出口泰靖
第10回
ココロを燃やせ!じゃなくて、ハラを燃やせ!?の巻
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(1)ココロを燃やせ!?
以前から、ここでのわたしの連載で、「鬼滅の刃」というマンガやアニメを、ちょくちょく取り上げてさせてもらっている。その「鬼滅の刃」で出てくるセリフの一つに、「心を燃やせ」というものがある。
煉獄杏寿郎という、鬼を倒すためにつくられた鬼殺隊の隊長である「柱」の一人の登場人物がいる。その煉獄さんであるが、アニメにもなって、かなり人気になったらしい。
その煉獄さんが鬼にやぶれ、倒れてしまう。彼の最期に、主人公に語りかける言葉に「心を燃やせ」というセリフが出てくる(単行本『鬼滅の刃』8巻より)。
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己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ
歯を喰いしばって前を向け 君が足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない
共に寄り添って悲しんではくれない
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なんとまあ、じわ~っと胸に染み入るセリフではあーるまいか。
このセリフのなかにある「ココロを燃やせ」というコトバは、映画版のアニメのキャッチコピーにもなったという。そして、煉獄さん人気もあいまって、この「ココロを燃やせ」というコトバもまた人気を博したらしい。
(2)「ココロ」じゃなくて、「ハラ」を燃やせ?
ところで、「ココロを燃やせ」というコトバから、わたしが教わっているヨーガの先生がよく言っていたことを思い出すことがある。
そのヨーガの先生が言うことには、「あなたたち今の人たちは、アタマばっかり燃やしていて、ハラが燃えていない。ハラを燃やしていない。ハラを燃やさないとダメ!!」とおっしゃられていた。
現代人は、「アタマばっかり燃やしている、アタマだけしか燃やしていない」のだという。たしかに、わたしなんかも、パソコンの前にすわり、キーボードをむやみに気ぜわしくパコパコとたたき続け、まさにアタマのなかが熱り立って「アタマばっかり燃やしている」といえるのだろう。
だが、そもそも、「ハラ」って、なんだろう?どこのことなんだろう?どこにあるんだろう?「ハラを燃やせ」って、どこをどのように燃やせばよいのだろう?
ま、まてよ、そのまえに「燃やせ」って言ったって、どうすりゃあ、燃やせてることになるんだろう?
(3)「ハラ」とはバッキバキに割れた腹筋のことなのか?
「ハラ」とは、同じ呼び方をする「腹」、「お腹」のことなのだろうか。
昨今、筋トレブームもあいまって、「お腹」の筋肉、すなわち「腹筋」を鍛える人たちが増えているらしい。
腹直筋という筋肉が、六つにクッキリと割れてみえる状態を「シックスパック」と言うらしい。そんなお腹の持ち主なんざぁ、ぼでぃフィールだー!!でぐちが敬愛?してやまない仮面ライダーのお腹のようだ。そんな仮面ライダーのような、腹筋がバッキバキに割れているような姿を目指して、筋トレにいそしむ人たちがたくさんいるようだ。
それでは、「ハラ」とは、バッキバキに割れている腹筋のことをいうのだろうか。ならば、腹筋の筋トレにはげんでいる人たちは、「お腹の脂肪」は燃やせてるんだろうけど、それは果たして、「ハラを燃やせ」ていることになるんだろうか。
(4)「ハラ」とは「ひさご腹」のことなのか?
奈良の東大寺の南大門に金剛力士像がある(イラスト1)。この仏像は、一見すると筋骨隆々としているので、さぞ、お腹もバッキバキにシックスパックに割れている見事な腹筋かと思いきや、案外、いや、かなり、ドドーンとおなかが出ている。
とはいっても、わたしのようなデップリ、ポッコリ、タップンタップンとしたビール腹(イラスト2)ではない。そうではなく、力士像のほうは、お腹を押せばバイーンっとはじき返されそうな、お腹のなかにからだ中のすべてのエネルギーが溜まっているような、そんなお腹をされている。
ところで、「ハラ」というのは、「腹」という字のほか、「肚」という字もある。これは、「からだの土台」という意味らしい。
東大寺南大門の金剛力士像のお腹というのは、「からだの土台」の意味でもある「ハラ(肚)」にふさわしいのではあるまいか。
なおかつ、金剛力士像のお腹は、シックスパックの腹筋(筋肉のお腹)のほうではなく、むしろ真逆のようにも見えるおなかの「ひさご腹」と言われているものであるようだ。
「ひさご腹」というのは、インド哲学者でヨーガの行者でもあった佐保田鶴治氏らによると以下のようなものだという。
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下腹部は、まるく豊かに快い膨(フクラ)みををもち、弾力に富み、いわゆる瓢箪(ヒョウタン)のようになっている。この状態は心窩(ミズオチ)の下は柔らかく凹み、下腹部は弾力性に富んだ硬さを随時形成できるようになる(佐保田・佐藤1976)
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「ひさご腹」の下腹部は、「まるくふくらんでいる」という。ただ、下っ腹はふくらんでいたとしても弾力があるのだという。そして、おなかの上の部分、とくに、みぞおち(心窩(ミズオチ))の下のほうは、ヘコんでいるというのだ。まさに、「ヒョウタン(瓢箪)」のようなかたちのお腹が、まさに文字通り「ひさご(瓢)腹」であるのだろうか。
もう少し、「ひさご腹」について別の説明をみてみよう。
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ひさごとは瓢簞のことだ。瓢簞にはご存じのように上下のふくらみの間に極端に狭くなった括れがある。ひさご腹はこれと同じで、臍の上に深く凹みが生じ、しかも、その下の部分(下腹)には強力な腹圧がかかり、叩けばはねかえるほどきりっとしまった状態をいう。(村木 2003)
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「ひさご腹」というのは、へその上は深くヘコんでいて、へその下の下っ腹は、「叩けばはねかえるほどきりっとしまった状態」だという。ただし、この「きりっとしまった下腹」は、腹筋がバッキバキに割れている「シックスパック」のおなかのほうではない。
「へその上が深くヘコみ、下腹は叩けばはねかえるほどきりっとしまった状態」というお腹というのは、まさに、先ほどふれた金剛力士像のお腹(肚)のことであるといえるのではないだろうか。そうしてみると、金剛力士像のお腹(肚)は、なんとリッパな、「ひさご腹」であることか。それに比して、わたしのおなかは、なんとも文字通りの「ビールっぱら」であることよ。
現代社会では、お腹がぽっこりと出てしまっていると、「腹囲」なるものを測ることが推奨され「メタボ腹」と言われてしまう始末である。金剛力士像も腹囲を測ることでふるい分けされ、「メタボ腹です」とレッテル貼りをされてしまうのであろうか。
(5)「ひさご腹」の括れ(くびれ)
「ひさご腹」という「ハラ(肚)」の特徴的なものがある。それは、「みずおち下に深い括(くび)れが生ずる」(村木 2003)と言うように、みぞおち(みずおち)の下のあたりが括れていることがあげられる。
「括れ」といっても、現代の多くの人たちが憧れているようなウエストの横っ腹のほうのくびれではない。そうではなく、おなかの前面のみぞおちの下のあたりがヘコんで括れていることを指しているのだ。
その「みずおち(みぞおち)下の括(くび)れ」であるが、あまた数ある仏像のなかに多く見られるという。そういわれてみれば、いろんな仏像をよく見てみると、みぞおち(みずおち)の下のあたりに線が入っている仏像が少なくないのだ。そして、下腹部のあたり、とくにへそ下あたりの下っ腹が、ふっくらとしている仏像が多い。
そのなかでも代表的なものといいのが、奈良の薬師寺の日光菩薩・月光菩薩の立像の仏像であるという。「両菩薩ともみずおち下に真一文字の深い括れが鮮明であり、それが、これまでに見た仏像のどれにも増して深々としたもの」であるようなのだ(村木 2003)。たしかに、日光菩薩・月光菩薩のふたつの仏像の写真を見ると、みずおち(みぞおち)の部分に見られるくっきりとした括れがあるではあるまいか。これは気がつかなかった。
だがこの「ひさご腹」の日光菩薩・月光菩薩もまた、「みずおち(みぞおち)下の括(くび)れ」があったとしても、現代の健康診断で「腹囲」を測られしまうと即座に「メタボ腹」と一緒くたにされるのであろうか。
(6)「ハラ」とは「(臍下)丹田」なのか?
「ハラ」とはどのようなものをいうのか?「ハラを燃やす」というのはどういうことなのか?と、いろいろ「ハラ(肚)」をさぐっているうち、どうも「ハラ(肚)」というのは「丹田」という言葉と一緒に語られていることが少なくないことに気づかされた。
それでは、「丹田」というのは、どういうものであるのだろうか。
「丹田」とは、「内丹術で気を集めて練ることにより霊薬の内丹を作り出すための体内の部位」(吉田 2020)のことであるという。そして、「丹田」という言葉の意味というのは、「気の田」、つまり気から成る「丹」を耕す「田」である(吉田 2020)という。
では、「丹田」というのは、どこにあるというのだろうか。よく言われているものとしては、「臍下丹田」という言葉があるように、へその下あたりであるようだ。そして、「へそ下三寸」という言葉にもあるように、へその下、指三本分とも四本分ともいうあたり(へその約十センチほど下ともいう)にあるとされているようである。
また、野口体操の創始者の野口氏によれば、丹田の位置は、「へそ・そへ(へその真後ろ)・尻の穴の三点を結ぶ三角形の中心」であるという。そして、丹田は「腰の中心でもあり、女性においては子宮の中心でもある」(野口 2003)とも言っている。
「へそ」と「そへ」と「お尻の穴(つまり肛門)」の三点を結ぶ三角形の中心と言われてもなあ。なかなか、ボディふぃ~るしようにも、ここだ!とハラをさぐるには、ムツかしい。
そんなふうに思っていた矢先に、「あさイチ」というNHKの番組を見ていたら、劇団四季というミュージカル劇団の劇団員の声を出すレッスンが紹介されていた(2021年12月7日放映「声の悩み 劇的改善」)。
そのレッスンの一つに、声を出すには、まず「立つ姿勢」が大切、ということで、おへその下にある「丹田」に重心を感じるように立つ、ということが紹介されていた。
その「丹田」がどこにあるか、「後ろから背中を押されたときに、バランスをとろうとお腹の下に力が入る、そこが丹田だ」と説明がなされていた。
実際に、わたしも自分でボディふぃ~るしてみると、たしかに、後ろから押されて、前に倒れまいとすると、お腹の下あたり、まさに「へそ」と「そへ」との真ん中あたり、そしてお尻の穴のちょい上あたりが、キュッとしまるような、そんな感覚をおぼえる。そこが丹田の場所であるというのだ。なるほど、感じとれやすい、といえば感じとれなくもない。
(7)「ハラを燃やす」って言ったって、どうすりゃいいのさ?
「肚を燃やす」ことの手がかりになりそうなからだのはたらかせ方の一つに、「丹田」に気にかけて呼吸をすることがあるようだ。ここで、この「丹田」に気にかけて呼吸をする「丹田呼吸」をボディふぃ~るしてみたい。
「丹田呼吸」は、みぞおちに深いくびれをつくりつつ、みぞおちをくぼめて脱力したリラックス状態をつくり、息を吐きながら腹圧をかけていく呼吸法であるという(『リトルプレス 1/f(エフブンノイチ)vol.9 「息をしている。」』2021/Mayより)。これをみる限り、「丹田呼吸」というのは「ひさご腹」のようなかたちをつくる呼吸と言ってもよいようだ。
「丹田呼吸」というのは、よく、世間で言うところの「腹式呼吸」のことをいうのだろ、と勘違いされるらしい。「腹式呼吸」との違いというのは、息を吐き出すときに「おなかをへこませる」か「へこませないか」というところであるという。
腹式呼吸の場合は、息を吐き出すときにはいっしょにお腹をへこませていくのが一般的なようだ。だが、丹田呼吸での呼吸の場合は、息を吐くときには逆にお腹(下腹部)をふくらませたまま、息を吐き出していくという。そのときにも、みぞおちの下のあたりの上腹部は力まずにチカラをぬいていることが大切だという。
ちなみに、「丹田呼吸」という語は、僧侶の藤田霊斎という人によって日本では初めて用いられたという(NPO法人「丹田呼吸法普及会」ウエブサイトより)。それ以前の文献において、「丹田」という語は以前にも用いられていたそうだが、「丹田呼吸」という語のほうは藤田という僧によって初めて用いられたそうだ。
いま、「丹田呼吸」というのは、さまざまな息のしかたで紹介されているようだ。例えば、「腹圧をかけた呼吸」、「下腹部に力を入れる呼吸」が、たんに「丹田呼吸」と言われる事がある。だが、たとえ腹圧がかかった呼吸であったとしても上半身が緊張してしまう様な呼吸法は「丹田呼吸」であるとはいえないという(NPO法人「丹田呼吸法普及会」ウエブサイトより)。「丹田呼吸」の方法を普及活動している団体では、「いきみ」や「りきみ」による弊害を防止するために、修練としてまずは上半身の力を抜いたリラックスした状態を創りだすことから入るのだという(NPO法人「丹田呼吸法普及会」ウエブサイトより)。
わたしは、ボディふぃ~るだー!として、ここしばらく、「へそ下三寸」あたりの「丹田」らしきところに気にかけて、吐く息で下腹部に圧をかけてみるような〈身遣い〉をこころみてみた。みぞおち(みずおち)あたりには力をぬくように気にかけ、吸う息のときにも、みぞおち(みずおち)あたりには息を入れないように気にかけてみていた。すると、吸う息のときには背中のほうに息が入るようなボディふぃ~るが生まれてくる気がしてきたりもした。
ただし、気にかけていないと、おなか全体に息をいれるような腹式呼吸になってしまう。なかなか、慣れるまでがムツかしい。そう感じてしまう。
もうひとつ、「下腹部に圧をかける」という〈身遣い〉が今ひとつ、わたしのなかで腑に落ちていないようだ。「圧をかけること」というのは、「力を入れること」ととは異なっている。イメージ的には息を吐くときに、へそ下の下腹部あたりに息を押し入れていく、息を押し込んでいくような感じかな、と思ってやってみてはいた。
だがわたしはというと、「下っ腹に圧をかける」ことを気にかけてばかりいるあまり、むやみに力んでしまっている自分がいるのであった。なーんか、いい感じでボディふぃ~るができんもんかのー。
(8)「ぞうきんしぼり」でハラを燃やせ!?
そんなわたしが、「肚(下っ腹)に圧をかける」という〈身遣い〉に悩まされていたとき、ふだんの日常の〈身遣い〉で、丹田呼吸ができているものがあることを学ぶことができた。
「ひさご腹丹田呼吸」を紹介している村木氏によると、ふだんの日常生活のなかでもできる方法があるという。そのひとつが「ぞうきんしぼり」だった。
タオルまたは濡れタオルを用いて、ぞうきんしぼりと同じ要領でしぼってみる。すると、それがおのずから丹田呼吸になっているというのだ(村木 2003)。
村木氏によると、「ぞうきんしぼり」のとき、左右両手を使って、吐く息でしぼるとよいという。とくに、呼吸は、しぼりの動作とともに息を吐くのだそうだ。すると、吸気も深くなるという(村木 2003)。
わたしも、手元にあるタオルをもって、しぼってみる。すると、おのずからみぞおちがフィ~とヘコんで、くぼんでくるではあーるまいか。
また、呼吸のほうも、「ぞうきん(タオル)しぼり」をやってみると、たしかにしぼるときには、おのずと鼻から「ふぅーーーん」と息を吐いているではあーるまいか。
わたしは、小学生の教室そうじの頃から「ぞうきんしぼり」をやっていた。にもかかわらず、丹田呼吸らしきことをやっていたなんて。まったく気がつかなかったことだゾー。
しかも、息を吐きながら「ぞうきんしぼり」をやっていると、たしかに、「りきみ」や「いきみ」とはまた違ったような下っ腹に息が入ってゆくような、んでもって息が溜まってくるようなボディふぃ~るが生まれてくるのを感じとれる。
こ、これが、「下っ腹に圧がかかる」ような、からだのはたらかせ方というのかなあ。どんなもんだろうか。
ついでに言えば、下っ腹から暖かくなるような熱が感じとられてくる気がしてきた。おおっ、これは「ハラが燃えている」といえるんじゃあ、なかろうか。
ただ、「息を下っ腹に息を押し入れる」ことに気にかけすぎてばかりいると、「りきみ」や「いきみ」とが生じてくるときも、まだあったりする。わたしが心がけようとする「気にかける身体」というよりむしろ、わたしが脱しようとする「鍛える身体」に逆戻りしそうな気にさせられてしまう。
これは、ヤ、ヤバい。これって、まるで〝正しい〟丹田呼吸、〝正しい〟呼吸のしかたをわたしは求めすぎちゃってんじゃないのよさ。そもそも、「介護予防」のための運動が、筋力重視で「鍛える身体」の身体観にどっぷりとつかりすぎていることに異を唱えることから、「気にかける身体」としての身体観のもと、この〈身遣い〉のフィールドワークは出発しているのに。「鍛える身体」に戻っちゃあ、本末転倒なのよさ。
「丹田呼吸」を教えている熟練者の方によると、「丹田呼吸」には、人によっていろいろな方法があり、「無相の呼吸法」として一定の形を取る必要はないと考えられているという(『1/f(エフブンノイチ)vol.9』より)。ただ、村木氏によれば、丹田呼吸法を日常生活の中に折り込まなければ、頭で内容を理解しただけでは何の役にも立たない(村木 2003)とも言っている。
おおおおっ、これって前回の連載でもふれた、鬼滅の刃の「全集中の呼吸・常中」の考え方とおんなじじゃないか。
だが、「ハラを燃やす」ことを頭でわかろうとするのではなく、「気にかける身体」として、からだのなかで感じとり、ふだんの暮らしの〈身遣い〉として振る舞るようになるまで、わたしはまだまだかかりそうな気がするなあ、と痛感しているボディふぃ~るだー!なのであった。(んでもって連載はまだまだつづいてゆくのであった。)
【参考・引用文献】
村木弘昌 2003 『白隠の丹田呼吸法』春秋社
野口三千三 2003 『原初生命体としての人間――野口体操の理論』岩波現代文庫
佐保田鶴治・佐藤幸治 1976 『静座のすすめ』創元社
吉田始史 2020 『丹田を作る!丹田を使う!』BABジャパン
説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
(「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)
*この連載は偶数月の月末にアップいたします。