L判の小さな母の遺影が本棚の間にむりやりねじ込んだような体で置かれていて、やや重い病にも罹患しおとなしくて少し心配していたけれど、4歳になって体力もつき一丁前の口をきくようになってきた上の子と、時々手を合わせたりしている。まあ私は彼女の子どもなので私が炊けば(炊き上がった時に私がいれば)、労働者使い捨てで評判が芳しくないが近くにはそこしかないホームセンターで買った一番安い仏さん用の飯碗に炊きあがったご飯を盛り、湯呑みに水を汲む。夏に母が逝って、もうなのかまだなのか5ヶ月が過ぎようとしている。
その間も様々なコトがあった。先月には女の子がひとり、暮らしの仲間に加わり、一方私は母が病んだのと同じ大腸のポリープを結果的には問題のないものだったが、5つも取ることになり、内心穏やかではない日々が続いた。それはひとりまた子どもがやってきたことの喜びがあるからこその、裏返しの臆病であり恐怖心だったように思う。生きたいというより死にたくないという気分が色濃かった。
娘が生まれたことで、母の生まれ変わりだねと言う人が幾人かいる。そんなことはあるまいと勿論思う。ただ、母の病が5月に分かった時、まさか11月に生まれてくる孫の顔を見ぬまま逝くとは思っていなく、その時母が真顔で「見らんにな」と言ったのに驚いた記憶がある。少しの感懐がなくはない。
来春刊行の雑誌『支援vol.3』に寄せてくださっている児玉真美さんの原稿に、母の作ったあんぽ柿にふれて下さっている箇所があり、読んで咽喉の奥の方がヒリヒリと痛んだ。2011年の2月、福島から来たその甘い柿は、会社のソファの私と児玉さんとの間の小さなテーブルに確かにあった。そのひと月後、大きな災禍が東北を襲い、そして、今、作り手は逝き、代わって作ろうと思ってもその地でその果実を使うことは未だ叶わない。
母は病を得てからなぜあんなに速く逝ってしまったのかと時々考えてみることがある。40年来の重いリウマチで、大好きな畑仕事に出ることは少なくともここ20年はなかったが、父が収穫してきた野菜や果物をキレイに整えビニール袋に小分けにし、坂下の小さな木囲いの「店」に一袋100円で売りに出せば喜んでくれる人もある。ほとんど動かなくなった手だが、ほめられもし少しは自負もあった漬物やら煮物やらを作って子どもや親戚や知り合いに配ったりもする。
そうした、誇るほどのものではないけれど、そこそこ充足した日常、それが奪われたことの鬱屈と喪失感はとても大きなものだったのではないか。そのこととあっというまに逝ってしまったこととは、全く関係がないとは言えないのではないか。そんな風につい思ってしまう。
もう2年近くが過ぎたのか、まだ1年と少ししか過ぎていないのか、どちらもとしか言いようがないのかもしれない。私は、瓦礫のことについて受け入れを「すべて」拒否する理屈には今でも違和感をもっている。ただ、真摯に考え行動に出た人を弾圧するなどということが許されるはずはなく、もう災厄などなかったことにして「列島強靱化」などと言っている連中に比して、どちらを擁護すべきかなど言うまでもないと思う。
その上でしかし、人は東北の海辺で山間で町場でそこかしこで今日のこの時も生きていることは、認められなければいけないと思う。くだらないことやだらしないことはどこにでもあって、それはそれとして批判され乗り越えられるべきだが、「ああなってもまだ云々」と前提もなしに言われると、「何も知らぬくせに」と思わず言いたくもなる。
どこに行っても生きていけるではないかということが、東北の封建制みたようなこととセットで言われる。私もそうして逃げてきた人間なので、一面ではその通りだと思う一方、なぜ残るのかそれどころか海辺にすら戻ろうとするのか、そのことをその地で生きてきた者の身になって考えたことはまずあるまいとも思う。時がある程度刻まれてようやく言えたり考えたりできることもある。小社も来年は震災のことに向き合ってみようと思う。
色々なことがある。自助自立だと言いつのりはては国防軍だ国の誇りだという人たちが、権力の中枢に座るという事態になった。恐怖を煽る政治で差別と排除の意識がさまざまなレヴェルで拡がって、これからのしばらくは、今までもそうだったがそれにもましてとても生きにくい時代になるような気がする。ならば、だからこそ、抵抗する理屈を紡ぎ実践につなげていかなくてはならない。
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昨日、『生の技法(第3版)』の見本ができてきました。たぶんこうしたことが、版元の私にとってやるべきことできることだろうと思います。来年もまた、あきらめず、できることならなるべくは楽しく、仕事をしていこうと思います。
独居となった父が年越しをこちらで過ごすために今日福島から出てきます。これから迎えに出ようと思います。
良い年をお迎えくださいますように。そして来年も変わらぬご支援を!