ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈18〉

出口泰靖    


 

第18回 

〝きたえる身体〟としての身体観から〝気にかける體〟としての身体観へ、「介護予防」とそのための筋力偏重な運動をふっとばす! ボディふぃ~るだー!!にヘンシン!の巻(これでいったん最終回?)

 

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(1)やっぱりヘンテコな「介護予防」というコトバ

 前回の連載で、「介護予防」というコトバと、そのコトバによって築かれてゆく社会に対してギモンを投げかけた。
 わたし以外にもギモンを感じている人がいる。読売新聞の編集委員の伊藤剛寛さんも、オンライン記事のなかで「『介護予防』という言葉は2000年に始まった介護保険制度をめぐる議論の中で使われるようになり、今では一般的に使われるようになったが、当初、この言葉の意味がすんなりと理解できず、違和感があった」と述べている。とくに、「『介護』と『予防』の語の組み合わせに、不自然さを感じてきた」と言っている。
 その違和感から取材をおこなうなかで、健康や体力作りなどの研究をしてきた教育学の田中喜代次さんに出会っている。その取材を受けた田中さんも、「介護」は「予防」すべきものではなく、まず予防すべきは「日常の生活機能の不具合」であると主張している。また、介護サービスを提供している行政などが、その自らの行為に『予防』の語を使うのも矛盾しているし、おかしいと述べ、「介護予防」というコトバや考え方の矛盾点について指摘している。さらに、「介護は、予防するものではなく充実、洗練させるもの」だとも田中さんは強調して論じている。
 田中さんの主張や論を受けて、読売新聞の伊藤さんは、「言うなれば、病院が、「病気の予防」を「治療予防」と呼びかけているようなものかもしれない。予防すべきなのは病気であって、治療ではない」と述べたうえで、「介護」と「予防」との言葉の結びつきに論理の飛躍がある、と記事に書いている(「考えてみると不自然な言葉 『介護予防』……」読売新聞オンライン記事 編集委員 伊藤剛寛2021年6月1日より)。
 田中さんも伊藤さんも、ここでの記事で指摘しているように、「予防」すべきものは決して「介護」ではないのだ。「治療予防」がヘンテコなコトバであるように、「介護予防」もヘンテコなコトバなのだ。
 こうしてみると、やはり、どうも「介護予防」というコトバとその考え方には、「介護すること」をも未然に、予(あらかじ)め防ごう(「予防」しよう)とする意図が見え隠れしてならない気がする。それは、わたしの気のせいなのであろうか。
 「介護予防」というコトバと考え方には、「介護」が「する側」も「される側」も苦痛をともなうものだという捉え方がある。だから、それを予(あらかじ)め防ごう(「予防」しよう)とする思惑というものがあるのだろう。前の連載回でも述べたことだが、「介護は苦痛や苦労をともなうもの」というのが〈あたりまえ〉であるというような捉え方は、あまりにも一面的であって、それこそ「介護のゴカイ」ではなかろうか。
 例えば、この連載の第二回目のときでも取り上げたように、起き上がりの介助の方法を「手のひら返し」によって「介助する側」も「される側」も今までよりラクになれることを紹介してみた(第二回目の連載を参照されたし)。この介助の方法のように、「介護」というのは、介助の方法であれ、介護の仕組みであれ、創意と工夫しだいで、苦痛や苦労をともわなくてもすむ面がたくさんあるのではないだろうか。
 また、そもそも、「介護されること」「介護すること」というのは、人間として生まれて死にゆくまでの自然な営みなのではないだろうか。それゆえ、それを未然に防ごうとか予(あらかじ)め防ごう(「予防」しよう)とすること自体が、そもそも矛盾しており、ヘンテコなのではないだろうか。

 

(2)「介護予防」のための運動を指導する「介護予防運動指導員」として養成されてみた!?

 では、「介護されること」を〝予め防ぐ〟ことをおしすすめる「介護予防」というのは、実際のところ、どんなことをおこなおうとしているのか? じかにその内実の一端にふれてみてみたい、とわたしは思った。そこで、「介護予防」のための運動などを指導する「介護予防運動指導員」の資格を取ってみようと思い立ち、その養成研修を受けてみたことがあった(注)。
 そこでの養成研修の実技では、「転倒予防体操」や「失禁予防体操」というものを学んだ。 まず、「転倒予防のための体操」では、椅子にすわった状態でかかとを上げたり下げたりする「椅子を使った体操」や「床に座っての筋力アップ体操」というのを、実際に、自分のからだをつかっておこなった。
 また、「尿失禁予防のための筋力体操」では、「骨盤底筋」といわれる筋肉をきたえる体操をした。加えて、腹筋や内もも(太ももの内側)、腰の筋肉を意識しながらおこなう体操を行った。「下半身の筋肉」を鍛えることで尿失禁の予防効果があがるというものらしい。
 さらに、両膝を合わせ、膝頭に力を入れるようにして内ももの筋肉を3~5秒、しめたりゆるめたりする「膝合わせ」などの座っておこなう体操など、いろいろな体操を習った。
 こうしてわたしは、転倒の予防のためなどの体操を習って「介護予防運動指導員」の養成を受けてみた。だが、どーしても、素朴なギモンが残りつづけた。
 それは、これってあまりにも「筋力・筋肉の維持、増強、向上」にずいぶんとよりかかりすぎてやしないだろうか?そんなギモンである。「転倒や失禁」を予防するためには、何よりもまずは「筋肉を鍛えるべき」なのだろうか。
 ただもちろん、介護予防運動指導員の養成でおこなっているのは、ボディビルダーがやっているような、筋肉ムキムキになるための筋トレというものではない。高齢とされる人たちでもケガなく無理なくできる安全・安心な筋トレではある。そのため、「介護予防運動」の養成を受けつづけているうち、「こういうのもアリなのかな?」と、わたしもあやうく「筋力偏重」な〝きたえる身体〟としての身体観に染まりそうになってしまい、〝改造〟されかかりそうになる瞬間が少なからずあった。
 しかしながら、「介護予防のための運動」が〝きたえる身体〟としての身体観にもとづいて「筋力」によりかかりすぎているのでは?と感じるギモンは消え失せることはなかった。そして、まずは「介護予防運動」における〝きたえる身体〟としての身体観を問い直し、その身体観に対抗できるような新たな身体観を打ち立ててみようではないかと思うようになったのである。

 それは、まるで悪の組織ショッカーによって改造人間として〝改造〟されかかるところ難を逃れ、その後ショッカーと敵対して闘うことになった「仮面ライダー」のようじゃないかあ。と、わたしは自分の中で勝手に妄想してしまった。 わたしもまた、「介護予防運動指導員」の養成を受けた身であるだのが、やはり「介護予防」における考え方と、「介護予防」ための「筋力偏重」な運動にはギモンを感じている以上、それに組するわけにはいかない。ただ、近頃は、「筋トレ」ブームの波に乗ってイケイケアゲアゲ状態の「介護予防運動」ではある。だが、その圧倒的じゃないかあ、と思えるような「筋トレ」ムーブメントに対抗した考え方や身体実践を提示していこうと思い立って腹をくくり、「ボディふぃ~るだー!」にヘンシン?したわけなのであった。

 

(3)「筋トレ」で老いと闘おうというのか?

前回の連載でも紹介した高齢者介護論のカリスマである三好春樹さんも、次のような文章で高齢とされる人たちに「筋トレ」をすすめることに対して疑問を投げかけている。

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 筋トレで老化と闘うのだそうだ。
 転倒防止のために腸腰筋を強化したいのなら階段を昇ればいい。降りるのは怖いからエレベーターで降りてくるのだ。バランスカの維持には遊びリテーションが一番効果的だ。筋トレの方法だっていくらでもやり方があるだろうに。
 それより何より、老人が寝たきりになるのは筋力が低下するからではない。老化や障害をもった身体で生きていく気持ちがなくなって、目がトロンとして何もしなくなり、その結果、筋肉が小さくなるのだ。つまり、主体の崩壊が先で、筋力低下はその結果にすぎない。
 確かに、腸腰筋の筋力低下で段差につまずいて転倒し、骨折して寝たきりになるケースはあるだろう。転倒予防プログラムで転倒を21%減らしたというデータがあるらしい。それはもちろんよい。しかし、残りの80%近くの転倒はあるのだ。高齢社会は、転倒も骨折も当然あるものだ、つまり「想定の範囲内」として対応を考えねばならないのだ。つまり、転倒予防以上にやらねばならないのは、たとえ骨折しても寝たきりにしない方法論なのである。
 手の骨を折って入院して寝たきりにされた、というケースは後を絶たない。それどころか、検査入院でさえ寝たきりになるじゃないか。となると、介護予防でまずやるべきことは病院の医者や看護婦の教育ではないか。老人の寝たきりをつくっている病院の高いベッド、狭いベッドを取り替えることではないか。
 この国は筋トレで老化と闘うのだそうだ。しかし老いと闘って勝ったことなどない。老いは闘うものではなく、受け入れるものだ。(三好 2005、2-3頁より)

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 先ほど、わたしが「介護予防運動指導員」としての養成を受けたとき、「転倒予防」のための体操(筋トレ)を習ったことについて触れた。だが、ここで三好さんは「転倒というのは当然あるもの」として、すなわち転倒を「想定の範囲内」として対応を考えねばならないと論じている。そして三好さんは、「転倒予防以上にやらねばならないのは、たとえ骨折しても寝たきりにしない方法論」なのだと主張している。その通りだとわたしも思う。さらに言えば、転んでも骨折したり大きなケガをしないような転び方としての〈身遣い〉、からだのはたらかせ方のほうに気にかけるべきではなかろうか、とも思うのだ。
 「介護予防」を推進しようとする人たちは、「高齢者は、足腰が弱くなって外出がおっくうになる。だからこそ、外出がおっくうにならないように筋力をつけましょう」と主張する。だから、筋力がつければ外に出ようという意欲がわいてくる、という理屈なのであろう。たしかに、体のあちこちの節々に痛みが生じたり、動かしづらくなったりして、外に出歩くのがおっくうになる。そのような場合もあるにはあるだろう。
 だが、だからといって、筋力をつけたら外に出かけるようになるわけではないだろう。出かけようにも出かけるところがまったくなければ、外に出ようとは思わないのではなかろうか。三好さんが論じているように、高齢とされる人たちが「寝たきり」という状態になるのは、ただたんに筋力が低下するのが原因なのではなく、むしろ、「筋力低下は生きる気力がなくなったことへの結果にすぎない」のだ。そう考えると、「筋力がつく」イコール「出かけようという意欲がわく」というのは、どうも少々短絡的な考えのような気がしてならない。

 

(4)「筋トレ・筋力偏重」な「介護予防運動」の功?罪!?

 もう一つ、三好春樹さんが髙口光子さんとの対談のなかで、「介護予防」における「筋トレ」志向に対して批判的な目を向けているので、そちらの方も紹介しておきたい。

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髙口:二〇〇六年の介護保険の改定により、予防給付の目玉として筋トレが重視されるようになりました。もっと筋力をつけましょう、という厚労省の呼びかけで導入されました。その成果を信じて自立のために筋力トレーニングをはじめた人たちが大勢います。でも、どんなにがんばっても、最後には必ず筋力が落ちていくし、いずれにしても最後は死んでいくとわかったとき、お年寄りはどう思うでしょう。もうトレーニングなんてやりたくなくなるのでしょうか、それとも少しでも効果が期待できればいいと思って続けるのでしょうか。

三好:いま進められている筋トレは、いわば近代の方法論の幻想がひとつ復活した感じです。近代の医療は良くなる方向しか目指してきませんでした。死はもちろん、老化も敗北なんです。そこで老化に抗う、まるで錬金術としてリハビリに白羽の矢を立てたんです。そこで、立たせろ、歩かせろ、という個別リハビリが強調され、さらに、いちばんシンプルな筋トレにたどり着いてしまいました。(中略)私が主張しているのは、どんなにトレーニングの意欲があっても、ついた筋力を生活に結びつけていく水路がなければ意味がない、ということなんです。いくら筋力がついてもベッドが高いままでは自力で立ち上がれないし、行きたいところがなければついた筋力を使うこともないわけです。もともと筋力が低下したから寝たきりになったわけではないでしょう。生活意欲をなくして動かなくなった結果が筋力低下なんですから。(中略)

髙口:私は、トレーニングするほうもしんどいと思いますが、筋トレに関わる職員のほうが傷つくことを心配しています。立派な機械を導入しても人手が減るどころか、余計に手間がかかったり、最初のうちはお年寄りが喜んでくれても、飽きたばあちゃんはリハビリを止めてしまって、残った数人のじいちゃんが延々とトレーニングを続けることになったりね。
それに、どんなに筋力を増強させても、何かの拍子に転んだり風邪を引いて寝込んで、筋力が元に戻るなんてこともあります。それですべて台無しになってしまったような気分にならなければいいのですが。やっと個々の生活に向き合おうとしていた人まで、もう機械を買ってしまったからといってトレーニングをさせられてしまうのではないか。たとえ効果があったとしても、その先にほんとうの幸せがあるのだろうか、といった気がかりはあります。(三好、髙口 2007、167-172頁より)

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 ここでもまた、三好さんは「いくら筋力がついてもベッドが高いままでは自力で立ち上がれないし、行きたいところがなければついた筋力を使うこともない」と喝破している。三好さんが言うように、「筋トレ」をしたところで「ついた筋力を生活に結びつけていく水路がなければ意味がない」のではないだろうか。
 そして、前に述べたことと同様に、三好さんは「もともと筋力が低下したから寝たきりになったわけではなく」、「生活意欲をなくして動かなくなった結果が筋力低下なんだ」と指摘している。これらの指摘は、とても的をえているものであるといえないだろうか。

 

(5)「筋トレ」をすればするほど、身体の使い方が下手になる?

 さらにまた、「筋トレ」そのものに対して、ギモンを投げかけている人たちもいる。そのなかの一人に、この連載のなかでも何度も紹介してきた武術研究家の甲野善紀さんがいる。彼は、「筋トレ」に対して以下のような批判的な意見を述べている。

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 身体を上手に使えるようにするためにはどうしたらいいかというと、筋トレを思い浮かべる人は少なくないかもしれません。最近は高齢者でも、ジムに行ったり介護予防のための施設に行ったりして筋トレに励む人が増えていると聞きます。むろん、何もしないよりは身体を使ったほうがいいに決まっていますから、まったく身体を動かさない生活を送るよりは、筋トレを行ったほうがいいでしょう。ただ、筋トレをすれば身体をうまく使えるようになるかというと、これはまた別の話です。
 筋トレで効果を上げようとする人は、早く疲れたい願望があるように感じます。筋肉に早く負荷をかけて早く疲れさせよう、これだけ疲れたのだから筋肉が刺激されて太くなるだろう。そんなふうに「早く疲れよう、早く疲れよう」として筋肉に負荷をかけていると、確かに筋肉は希望どおりに太くなります。
 ですが、早く疲れるというのは、身体のある部分に多くの負荷をかける「下手な身体の使い方」なのです。下手に身体を使い、筋肉を太くすることで、うまく身体が使えるようになるわけがありません。つまり上手に身体を使いたいと思って始めたトレーニングが、下手に身体を使う練習をせっせと行っているようになってしまうのです。
 その点、仕事は違います。仕事であれば、当然、疲れるためにやっているわけではありませんから、なるべく疲れずに効率よくやろうとします。ですから、子どもの頃から家事労働を行っていた時代には、自ずと、上手に身体を使えるようになったのです。昔の力士が強かったのは、農作業や山仕事など、仕事でつくった身体がその基礎にあったからでしょう。(甲野 2021)

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 現代の人たち、とくに「筋トレ」にいそしむ人たちのなかは、「早く疲れたい願望」があるのだそうだ。これだけストレスフルな社会で「疲れた、疲れた」と言っているのにもかかわらず、その上でまたあえて身体に負荷をかけて手っ取り早く疲れようとするなんて、どんだけ疲れたいのだろうか。
 しかも、甲野さんは、「筋トレ」をすればするほど、身体の使い方が下手になる、と論じているではあるまいか。甲野さん曰く、「身体のある部分に多くの負荷をかける」のは、「下手な身体の使い方」なのだそうだ。下手に身体を使い、筋肉を太くすることで、うまく身体が使えるようになるわけがない、と甲野さんは言い切っている。「上手に身体を使いたい」と思って始めた筋トレが、下手に身体を使う練習をせっせとやってしまうという。なんたる矛盾。なんたる皮肉(筋肉だけに)。

 

(6)「筋トレ」における身体の動かし方と「身体を上手に使う」こととは違う?

 それでは、「身体を上手に使う」とは、どのようにすればよいのだろうか。甲野さんは、次のように述べている。

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 部分にかかりそうになる負荷を身体全体でうまく受け止めて、部分が負荷を感じないようにする。そして、筋肉の緊張と弛緩のグラデーションが速やかに変化するようにする。それが、身体を上手に使うということです。/重い荷物をただ持ち上げるといった単純な動作であれば、筋トレで鍛えた筋肉でも役に立つでしょう。しかし、武術はもちろんのこと、さまざまに変化する連続的な動きや咄嗟の動きなど、本当に役立つ動きを身につけるには、筋肉が緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと目まぐるしく変化する必要があります。ある動作をするときに、余計な緊張が残っていたら邪魔になり、拙い動きになります。/ところが、筋トレでつくり上げたような大きな筋肉というのは、緊張から弛緩へ、弛緩から緊張への速やかな変化が決して得意ではありません。(甲野 2021、85-87頁より)

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 わたしが「介護予防」のための運動へのギモンとして感じてきたことの一つには、「筋トレ」と同じように一部分だけの筋肉をせっせと強化することに重きをおく一方で、日々の暮らしのなかで「身体を上手に使う」ことを十二分に考えたメニューを提示しているのだろうか?ということでもあった。そのため、ここでの連載で何度か(何度も?)書いてきたことは、暮らしのなかで、もっとうまいぐあいにからだをはたらかせることができるような〈身遣い〉を取り上げて吟味してきたことでもあった。
 また、この連載で図らずして書くことにもなったことでもあったのだが、ここでの連載中、わたし自身がからだのアッチコッチに痛みを生じてしまっていた。だが、これもまた意図せざる結果なのではあるが、そのたびにからだを「いためない」「いたまない」「つかれない」かつ「リキまない」「キバらない」「ガンバらない」でもよいような、からだのはたらかせ方をたぐりよせ、さぐり出そうとして、それに見合った〈身遣い〉をボディふぃ~るしてきた。筋トレ偏重の「介護予防運動」は、こうしたからだを「いためない」「いたまない」「つかれない」かつ「リキまない」「キバらない」「ガンバらない」でもよいような、からだのはたらかせ方をよくよく考えているか、ギモンを感じる。
 ここで甲野さんが述べているような「部分にかかりそうになる負荷を身体全体でうまく受け止めて、部分が負荷を感じないようにする」というのは、例えばここでの連載でやったような〈身遣い〉もあるのだろう。そして、今までのような「腕っぷし」だけの一部の腕力で持ち上げたりせずに、「キツネさんの手」や「手のひら返し」のような〈身遣い〉をもちいることで肩甲骨にも気にかけてゆき、背中からの力を引き出せるように全身を連動させるような、からだのはたらかせ方でもあるのだろうと思う。

 

(7)〝きたえる身体〟としての身体観から〝気にかける體〟としての身体観へ

 ところで、わたしはこれまで「社会学」という学問を学んできた。社会学というのは、社会における、さまざまな〈あたりまえ〉あるいは〈決めつけ〉を問い直し、捉え直すものであるとわたしは考えている。
 これまでの連載でもさんざん述べてきたことではあるのだが、「介護予防」とそのための運動は、「筋力」を鍛えるのが〈あたりまえ〉に良きものとして成り立っている。その〈あたりまえ〉に良きものとされている〝きたえる身体〟としての身体観を根底から問い直してゆこう。というのが、「ボディふぃ~るだー!!でぐち」として〈身遣い〉のフィールドワークをはじめたきっかけでもあった。
 「ボディふぃ~るだー!!」として、「筋トレ・筋力偏重」で「筋力」によりかかりすぎている「介護予防(運動)」における〝きたえる身体〟としての身体観を問い直す。そして、なおかつ「介護予防(運動)」における〝きたえる身体〟としての身体観から脱するために、それに対抗できるであろう〝気にかける體〟としての身体観を探究してゆこうとした。
 とくに、一部分だけの筋肉・筋力によりかからない、「きたえない」「リキまない」「きばらない」「ふんばらない」「がんばらない」「ムリしない」「いためない」「つかれない」といった〝ないないづくし〟の〈身遣い(気にかける體(からだ)のはたらかせ方)〉のフィールドワークを、はじめたわけなのであった。
そのうえで、「介護されたくない」「介護をうけたくない」というのが〈あたりまえ〉とされてしまっている社会のありように対してギモンを投げかけ、現代社会における「介護される身体」を悲観視し否定視するような思潮に抗い、「介護される身体」を受け容れられる社会を探究してゆきたいとわたしは思っている。
 これからも、「筋トレ・筋力偏重」な「介護予防(運動)」をふっとばすべく、古今東西の〈身遣い〉をボディふぃ~るしながら、筋力偏重の「介護予防(運動)」から脱け出す道をさぐってゆくたい、そう思うボディふぃ~るだー!なのであった。

 

(8)ヘンシン! ボディふぃ~るだー!! とぉー!!!

 ここで突然かもしれませんが、これで、わたしのこの連載は、今回でいったん終わろうと思います。
 これまで、わたしのまどろっこしい拙い文章をお読みいただいた、〝ちびっ子の諸君〟、いやもとい、読者のみなさま、まことにありがとうございました。
 また、わたしの拙い文章を事前にチェックしてご指摘やご意見をいただきました古武術介護の提唱者である岡田慎一郎さん(介護福祉士・理学療法士)と、身体技法研究家の甲野陽紀さんには、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 こんどはまた、〝ボディふぃ~るだー!V3〟として、いやこれではちょっと昭和まるだしなので、令和の時代らしく?〝シン・ボディふぃ~るだー!〟と言ったほうが今風でしょうが、これからも〝ボディふぃ~るだー!〟としてヘンシンしては、古今東西いろいろさまざまな〈身遣い〉を学びながら、これまたいろいろさまざまなボディふぃ~るをしてゆきたいと思います。
 そのときは、〝ちびっ子のみんな〟、いやもとい読者のみなさま、またお会いいたしましょう。
 それまで、さらばだ!! ユルっとヘンシン! ボディふぃ~るだー! とぉー!!

【注】
ここでの文章は、この連載の第四回目でも取り上げている。また、この文章は、出口(2021)の拙書の章でも取り上げている。

【文献】
出口泰靖(2021)「『介護予防』は人の生の〝あおり運転〟になってしまわないか?~「介護(非)予防(無)運動(未)指導員?」への道すがら」『ケアや支援をめぐる〈つながり〉のまよい、とまどいをかみしめて 〈つなまよ〉〈つなとま〉なフィールドワーカーの自己エスノグラフィ』(生活書院、273-298頁)
甲野善紀(2021)『古の武術から学ぶ 老境との向き合い方』山と渓谷社
三好春樹(2005)「介護夜汰話 なんて短絡的なんだろう」『ブリコラージュ』Vol.138、七七舎
三好春樹、髙口光子(2007)『リハビリテーションという幻想』雲母書房

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)