手前でやっておくことや考えることもたくさんあるように思う。
補償はもちろん大事だ。金がないことには命は回らない。その先に、被災地の人々の所得保障、たとえばベーシックインカムの話なども、大事なこととして出てくるのだろう。でも一方で何を拠りどころにして暮らしてきて、これからも暮らしていくつもりだったか、その話がもうほとんどできなくなりつつある、そのことの残酷さにもう少し眼を向けても良いのではないかと、私は思う。
成長の要請が福島の浜に原発を作らせ、莫大な金が地域に落とされ、ジャブジャブ落とし続けてもらわないと成り立たない、そういうものへと村は変質し固定化された。福島という県全体の経済もまたということを考え合わせれば、その枠組みに隷属させられてということは確かなのだろう。
ただ、同じ福島ではあるけれど、私が生まれ育った中通り・谷間の村の姿に、そうした絵解きがぴたりとはまるかというと、どうにもその実感がない。貧乏だからといって、贅沢への欲望がうずまいていたとは思えないし、むしろ(私も含め)人がどんどん流出し村が年寄りばかりになっていく中で、その暮らしを支えていたのは、わずかなりとも種蒔く土地があり自分で作って自分で食っていく(少しは人に食べてもらうのも喜びだ)という毎日というのは、けっこうしっかりしていて大丈夫なものだといった、ごくごく素朴な前近代的と言われればそれまでといった価値観だったように思う。
そのことの評価を今どうこう言おうとしているのではない。でも、それを恃みとして生きてきた人たちが住む村もあるというのは事実だ。今、消されてしまおうとしていること、もう語ってもしょうがないとさせられようとしていることの一つにそういうこともあり、それはやはりとても残酷なことだし、金で済むという話でもたぶんない。
もう数値はそこに留まっていていいようなレヴェルではない。そのことも村の人たちは重々分かっている。でも逃げて(国は逃げさせてもたぶんくれないが)、逃げられたとしてかの地で何を拠りどころにして生きていけばいいのかとも思う。今更あたらしい社会をあたらしい生き方をと言われても戸惑うばかりだし、それにもうだいぶ疲れた……。
広がりつつあるのは、たぶん、静かな絶望と小さいけれども深い諦めだ。