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【Web連載】


認知症とともに、よりよく生きる   10

〜裕さんの場合〜


水谷佳子


自分の暮らし方が変わった時──たとえば、仕事を辞めた後、“いい感じのつきあいが続いていくだろうと心から思える人”はどれだけいるだろう。今まで幾度も考えてきたが、指折り数えるくらいが現実だ。──たとえば、認知症になったら。ただでさえ数少ない“いい感じのつきあい”は、さらに減ってしまうのではないか。人と人の関わり合いのありようが変質してしまうのではないか。この自問自答は、私の“認知症とともに生きる希望”に、つねに影を落としてきた。
しかし、──もしかしたら、「問いの立て方」が違っていたのかもしれない、と考えるようになった。きっかけのひとつは、竹内裕さんとの出会いだった。広島在住の裕さんとは、しょっちゅう会えるわけではない。でも、何かの折に会えた時には、ケーキ、ラーメン、肉、魚、コーヒー、お酒……お互いに好きなものを飲み・食べながら、心のままに話ができる。私にとって、“いい感じのつきあい”ができる、大切な人だ。

* * * * *

わたし:
    認知症をきっかけに、人間関係…
    変わらないつき合い、新たな出会い、
    変化したり途切れてしまったりっていうことも
    あったと思うんです。

裕さん:
    僕には、息子が3人いるんですけど
    みんな認知症のことは知ってます。
    中でも長男は
    僕がこうして顔や名前を出して
    認知症の話をすることについて、
    「うん、親父がそうしたいんだったら、そうすればいいよ」
    っていうふうに、一番最初に言ってくれましたね。

    長男の家族は神奈川に住んでるので
    今夜は、長男の家族……
    孫たちと一緒に食事して、そのまま泊まります。
    何かの用事で東京に出てきた時には
    長男のところに寄ることも多いですね。

    親子……息子と親父っていうのは、
    やっぱり男同士なんで
    なかなか言いづらいこと……
    心で思っとっても言葉には出しづらいことも
    あったりするんだけどもね、
    長男のお嫁さんは、僕の長男にも気を遣い、
    僕にも気を遣ってくれて、非常にうまくやってくれてますね。

    長男と電話でやりとりして、
    「じゃあ、お盆に帰るぞ」とか「正月、帰るわ」って話になってね、
    僕は「うん、分かった、分かった」って言いながら
    忘れてるわけですね。
    何度かそんなことがあって、
    今は長男と電話した後、お嫁さんの方から、
    「お父さん、今日は電話でこんな話になりましたよ」って、
    メールくれるんですよ。
    だから非常にね、助かってます。

わたし:
    認知症をきっかけに、
    何かが悪いほうに変わった感じはない?

裕さん:
    長男のお嫁さんとは、
    逆によかったかな、みたいなところがあって。
    僕と長男のお嫁さんは他人だけども
    お互いの気持ち……
    普通に血のつながった親子にあるような
    言わんでも分かるだろうっていうような
    気遣いっていうか、呼吸っていうか、
    その辺が通じあった、みたいなところはあるよね。

わたし:
    息子さんにとってのお母さん……の話も
    オッケー?

裕さん:
    (笑)
    要するに僕の嫁さんね。
    2016年の5月に正式に離婚したんで、
    元嫁さんですけどね。
    その話もオッケーですから。

    診断されてすぐは気を遣ってくれてましたね。
    でも、半年経ってくると、イライラするようになって。
    僕はもともと営業マンでね
    働き蜂って言われるような世代。
    土日は接待でゴルフとか釣りに行って、
    平日も午前様でね、接待で飲んで帰るという生活。
    当時のCMにあったような、
    「24時間、働きますか」を地でやってた。
    嫁さんにしたら、
    今までずっと、仕事仕事で家にいなかった夫が
    一日中家にいる。
    24時間一緒にいる。
    それまで嫁さんは自由にやれてた……
    自分の友だちとデパート行って買い物したり、
    ホテルでランチしたり、好きなことやって、
    それなりに優雅に過ごしとったのに
    それができなくなってね。
    家にずっと夫がいることが鬱陶しかった、
    僕の存在がウザイと思うようになったんでしょうね。

    僕は僕で、出社停止になっててね、
    その原因になった大きなミスのこともあって、落ち込んどった。
    「俺が、あんなことしたのか……」
    友人、兄弟からの電話にも出なかった。
    出たくなかった。
    息子とも嫁さんとも会いたくない。
    完全に部屋に引きこもっとった。
    そんなんだったから、嫁さんに話すことといえば
    朝飯食ったら、「お昼、何?」
    昼飯食ったら、「夜は、刺身か肉食いたいな」。
    で、もう、その……最後には、
    「もう、あんた毎日、飯、飯ってうるさいね」って
    怒られるわけですよ。

    そのうち嫁さんが
    やれ電気消してない、
    トイレ流してない、
    フロお湯出しっぱなしと指摘するようになった。
    そんなことを、逐一言われる。
    僕は「病気じゃけ、こらえて(勘弁して)くれや」と言うけど、
    でも、言われる。
    これは、つらかった。

    やっぱり僕もね、
    定年して家におるわけじゃないし
    好きで病気になったわけでもない。
    「僕のせいじゃないし、もうちょっと、やさしくしろよ」ってね、
    そういう気持ちがあるわけですから、
    そのときは、非常に……つらかったですね。

    で、1年か2年後ですかね。
    別居に至ったわけですよ。

    あるきっかけ、転機があって
    引きこもり生活から脱却して、
    ボランティアするようになって、
    ある時、
    「ピースボート乗るの、夢だったんですよ」
    って話を聞いてね、
    「あ、これだ!」と思ったんですよ。

    その頃、僕は切羽詰ってた。
    毎日嫁さんとの関係がギスギスしてて……
    毎日嫁さんに怒られながら暮らすのは嫌だ。
    あれこれ指摘され続けて、
    思わず握りこぶしが震えたことがあった。
    僕の親父は明治生まれでね、
    普通に母や子どもをぶん殴ってたような人で、
    「自分は、あんなふうにはなりたくない」と思ってた。
    それなのに、嫁さんの言葉、態度に
    自分のコブシが震えて……
    このままじゃ、あれほど嫌だった親父みたいに
    自分も嫁さんに暴力をふるってしまうんじゃないか。
    そう思うと、怖かった。
    このままじゃいけない。
    それでね、切羽詰ってた。

    ピースボートの話を聞いたのが8月だったかな、
    出航が9月だったんで、帰ってすぐ嫁さんに、
    「お前のぉー」って。
    「これからも2人、ずっと生活せにゃいけんのに、
    これじゃあ大変だ」と。
    「お前も一緒に船に乗って
    3ヶ月間、お互いに考えようやぁ?
    別の部屋にしたっていいんだし
    家事だ何だ、イライラせんで、ゆっくり考えようや」
    誘ったんじゃけど、嫁さんは顔も見ずに「行かない」と。
    「じゃあ、僕はひとりで船乗ってくるから
    あんたは日本でね、3ヶ月、離れて暮らしながら、
    お互いに、これからどうやっていこうか考えよう」って。

    で、僕ひとりで船に乗って、帰ってきたら、
    「はい、これ」って鍵渡されて。
    一人暮らししとった次男のアパートに
    僕の荷物が移動されてて、
    次男は家に戻ってた、という(笑)
    それからは別居、ずっと一人暮らし。
    で、何だかんだあって
    ご存じのとおり正式に離婚して、
    今に至っているわけ。

    嫁さんと離れて暮らすようになって、友だちから
    「お前、この頃、ものすごい元気じゃのぉー」
    「嫁のストレスがのうなった(無くなった)からと違うんか」
    って言われたりしたね。

    僕はね、これはね、
    病気とか会社辞めたとかが理由なんじゃなくてね、
    今まで自分がつくってきた、嫁さんとの関係の結果なんだって思う。
    仕事して、金渡して、ボーナスも全部渡しとりゃいいだろうと。
    子どもは男の子3人だから、
    親父の背中見とりゃ、ちゃんと育つわみたいなね。
    子どもがちっちゃいときは、まだ、嫁さんと話をしてたけども、
    次男が中3の頃、進学のことで嫁さんとの間に
    ボタンの掛け違えのようなものがあって
    まぁ、関係がよくないっていうか
    決定的に相容れない部分ができてしまったというか。
    高校になって、進路も決まると、もう、嫁さんと話すこともない。
    結婚記念日だとか初デート記念日だとかね、
    何か、そういうふうにしとればよかったんじゃけど
    そんなこと、まず言わんし。

    仕事も忙しい…やりがいもあったし面白かった。
    朝6時、7時に出て帰ってくるのが午前様。
    土日も接待で、ほとんど家にいなかった。
    やっぱり、その辺で
    気持ちがずれてたっていうところはあるんと違うかな。

    お互いの人生観が違う中で
    無理して、夫婦生活続けていたわけで
    結果として別居、離婚に至っただけで……
    それもひっくるめて、
    今までの自分がつくってきたものだからね。

    僕が病気にならんかったら?
    無理無理暮らし続けて
    いつか、定年離婚みたいになってたかもしれん。
    けど、それはわからんからね。

    嫁さんとはそういう結果になったけど
    ピースボートで知り合った何人かとは
    今でもつきあっとるよ。
    「今度そっち行くから一緒にメシ食おうや」とかね。
    そういう声かけあえる友だちが
    全国どこかしらにいるねぇ。

わたし:
    人の数だけ、つき合い方も、変化も色々なのかな。
    仕事関係の人とは今でも?

裕さん:
    普通、会社辞めると、
    パパッとつき合いがなくなるもんじゃけど、
    取引先だった会社の人から、
    「ビアガーデン始まったけど、ちょっと行かん?」
    とか誘われたりね、
    一緒にゴルフに行ったり、
    スキーに行ったり釣り行ったり、今でもね。
    本当にね、嬉しいことで……
    そういう人と出会えて運がいいっていうか
    仕事上だけの関係じゃない、つきあいになってたんじゃろうね。
    年がら年中、仲良うしてたわけでもないんじゃけどね。

    かと思えば、
    よく面倒みてやってた奴がすーっとひいていったりね。
    それはそれで、僕の目がね違いじゃった。そういうもん。

    営業時代、競合他社の奴とも
    よく呑みに行ったりしてたね。
    仕事の上では、お客さん取った取られたって関係じゃけど
    社内の人間に
    「よく競合相手の人と飲めますね」とか言われたけど
    僕が誘って、相手も
    よっしゃ、飲みに行こうってなるんじゃから
    それでええじゃないか、ってね。

    それに、競合してるのは会社であって
    人づきあいっていう部分では
    利害どうのっていうのとは違う。
    フラットなつき合いっていうか……
    相手がどんな立場でもね
    つき合いたい人と、つき合う。
    魅力的な人には魅かれるもん。
    それは、今でも変わらない僕のつきあい方。
* * * * *

裕さんとの話はつきない。会うたびに、話し合いたいことがわいてくる。実はこの時の話も、まだ続きがある。いつかの機会に、ご紹介したい。



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*水谷佳子(みずたに・よしこ)さんは、
 のぞみメモリークリニック(東京都三鷹市)の看護師。
 1969年東京都北区生まれ、コンピュータプログラマー、トレーラードライバーなどを経て、2005年に医療法人社団こだま会こだまクリニック入職、2012年からNPO法人認知症当事者の会事務局、2015年にのぞみメモリークリニックに入職されました。
 認知症がある人・ない人がともに「認知症の生きづらさと工夫」を知り、認知症と、どう生きていくかを話し合う「くらしの教室」を開催。「認知症当事者の意見発信の支援」を通じて、「認知症とともに、よりよく生きる」人たちの日々を講演等で伝えながら、「3つの会@web(http://www.3tsu.jp/)」という認知症の人が情報交換出来るウェブサイトの管理運営の支援もされています。

 以下は、このweb連載をはじめるにあたっての、水谷さんからのメッセージです。

認知症に関連する仕事をするようになって、
認知症の生きづらさ、認知症をとりまく様々なこと、
認知症とともに生きることを考えるようになりました。
答えのない問いや悩みの中で希望を探すうち
「認知症を考えることは、自分の生き方を考えることだ」と
思うようになりました。
認知症をきっかけに、「よりよく生きる」ことを一緒に考えていきませんか?


【連載は隔月に1度、偶数月中旬の更新を予定しています】