年の終わりに六たび
年末に「年の終わりに」というタイトルをつけてブログを書くのが6回目になる。今年がこういう年になろうとは、やはり思いもしなかった。
両親が一時避難から帰って行った3月のブログで、私は次のようなことを書いた。
「「福島」という名前に対する長い長い忌避や差別の感情が生まれ、日を重ねるごとにそれは強まっていくだろう。外部からの目だけではない。同じ「福島」の内側でも浜通り、中通り、会津との間で互いへの不満や、もっと言えば恨みをも含めた分断が生れてくるだろうと思う。それでもその中で生きていくしかない人たちがいる。反原発云々以前に、今回の事故の何が憎いかと言って、そういう差別や分断を人々の間にもたらしてしまったことだ。それを許さないと言うことは簡単だが、実際には容易なことではない。」
事態は予想した以上に悪くなっている。
思い出してみれば、念願の雑誌『支援』創刊号の校了が3月8日、ある種の達成感でいっぱいだった。気分のよい春になるはずだった。そして3月11日。しばらくは津波のことで頭がいっぱいだった。彼女の実家、岩手三陸の惨状はテレビの画面を直視することすら許さないというものだった。実家は波にさらわれ、近しい人も含め多くの人たちを失った。今も厳しい寒さの中、仮設での暮らしが続く。
その後原発がああいうことになった。まだ新幹線はおろか在来線も黒磯までしか動いていない中、車で避難してくる両親をその黒磯駅まで迎えにいった。高速東北道は自衛隊などの関係車両しか入れない(包み隠さず言えばあのとき「自衛隊」を頼もしく感じる自分が確かにいた。非常時の「力」への平伏とそれによる支配はこのようにして組織されていくのかもしれない。自分の普段の構え・考え方など実は脆いものだと実感せざるを得なかった)ので、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、断続的な停電で信号もつかない暗闇の国道4号をひたすら走ってようやく両親を埼玉の自宅に連れてきた。
そして「作付停止」のニュースを見て、「死ぬ人が出る」と言って両親は田舎に戻り、4月になり私はちいさな子どもと彼女を大阪の友人の家に一時預かってもらった。
一週間ほどで子どもと彼女は埼玉に戻り、福島に戻った私の両親も、仮設に連休前にようやく入ることができた彼女の岩手の両親や姉も、それぞれのいらだちや不安と折り合いをつけながら、どうにかこうにか暮らしてきた。
私はツイッターでくどいぐらいに福島のことをつぶやき続けた。「怨嗟」を巻き散らかしているとの言葉もいただいた。被害者意識にとりつかれているとも言われた。おそらくそうなのだろうと思う。反論はできない。
昨日だかの新聞に双葉町が中間貯蔵施設になったと書いてあった。そうするしかないだろうと思う。最終処理施設を県外になどということも無理な話だろう。比べてはいけないかもしれないが、沖縄の場合とは問題の所在がまったく違う。たぶんこちらは本当に県外には「動かせない」。
それでもと思う。「動かせない」「動かない」ものは汚れた土だけではない。「汚れた」ことも承知の上でそこで生きていくとした「人」が現にいるのだ。無駄な除染に金をかけるなら子どもを避難させることに金を使えという理屈に反対するつもりはない。ただ、それでも残る人たちに、忌避や差別の感情をこれ以上強めてはいけないと思う。
そこにいてそこで暮らし続けていることは知っているよ。
「3.11(サンイチイチ)」や「フクシマ」という記号で括り、「9.11」などと一緒に置いたりして、眉間にしわよせて知ったような口きいて「あたらしい世界をつくる契機に」なんていう、薄っぺらな話ではないことは、わかっているよ。
せめてそれぐらいは、くどいと言われてもぶつぶつ言っていこうと思っている。
小さな版元も来年は7年目を迎えます。この震災の前からもそして今もずっと、考えなくてはいけないことはたくさんあったし、あり続けています。また変わらず出版という仕事を通してそうした問題群と向き合っていきたいと思います。
今年1年のご支援に感謝し、来年もまたとお願いして
良い年をお迎えください