出口泰靖
第4回
きたえるな? きにかけろ! ボディふぃ~るだー!!の巻
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(1)日々の暮らしで、ボディふぃ~るだー!!
日々の暮らしのなか、わたしは、一回目の連載で取り上げた「キツネさんの手」や、二回目の連載で取り上げた「手のひら返し」という〈身遣い〉をためしてみることがある。
この頃はというと、ボディふぃ~るだー!!として、時折、ヘンシン!しているというよりは、常日頃、いつも、ボディふぃ~るだー!!にヘンシン?している。
たとえば、ゴミを出すとき。そんなときなんかも、ヘンシン?している。
(2)ゴミ出しのときにも、ボディふぃ~るだー!!
わたしの家から、ゴミの集め場まで。けっこうな距離がある。
ゴミ袋を両手にかかえ、「腕っぷし」だけの腕先や手先で、ギュウと持ちつづける。すると、その日のゴミの多さや重さにもよるのだが、これが、かなり、キツイ。(イラスト1)
そんなとき、ボディふぃ~るだー!!にヘンシン?するのだー。
まず、ゴミ袋をもつ手の指を「キツネさんの手」の〈身遣い〉にしてみる(イラスト2)。中指と薬指だけでゴミ袋をもってみる。その際、中指と薬指の根元にゴミ袋を軽くひっかけるようにしてみる。
すると、それまで「腕っぷし」で、腕だけでギュッと持っていた感じから、腕の根元まで、さらに背中の肩甲骨まで、ピーンと張ったようなボディふぃ~るが生まれてくるのだー。
岡田さん曰く、「中指・薬指は構造的にも腕の中心に沿ってあるため、効率よくゴミ袋の重さを伝え、しかも、背中と腕との連動性も引き出してくれる役割を果たしてくれている」(岡田 2015: 50)と説明している。
とくに、中指と薬指を手のひらのなかに巻き込むようにしてみる。すると、「肩甲骨が開いてゆき、背中に適度な張りが出る」と岡田さんは言っている(岡田 2013: 50)。
中指と薬指、なかなかのすぐれもんじゃあ、あるまいか。
そういや、仏像の千手観音像の手指をよく見てみたことがある。よく見てみると、仏具(持物〔じもつ〕というらしい)を中指と薬指だけで軽くひっかけるようにして持っている手がいくつかある。けっこう「キツネさんの手」をしている手がいくつかあるのだ。そういう手指の用いられ方は、なにか謂われがあるのだろうか。
おっと、話が横にそれてしまった。
さてさて、さらに、そこから、くるりんぱっ、と「手のひら返し」もやってみる(イラスト3)。親指を内側に向けながら、手のひらを外側に向け、小指を前に向けてみる。すると、これも、腕先でもっていると肘までの筋肉だけで持っていた感覚から、腕の付け根まで、さらに背中で支えているようなボディふぃ~るを感じるのだー。
「手のひら返し」の〈身遣い〉についても、岡田さん曰く「背中の肩甲骨が広がり、適度な張りが生まれ、背中全体で持つ体勢」(岡田 2015: 49)になるという。
ただ、その体勢でいつづけることも疲れてしまうので、ときおり元の体勢に戻し、そこからまた再び「手のひら返し」(手のひらを外側に向ける)ようにしたらいいですよ、とも述べている(岡田 2015: 49)。
さらにもう一つ、岡田さんによれば、「手のひら返し」の〈身遣い〉では気にかけておきたいことがあるという。先ほども述べたように、「手のひら返し」という〈身遣い〉は、「親指を内側に向けながら、手のひらを外側に向け、小指を前に向ける」というからだのはたらかせ方に気にかけることをいう。
だが、この「小指が前を向く状態」になる動きには、実のところ「小指が内側を通って小指が前を向く」場合と、「親指が内側を通って小指が前を向く」場合の二種類がある。
「小指が内側を通って前を向く」場合、「肩甲骨は内側に寄ってしまい、肩、肘もねじられるようになり、負担がかかる」ことになる。この場合だと、手首や肘、肩の骨が引っ張られるような感じになってしまい、人によっては筋が切れてしまいそうな体感をおぼえてしまう。下手をすると、その筋を痛めてしまいかねない。そう岡田さんは注意をうながしている。
そうではなく、「手のひら返し」という〈身遣い〉では、「親指が内側を通って小指が前を向く」というからだのはたらかせ方をする。すると、肩甲骨は開き、肩や肘の負担はやわらぎ、腕っぷしの腕力とは異なるチカラが生まれる、と岡田さんは述べている。
この「キツネさんの手」と「手のひら返し」の〈身遣い〉であるが、わたしなどは、スーパーで買い物をした後にもヘンシン?している。ゴミ袋と同じような感じで、買い物袋も「キツネさんの手」と「手のひら返し」の〈身遣い〉で持ってみてボディふぃ~るを試しているのだー。
ただ、岡田さんが注意をうながしているように、時にわたしも、「手のひら返し」を試す際、間違って「小指が内側を通って前を向く」ことをしているときがある。それらに気をつけて、気にかけて、ボディふぃ~るしてゆこう。そう思った次第である。
(3)「介護予防」のための「運動」にギモン?
このように、「キツネさんの手」や「手のひら返し」のような、1回目や2回目の連載の〈身遣い〉や、3回目の連載の「不安定のチカラ」でみてきたように、筋肉あるいは筋力によりかからない「からだのはたらかせ方」という〈身遣い〉がある。
こうした、筋力だけによりかからない「からだのはたらかせ方」としての〈身遣い〉のフィールドワークをしてみると、これはどーも、ナンダかなあ、とモヤモヤっとしたギモンを感じることがある。
そのひとつに、「介護予防」のための「運動」というものがある。
「介護予防」の「運動」というのは、「介護される身体」にならないように「運動」をしましょう、というものだ。そして、この「介護予防」のための「運動」というものにも、わたしはなんだかモヤモヤっとしたギモンを感じる。
なぜ、わたしは、「介護予防」のための「運動」にギモンを感じているのか?ここからは、わたしが「介護予防運動指導員」の資格を取得するための養成研修を受けた体験から感じたギモンについて述べてみたい(注1)。
1 「筋肉は、うらぎらない!!」へのギモン
まず、「介護予防」のための「運動」というのは、「筋トレ」に近いものが多い。わたしが「介護予防」のための「運動」にギモンを感じているのは、まさに、「筋力・筋肉の維持、増強、向上」といった「筋トレ」偏重な点にある。
例えば、「転倒を予防するための体操」というものがある。そこでは、椅子にすわった状態で、かかとを上げたり下げたりする「筋力アップ体操」というものをおこなう。
また、「尿失禁予防のための筋力体操」というものもある。そこでは、「骨盤底筋」なる筋肉をきたえる。腹筋や内もも(太ももの内側)、腰の筋肉を意識しながら「下半身の筋肉」をきたえる。それをすることで尿失禁の予防効果があがる、というものらしい。
さらに、両膝を合わせ、膝頭に力を入れるようにして内ももの筋肉を3~5秒、しめたりゆるめたりする「膝合わせ」など、いろいろ盛りだくさんの体操(主に筋トレに近いもの)がある。
「介護予防」のための「運動」では、「転倒や失禁」を予防するためには、何よりもまずは「筋肉をきたえるべき」ということなのだろうか。
「介護されること」を予防する、「介護される身体」にならないように、えっちら、おっちら、筋トレなどの「予防」に励む人たち。そんな人たちを目にすると、わたしは何ともいえないモヤモヤっとした気持ちになる。
これって、あまりにも、「筋力・筋肉の維持、増強、向上」にずいぶんとよりかかりすぎてやしないだろうか、と。筋肉、筋力にあまりにも偏りすぎ、重んじすぎなのではないだろうか。そんなにガンバらないと、気張らないといけないものなのだろうか。
現代社会を生きる私たちは、「健康長寿」「介護予防」に対する不安に駆り立てられ、「筋力強化・増強至上主義」的な〝きたえる(鍛える)身体〟にとらわれ、ふりまわされてはいないだろうか。と、こう言ってしまうのは、大げさだろうか。
それよりむしろ、「からだのはたらかせ方」に気にかけて、「キツネさんの手」や「手のひら返し」のように、力まなくともチカラを生み出せるような〈身遣い〉にいざなわれてみてもいいんじゃないのだろうか。
はたして、NHKで放映されて人気を博している?「筋肉体操」という番組での名文句?決まり文句?のように、「筋肉はうらぎらない!!」というのであろうか。
2 「筋力強化・増強至上主義?」的な〝きたえる(鍛える)身体〟としての身体観へのギモン――昔の人たちは「筋肉」「筋力」という考え方はなかった?
現代社会では、「みなさん、自分が介護されることのないよう、今のうちからカラダを鍛えておきましょうね」と言わんばかりに、「健康長寿」「介護予防」などの名のもとで、筋肉や筋力を「きたえること」が推進されている。
現代社会における、この「筋力強化・増強至上主義?」的な「きたえる身体」としての身体観というのは、昨今の筋トレブームとあいまって、医療や福祉、介護の領域にまで深く刻み込まされているような気がする。
だがしかし、からだを鍛え上げ、筋肉をつけ、筋力をアップさせるような「きたえる身体」ということばかりをめざすことだけでよいのだろうか。
大正末か昭和初期の頃まで、山形県のある地方では、「五俵担ぎ」という仕事をしていた女性の人たちがいたという。米俵は一俵60キログラムというから、五俵というと300キログラムにもなる。その300キロもある五俵の米俵を女性がかついでいたという。イラストにしてみると、こんな感じ(イラスト4)であろうか(注2)。
この「五俵担ぎ」について紹介し解説している武術家の光岡さんは、以下のように述べている。
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筋力トレーニングの発想では、「なぜ昔の人は五俵を担げたのか」の理解に届きません。そもそも彼女たちが生きていた時代は、筋肉という概念がありませんでした。/ここで注目すべきは、同時代の身体観において「筋肉を鍛えれば筋力が増す」といった発想がそもそも生じないということです。普通の生活をしていたら米俵を当然のように担げる体になったからです。要は足腰がかつてはちゃんとありました。(中略)トレーニングは足腰ではなく、概念上の体を鍛えることにしかなっていないからです。 (藤田、光岡 2017: 19-20。下線は出口による)
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光岡によれば、「五俵担ぎ」をしていた時代には、おもしろいことに「筋肉という概念」がなかったというのだ。「筋肉を鍛えれば筋力が増す」といった発想がそもそもなかったという。
さらに、現代の「筋トレ」なるものは、「概念上の体を鍛えること」でしかないというのだ。う~む。現代に住まうわたしなどは、概念上の体でしか生きられていない、ということなのだろうか。
筋力によりかかるような「きたえる身体」としての身体観からでは、「五俵担ぎ」のような「身のこなし」または〈身遣い〉というのは体得しえないものだ、というのだろうか。
しかも、光岡さんが言うには、「五俵担ぎ」をしていた女性たちは、かつての生活では「足腰がちゃんとあった」がゆえに、「普通の生活をしていたら米俵を当然のように担げる体になった」というではないか。
もはや、現代社会に住まうわたしのような者は、「足腰」というのがもはや存在しない、とでもいうのだろうか。現代のような生活をしていると、一昔の日本人が培っていた「足腰」はつくれないというのだろうか。現代における生活をしているだけでは、「五俵担ぎ」のような「身のこなし」または〈身遣い〉というのは会得できないのであろうか。
そうすると、おそらく、一昔の女性が日々の暮らしのなかで培ってきた「足腰」をもちいておこなっていたと言われている「五俵担ぎ」は、わたしにはどだい無理な〈身遣い〉なのだろう。
ただ、「五俵担ぎ」でとはいかないまでも、「キツネさんの手」や「手のひら返し」の〈身遣い〉のように、筋肉、筋力にのみによりかからなくとも別のチカラを生み出せるボディふぃ~るをさぐってみたいと思う。一部の筋肉を増強したり、筋力を強化するような〝きたえる身体〟へ向かうのではなく、日々の暮らしのなかで「からだのはたらかせ方」に〝きにかける(気にかける)〟〈身遣い〉について、身をもって吟味してみたいと思う。
「介護予防」のための「運動」にも垣間見られたように、一部分だけの筋肉・筋力によりかかって「ガンバって」「キバって」いくような〝きたえる身体〟へと強く迫られるムーブメントに対して、わたしはモヤモヤっとしたギモンを感じている。
それよりもむしろ、「腕力や脚力のみに頼らない」「腕先、手先のみで動かない」「力まない」「がんばらない」「きばらない」でもチカラが生まれる〈身遣い〉に、いざなわれてしまっている。
(4)そもそも、「介護予防」それ自体なるものにもギモン?
そもそも、わたし自身は、「介護予防」なるものにも、モヤモヤっとしたギモンがある。
「介護予防」というのは、厚生労働省が出している定義によると「要介護状態の発生をできる限り防ぐ(遅らせる)こと、そして要介護状態にあってもその悪化をできる限り防ぐこと、さらには軽減を目指すこと」とされている(厚生労働省「介護予防マニュアル」より)。
どうやら、「介護予防」というのは、「介護される身体」にならないように予め気をつけましょう、そのために常日頃から「運動(筋トレ)」に取り組みましょう、というものらしい。
「介護される身体」にならないように「予防」すること。そしてそれが、さも「あたりまえ」であるかのように思われ、唱えられ、おしすすめられていること。それらのことに対し、どーしても、わたしはモヤモヤっとしたギモンを感じる。
人の生において、「介護されること」というのは、はたして、そもそも、「予防」しなきゃいけないものなのだろうか。「介護」というのは「予防」されるもの、なのだろうか。わたしは、こうしたギモンが、頭に浮かんで離れないでいる。
なぜ、わたしは、「介護予防」なるものに対して、ギモンを感じているのか?それは、こういうことからだ。
まず、この「介護予防」なるものをおしすすめていくことによって、「介護されること」自体を否定する向きが生じかねないのではないか?と思ってしまうからだ。
そして、「なんでも、かんでも、自分で、自分のからだで、できなければいけない」ということへの強制につながりかねないのではないか?とも思ってしまう。
さらに、「介護されること」が必要とされた人たちは、「予防することができない(できなかった)怠け者」とレッテルを貼られてしまい、非難されてしまわないだろうか?とさえも思ってしまうのだ。
さらにまた、こんなことも思う。
「介護される身体」である(になる、になった)ことから、どのようにからだを動かしていけばいいだろうか。
動かせないなりに、どのようにからだにはたらきかけたら、日々の暮らしになじめるようになっていけるのだろうか。
「介護される身体」であることで、どのような「からだのはたらかせ方」が、一人ひとりの暮らしのなかでしっくりいけるのだろうか。
そんなことを、いろいろ、あーでもない、こーでもない、あーもあるかも、こーもあるかも、とシノゴノとボディふぃ~るしてみたほうがいいんじゃないんだろうか。
そんなことをクドクドと思い巡らせているボディふぃ~るだー!でぐち(2号)なのであった(5回目へとつづく)。
注
(1)今回の連載の文章の一部分では、「介護予防運動指導」に関する出口(2020)の原稿の文章の一部を改変、再構成したものである。わたしが「介護予防」のための「運動」なるものにギモンを感じるようになったきっかけの一つが、「介護予防運動指導員」の資格取得のための養成研修を受けたことであった。わたしがナゼ「介護予防運動指導員」なる資格を取ろうと思ったのか、資格を取得するまでの養成研修ではどのようなことを学んだのか、などについては、出口(2020)を参照されたし。
(2)わたしが描いた「五俵担ぎ」の「イラスト4」は、光岡さんが紹介していた本(藤田、光岡2017)に載っていた写真などから参考に描いてみた。当時、「女丁持ち」や「女仲仕」と呼ばれる女性たちが、一人で一日に平均千俵の米俵をかついで舟着場から蔵の中まで、急な坂を行ったり来たりして運んでいたという。ただ、「五俵担ぎ」については、力比べの行事でやっただけで仕事では実際やっていなかったのでは?とか、「あくまで観光用の写真撮影だった」と一瞬だけ五俵をかついだだけだったのでは?とか、「実は二俵はもみがらが入っていた」と、実際のところは俵の中身を軽くしていたのでは?とかとか、いろいろ諸説あるらしい。
文献
出口泰靖 2020 「『介護予防』は人の生の〝あおり運転〟になってしまわないか?~「介護(非)予防(無)運動(未)指導員?」への道すがら」『支援』10号、生活書院、204-219
藤田一照, 光岡英稔 2017 『退歩のススメ: 失われた身体観を取り戻す』晶文社
岡田慎一郎 2013 『カンタン古武術だっこで育児がグンとラクになる』河出書房新社
岡田慎一郎 2015 『体の使い方を変えればこんなに疲れない! 体力&筋力がなくても大丈夫!!』SHC
説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
(「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)
*この連載は偶数月の月末にアップいたします。