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年のはじめに2012 福島のことおさらい

毎年1月のブログは「年のはじめに〇〇〇〇」と名付けて、割に希望に満ちた(自分にとってのだが)話を書いたり本の宣伝をしたりしていたのだが、今年はやはりそういうわけにもいかない。

この10ヶ月近く、私はしつこいぐらいにブログやツイッターで、「3.11」を世界を変える契機にという言い方や、「フクシマ」というカタカナ表記や、避難せずに残り暮らすことを選んだ人たちへの世間のまなざし、そうしたものへの違和感を(恨み言を巻き散らかしていると言われればそうかもしれない)表出してきた。なぜ繰り返し繰り返しそうしてきたのか。もう一度だけおさらいしてみようと思う。

私は、30年以上も前、19の春に、大学に進学することで福島の当時は伊達郡だった、谷間の過疎の村、月舘から逃げてきた。したがって私がこの間つぶやいてきた対象は福島の中でも伊達市や伊達郡や福島市といった地域になる。原発立地地域や逆に会津地方などはまた違う問題を持つだろう。どういう立場から論じるにせよ、いっしょくたにすることは良くないだろうとは思う。

私が生まれ育った地域は家父長制ベースの農村社会であり、そうしたコミュニティのもつ閉鎖性は、たとえばこの間の避難所などでの性別役割の強要といった問題の温床になっていたと言えるかもしれない。コミュニティ再建というなら、「復古」ではなく、さまざまあるそうした負の側面を解消する方向でなくてはならない。そこまではいい。まったく異論はない。
ただ、そのこととは別に、「あぶないなぜ逃げない」「新天地でいきいき暮らせばいい」「瓦礫はダメだが人は受け入れる」という世間の声の中に、「あんな過疎の村にずっと暮らしたいなんて本当に思っているのか」「汚れた土地にしがみつくなんて気がしれない」という気分が透けて見えるように(私には)思われるのだ。そこで顔に皺を刻み腰が曲がっても畑にでるのを楽しみに「現実に暮らしてきた/いる」人たちの顔を見ようとしない。敬意がほとんどと言っていいほど感じられない。人の暮らしってそんなに軽いものではない。
逃げてはいったが、盆暮れには帰省する人たちもたくさんいて、小学も高学年になれば長い休みにひとりで遊びにくる孫もいるかもしれない。ふだんは顔を見られなくても気にはかけていて、電話もたまにはする。新米がとれたら真っ先に贈るし、あっちのマチからも誕生日だかには花なんかが贈られてくる。そんな事柄も組み込んで、「過疎の村」の日常はけっこうしっかりとまあまあ楽しく回ってきた。そのことを本当に理解してあなたたちは言っているのか。それが私の苛立ちのたぶんほとんどすべてかもしれない。

そうした息が詰まるコミュニティから逃げてきたんでしょあなたは。なぜ今頃になって持ち上げるの、と言われるかもしれない。後ろめたさはあるが、持ち上げているつもりはない。逃げてはきたけれど、残っている人を侮辱したことはないつもりだ。付言すれば、「東北的な絆礼賛」とやらの延長線上の話をしているわけでもない。ただ、そうやって暮らしが回ってきた場所があって、それはそれとして尊重されなければならない、とだけ言っている(首都圏に生まれ育った複数の方から、「阪神淡路にはリアリティを感じるが、東北には感じない」といった意味のことを伺った。さまざまな要素が重なってのことだから軽々には言えないが、中央と地方、中心と周辺といった言葉が頭をよぎらないでもなかった)。

東電であり国に第一義的な責任がある。他のことを持ち出すのはかえって責任の所在をあいまいにし、物事の進展を遅らせる。たぶんそれは正しいのだろう。ただ、もちろん私が田舎から聞いた話に限定してしか言えないが、残って暮らしている人たちを苦しめているものの一つに、「世間のまなざし」は確実にある。逃げたところでそれは変わらない、あるいはもっとひどくなると思っている人もいる。汚れているもの、汚れているかもしれないもの、汚れていないとされているが信じられないからダメなもの(福島だけでなく宮城であれ岩手であれ)は、一切出すべきでないし受け入れられないという世間に(それが正しいことだとしても)、人だけはいらっしゃいと言われても、「行がね。行ぎだぐね」となるのを誰が責められるだろうか。何が支援かといって、そういう「世間のまなざし」が少しでも変わること――「汚れたもの」を受け入れろと言っているのではない。「汚れたもの」の近くで暮らしている人の姿を心に留め置おくだけでも違うと思う――が、一番の支援かもしれないと思う。

と書けば、おうむ返しに「そういう言い方こそが避難したいと思っている人の足かせになり、苦しめている。それこそ犯罪的だ」と言われる。「避難する人、したくてもできない人には最大限の支援を」と私も言ってきたつもりだが、残っている人のことを中心に言うとき、その言い方はそういう側面もはらむのかもしれない。

でも繰り返し言うしかないのだが、猪飼周平さんもブログでおっしゃっているように、福島の苦しみは「脱原発」の実現だけでは解消されない(問題の所在が違うというだけで、なぜかそこが伝わらずにお叱りを受けることが多いが、私は脱原発がいけないなどと言ったことはない)。簡単に何かと較べたり、一緒において一括りのものとして語ることができるような段階にも、少なくともまだ至っていないとも思う。福島の町や村は「世界が変わる」ための道具でもなく、おぞましき人も住まぬ地でもない。それだけは言えるし、言わなければと私は思っている。

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2012年01月30日 14:39に投稿されたエントリーのページです。

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