著者が「差別以前の何かがある!」とショックを受けた内容に、若い私はショックを受けた。すずさわ書店発行の『母よ!
殺すな』(一九七七年)を読んだ時の鮮明な記憶である。
一九七〇年、横浜で脳性まひの娘を殺した母の減刑を嘆願する署名運動が起こった。青い芝の会の脳性まひ者たちは、殺される側の立場から、その運動に異議を申し立てた。著者たちは自分たちでまとめた意見書を手に、横浜地方検察庁、神奈川県民生部、各政党の議員、警察署などを回った。反応は「施設が足りないのが問題だ」「国が悪い」「可哀想なのは母親だ」というものだった。
そこで著者は慨嘆する。
「普通、子供が殺された場合その子供に同情が集まるのが常である。それはその殺された子供の中に自分を見るから、つまり自分が殺されたら大変だからなのである。しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。(略)これを説明するのに私は適当な言葉を知らないが、差別意識というようななまやさしいもので片付けられない何かを感じたのである。」
「自分が殺されたら大変だからなのである」というのは少し違うんじゃないかと思ったが、「差別意識というようななまやさしいもの」ではないという著者の感覚の鋭さに、私は深い感銘を受けた。この重症児殺しへの世間の反応は、生き物としての生存本能が関わっているのではないか。それは差別という、歴史的に新しい社会的概念だけでは説明できないのではないか…。そのような問いは今も、まったく新鮮な問いなのである。
今回復刊された本書には、前回収録されなかった著者の文章や追悼文、立岩真也さんの解説が加えられ、その全体像に近づこうという出版社の姿勢がひしひしと伝わってくる。ぜひご一読願いたい。
小林 敏昭(『そよ風のように街に出よう』編集部)