半年が過ぎて
ブログを1月に書いて以来もう半年が過ぎようとしている。ここ数年の間で私事がこれほど集中して動いた日々はなかった。
子どもが川崎病に罹患して10日間の入院となったこと。30年来重いリウマチで苦しみぬいてきた福島の母が別の病を得てしまったこと。ザワザワとした日々が続いたし、続いている。
そして世の中は……震災のことについては、すっかりとは言わないが忘れつつあるあるいは忘れようとしている人たちと、極端に言えば「フクシマ」と原発に関わることにのみ非常に強い関心を持ち続けている人たちと、そのどちらでもないまだ先の何も見えぬむしろ絶望だけが強まる震災後のただ中を生きる現地を中心とした人たちとに、分かれつつあるように見える。もちろんその狭間で支援に入り続け考え続けているたくさんの方々がいることは承知しているが、大きくはその三者に分かれ、もはや近づきあおうともしない。できない。
放射能に関わっての「いのち」のことはたくさんたくさん言われ続けているのに、尊厳死や臓器移植や死刑制度のことに関わっての「いのち」のことになると、途端にその声は弱くなり、「命のリレー」などといった繰り返し使われてきた「美談」が紙面で踊り、「役に立つ死」への強迫を世の中あげてやっている。「死をもってしか償えぬ罪」という言葉に何の疑念をもつこともない……この乖離はなんなのだろうと思う。実は、私たちは「いのち」のことではなく「恐怖」のことを語ってきただけなのではないか。「いのち」のことではなく「良い死」のことを語ってきただけなのではないか。それを糊塗するために「いのち」という言葉を使ってきたということは本当になかっただろうか。もう一度考えてみても良いのではないかと思う。
過敏になっているのかもしれない。ひねくれているだけなのかもしれない。でも、「実はこのことが〇〇を救うことにもなる。だからこそそう言っている」といった言い方や、「福島から世界へ!」とキレイに纏め上げられたメッセージなどに、まだ慣れないし乗れない。おためごかし、利用主義といったフレーズがどうしても頭をかすめてしまう。何度も何度もそう思わざるを得ない言葉に刺され続けていると、その慣れない乗れない気持ちを冷静に伝えようと思っても、正直萎えてしまう(という人もけっこう存在するのではないか)。
これが、このところの私の偽らざる実感です。