ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈11〉

出口泰靖    


 

第11回 

アンタ、そこに「腰(コシ)」は、あるんか? からだに気にかけられるだけの、「コシ」はあるんか?の巻

 

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(1)悩まされる「腰」のあたりの痛み。

 

 とつぜんだが、わたしは、いわゆる「腰痛」持ちである。
 仕事で疲れたときなど、必ずと言って良いほど、右側のお尻の後ろ側、いわゆる右の「腰」と呼ばれるあたりが、こわばりはじめ、ジンジンと痛んでくる。
 一時期、三〇代の前半頃などは、歩くことにも、事欠くようにまでなってしまっていた。
 以前の連載でも書いたことがあるのだが、武術の夏合宿の時、回し蹴りの稽古でヘンな回し方を繰り返したせいで、股関節を痛めたことからくるものなのか、と思ったりもしたことがあった。
 いろいろな整形外科に行ってみたものの、レントゲンでは特に異常は見られなかった。「強いて言うなら、軽い椎間板ヘルニアなのかなあ」と、医者からは曖昧な言葉しか、いただけてこなかった。
 そんなわけでわたしは、「腰」というものに、長い間、悩ませられ、気にかけつづてきた。そのつもりであった。

 

(2)アンタ、腰(コシ)は、どこに、あるんか?

 

 「腰」といえば、この連載の四回目「きたえるな?きにかけろ!ボディふぃ~るだー!の巻」のときに、「五俵担ぎ」というのを取り上げたことがあった。
 もう一度、「五俵担ぎ」について説明しておきたい。
 むかーし、むかし。とはいっても、大正末か昭和初期の頃のこと。山形県のある地方では、女性の人たちが「五俵担ぎ」という仕事をしていたそうな。
 米俵というのは、一俵六〇キログラムだという。五俵というと、な、なんと、三〇〇キログラムにもなる。その三〇〇キロもある五俵の米俵を、筋肉隆々の重量挙げの選手ではなく、筋骨隆々でもない女性の人たちがかついでいたそうな。
 武術家の光岡英稔さんは、この「五俵担ぎ」について以下のように解説していた。

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 筋力トレーニングの発想では、「なぜ昔の人は五俵を担げたのか」の理解に届きません。そもそも彼女たちが生きていた時代は、筋肉という概念がありませんでした。/ここで注目すべきは、同時代の身体観において「筋肉を鍛えれば筋力が増す」といった発想がそもそも生じないということです。普通の生活をしていたら米俵を当然のように担げる体になったからです。要は足腰がかつてはちゃんとありました。(中略)トレーニングは足腰ではなく、概念上の体を鍛えることにしかなっていないからです。 (藤田、光岡2017、下線は出口による)

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 光岡さんによれば、かつて、といっても昭和初期頃までの人びとは、「五俵担ぎ」ができるほどの「足腰」があったというのだ。しかも、かつての暮らしのなかでは「足腰」がちゃんとあったため、「普通の生活をしていたら米俵を当然のように担げる体になった」というではないか。
 さらに、現代社会のような、「筋肉を鍛えれば筋力が増す」といった「筋肉という概念」によりかかるような「きたえる身体」としての身体観からでは、「五俵担ぎ」のような「身のこなし」または〈身遣い〉というのは説明がつかない、という。
 現代社会の暮らしのなかには「足腰」が、もはやない、というのだろうか。現代の生活では、かつての人びとが培っていた「足腰」はつくれないというのだろうか。現代に住まうわたしは、もうすでに「腰(コシ)」が消え失せてしまっている、いわゆる「腰抜け」状態であるというのだろうか。
 まさに、「アンタ、コシ(腰)はあるんか?」と聞かれたら、「おかみさん、すんません、現代人のアッシには、コシ(腰)はのうなったみたいなんス」と答えるしかないのだろうか。
 はたして、「五俵担ぎ」のような「身のこなし」までとはいかないまでも、現代の暮らしのなかでも「腰(コシ)のある」〈身遣い〉というのは会得できないものであろうか。

 

(3)「腰(コシ)」は、いったい、どこにあるんか?

 

 ところで、今回の連載で取り上げようとする「腰(コシ)」だが、いったい、どこをさして言うとんのやろ?そもそも、どこにあるんやろ?とフト思ってしまった。
 光岡さんの話によると、「腰(コシ)」というのは、わたしなどが思い込んでいるところ(ウエストあたり?)にはないようなのだ。もっといえば、実態として存在しないものであるらしい。

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 光岡:(前略)こうして足腰や肚の大切さを話そうと思っても、だんだん通じなくなっています。なぜなら「腰はどこにありますか。手を当ててみてください」というと、ウエストやローアーバック(背中の下の辺り)、ヒップに手を置く人が増えているからです。日本の伝統からすると、腰とは着物の帯を巻きつける腰周りの骨で、腰とは正確には髀(ひ)や仙骨、鼠蹊部など骨の感覚経験だからです。腰とは解剖学的な存在ではありません。ところが洋服は肉の上に着るので、それがわからなくなります。
 藤田:腰というのは実態ではなく、感覚の上で経験されるものだと理解すべきなんですね。欧米化が進んだせいか、今どきの人はウエストを境に上下にわかれている身体感覚が当たり前になっているように思います。感覚としての腰が有名無実化しているということですね。(藤田、光岡2017、下線は出口による)

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 上記の光岡さんの話によれば、「腰(コシ)」というのは、「解剖学的な存在」ではなく、「髀(ひ)や仙骨、鼠蹊部などの骨の感覚経験」だと言う。ちなみに、「髀(ひ)」というのは、「①もも(股)。ふともも。足のひざから上の部分。「髀肉」 ②ももの骨」という意味があるそうだ。また、「髀」というのは股の総称であるという。そのため、股の外側を「髀外」、内側を「髀内と」いい、「髀関」は「股の付け根」という意味がある(藤田、光岡2017)という。
 光岡さんの話にしたがえば、「腰(コシ)」というのは、「実態」ではなく、「感覚の上で経験されるもの」であるという。
 「感覚経験」。なんとまあ、これまた難しいことをおっしゃるではないか。わたしが長年わずらっていた「腰痛=腰と思い込んでいたあたりの痛み」というのは、どうやら、「感覚経験」としては捉えられていないものであるようだ。

 

(4)「足腰」が消えて失った時代に生きている現代人のわたし

 

 では、現代人のわたしが、なぜに、「腰」が消えて失ったのか。「骨の感覚経験」というものが消え失せ、なくなってしまったのか。
 光岡さんは、以下のように説明している。

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 現代人は体の基礎をすっかり失っていると思います。とはいえ、そうなるのも背景があってのことです。(中略)体の基礎ができる子供の頃に、一日中椅子に坐り続ける経験をするのはけっこう問題です。/というのは、椅子に坐っていると感覚がお尻で止まってしまうからです。お尻から下はただぶらぶらしているだけのもので、足先までが自分だといった感覚がありません。(藤田、光岡2017)

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 光岡さんによると、現代人は一日中、「椅子に坐る」ことを続けてゆくことにより、「足腰」なるものの感覚を失ってしまっている、というのだ。「足先までが自分だといった感覚がない」とまでおっしゃるではないか。
 たしかに、わたしもまた、ご多分に漏れず、椅子にすわる生活にどっぷりつかっている。
 いやはや、まさに、「地に足がつかない状態」とはこのことではあるまいか。

 

(5)「しゃがむ」姿勢が多かった時代

 

 それでは、かつての人びとが、なぜに、「足腰」があったのか。「骨の感覚経験」としての「足腰」があったのは、どういうことなのだろうか。
 光岡さんは、かつての時代は、「しゃがむ」という姿勢が多かったからだと説明している。むしろ、かつての時代は、しゃがまないと暮らしそのものが成り立たなかったといえる。
 たとえば、かつて、お風呂は、薪で湯を沸かしていた。五右衛門風呂のような風呂釜に火を熾す(おこす)とき、そして火の加減をみるときには、薪をくべ、火吹き竹で火を噴き熾し、たきつけたりしながら火加減や湯加減をみていた。そのようなとき、からだはしゃがんで、低い姿勢をとっていた。
 また、かつての家屋には土間があり、そこには湯を沸かしたり調理をするための「竈(かまど)」があった。そこでも、炭や薪をくべて、火吹き竹で火を噴き熾し、たきつけたりして調理をしていた。このようなときにも、しゃがみ姿勢をとっていた。
 さらに、今やほとんどといっていいほどなくなった「和式便所」という便器で用をたすとき、からだはしゃがんで低い姿勢をとっていた。
 こうしてみると、たしかに、今の暮らしというのは、からだを沈める、下に向かう経験というのが、圧倒的に少なくなっている(藤田、光岡2017)といえる。そして、かつての時代は、「しゃがむ」姿勢が多かった。からだが低い姿勢をとることが暮らしのなかに溶け込んでいて、「しゃがみ姿勢」に慣れていたといえる。
 光岡さんによると、昔なら当たり前にできたしゃがむ格好ができない人がどんどん増えている(藤田、光岡2017)という。椅子にすわることしかしていないから、椅子の高さぐらいまでしか体を沈められない、というのだ。
 たしかに、現代の生活では、風呂釜や竈の火熾しなど「しゃがむ」姿勢や姿勢を低くするような〈身遣い〉をすることがほとんどなくなっている。そのようなことから、現代人はしだいに「足腰」が失われ、消えていってしまったのであろうか。
 逆に、かつての人たちは、現代に生きるわたしと比べると、風呂釜に火をおこし、薪をくべて火の加減をおこない、井戸で食器を洗い、川に行って洗濯板で衣服を洗濯をするなど、「しゃがむ」姿勢、からだを沈める、下に向かう経験が圧倒的にあったのだろうなあ、とわたしは思いをめぐらせる。
 それでは、現代に住まうわたしが、「足腰」をとりもどすには、どうすればよいのであろうか。

 

(6)「腰(コシ)」をとりもどすには?

 

 かつての人たちにあったとされる「足腰」を、現代人のわたしにとりもどす(もともとなかったものを「とりもどす」というのもヘンな話だが)には、現代の暮らしにおいても、「しゃがむ」姿勢を取り入れたらよいのであろうか。
 光岡さんによると、彼の道場では、からだの「沈み」というのを経験してもらうために、「しゃがむ稽古」というのをやっているらしい(藤田・光岡2017、光岡2019)。現代人は、あえて稽古として「しゃがむ」姿勢をとる必要があるようなのだ。
 ただし、光岡さん曰く、現代の人は「しゃがめない」のだが、「地べたには坐れる」のだという。その場合、床や地面に坐るときには手をつかないとうまく坐れないのだという。本来ならば、「立つ」格好から「坐る」までの間には、「しゃがむ」姿勢がないとおかしいのに、その間が抜け落ちている、というのだ(藤田・光岡2017)。
 光岡さんの対談相手の禅僧の藤田さんも、坐禅を教える際、「しゃがむ」ことができない人が多いことを指摘している。

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 立っているところから床に坐る姿勢をとるのに一苦労している人が結構います。すーっと滑らかにいかないで、どっこいしょ、という感じでいかにも大変そうにやる。どすんと坐る。日常の中で、めったにしゃがむということをしない、そういうこともしなくてもすむような環境ができているわけですから、そうなるのも無理はないですね。(藤田・光岡2017)

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 立っているときの姿勢から、しゃがむ姿勢までの〈身遣い〉が消え失せてしまっている。そうであるのならば、立っている姿勢からしゃがみ姿勢までの〈身遣い〉を体得しなければならぬようだ。

 

(7)「腰(コシ)」の入った立ち姿勢とは?――「気をつけ」姿勢ではなく?!

 

 ただ、立っているときの姿勢にも、これまた、かつての立ち姿と、現代人の立ち方が違っているようなのだ。わたしたちは、「正しい立ち方」というのを、胸をはり、背筋をピンシャキに伸ばした「気をつけ」の姿勢と思い込みがちである。
 だが、この連載に何回かご登場頂いている古武術介護の提唱者の岡田慎一郎さんによると、この「気をつけ」の立ち姿は、「腰をそらし、胸を反らし、膝も伸びきった姿勢」であり、いわば「そっくりかえった」立ち姿だという。そして、この「腰をそらす」立ち方は、「仮に腰骨の一個一個が積み木だとしたら、積み木を大きくカーブさせて積んでいくようなもの」であり、「腰の一点に負担が集中するため、腰を痛めてしまう」という(岡田2013)。
 それでは、「(腰を)痛めない」で「疲れない」、「力まない」ような立ち姿というのは、どういう姿勢のことをいうのだろうか。岡田さんによれば、「胸をはらず、腰をそらさず、骨盤の上に腰骨がまっすぐに積まれているイメージで立つのだという。すると、ひざも軽く曲がっている体勢となるという(岡田2013)。
 岡田さんと同じように、古武術のからだの使い方を現代の生活に応用することを探究している林久仁則さんもまた、わたしたちが正しい立ち方と信じてやまない「気をつけ」姿勢に疑問を投げかけている。
 林さんによると、わたしたちが「良い姿勢」「正しい姿勢」だと思い込み、みなしきって慣れ親しんでいる、背筋をピンと伸ばした「気をつけ」の立ち姿勢というのは、「上半身や脚の前面に力が入るため疲れやすく、体のさまざまな箇所に緊張が生じてしまう」と述べている(林2022)。そもそも 「気をつけ」の立ち姿勢というのは、体の前面に力が入った状態であるという。胸をはる「気をつけ」の立ち姿勢では、特に体の前面に力みや張りが生まれ、肩周りに意識が上がりやすくなってしまうという。体に緊張があると疲れやすく、さまざまな動作に無理をもたらすことになるのだという。
 こうした「気をつけ」の立ち姿勢に対し、林さんが提唱する「古武術による立ち姿勢」というのは、「下半身に重心をおく」姿勢である。具体的には、まず、「足を少し開いて立つ」。つぎに、「あごを引いて、首を上下に伸ばす」。首を上の方だけではなく、下のほうにも伸ばしていく感じだという。そして、「骨盤をゆるやかに後傾させる」。骨盤を後ろに傾けることで、ひざが自然と曲がり、ゆるまっていく。さらに、胸を沈めて、かかとを踏む。「気をつけ」の姿勢のように、「胸をはる」のではなく、その逆で「胸をすくめるような感じで胸をしずめ、ゆるめる」のだという。骨盤を後傾させ、胸をしずめると、おのずから、かかとの方に重心がいくような感じになるという(林2022)。
 わたしも、岡田さんや林さんが言われている「立ち姿勢」をとってみる。たしかに、骨盤をゆるりと後ろに傾けると、ひざがおのずと勝手に曲がってゆく。そして、この体勢だと、これまた背筋も力まずにおのずから伸びていくようなボディふぃ~るが感じられる。「気をつけ」立ち姿勢だと、背筋を伸ばそうと意識して力んでしまいがちなのだが(イラスト1のように)、力まずに背筋が伸びてゆくような感覚がえられるようだ。そいでもって岡田さんが言っているように、骨盤と腰骨をまっすぐつながっているイメージをもつと、無理ヤリに腰をまっすぐ伸ばして力まなくてもさらに背筋がのび~る感じが生まれるようだ。「骨」を気にかけて立つ、というのはこんな感じなのだろうか、とフト思ったりした(イラスト2)。

イラスト1                イラスト2

さらに、「気をつけ」立ち姿勢のように「胸をはる」のではなく、「胸をしずめる」と、「気をつけ」姿勢のときのような力みがさらにとけてなくなっていくようなボディふぃ~るも感じとられる。このような立ち姿勢だと、なんぼ立っていても疲れにくいかもなあ、とこれまたフト思ったりした。
 これこそ、「腰(コシ)」の入った立ち姿勢なのだろうか。「その立ち姿勢に、腰(コシ)はあるんか?」と聞かれれば、「腰(コシ)がある立ち姿勢なんや!」と、胸をはって、いや「胸をしずめて」立って答えることができるんやろか。
 わたしの自問自答はこれくらいにしといて、それでは、このような「立ち姿勢」から、いざ、「そこに腰(コシ)があるんや」と感じる「しゃがみ姿勢」へ、レッツ、ボディふぃ~る!!

 

 

(8)「腰(コシ)」を感じる「しゃがみ姿勢」のボディふぃ~る!(その1)――ヤンキー坐り!?

 

 立っている姿勢から地面にしゃがむときの、「そこに腰(コシ)があるんやなあ」と感じる「しゃがみ姿勢」)のボディふぃ~るの一つめとしては、岡田さんがおすすめしている「股関節」に気にかける〝ヤンキー坐り〟というのをボディふぃ~るしてみたい(岡田2013)。
 まず、前述したような「気をつけ」な立ち姿勢ではなく、骨盤を後傾させて、「骨盤の上にまっすぐに腰骨がのった」立ち姿勢で立ってみる(イラストその3)。

イラスト3

 そして、足の底で「逆ハの字」をつくっていくような感じで、足先またはつま先を外側に開いてゆく。そうすると、おのずと股関節も開いてゆく感じになってゆく。それにつられるように腰が落ちてゆく。そのとき、「骨盤の上にまっすぐに腰骨がのった」立ち姿勢のままで(イラストその4のように)。ここで岡田さんが注意して欲しい、とよく言っているのが、お腹が曲がっていくようなしゃがみ方ではなく、またひざ中心にして曲がっていくのでもないことだという(岡田2015)。そうではなく、つま先を外側に開いてゆくことで股関節もつられて開かれてゆき、それにあわせて股関節を気にかけながら下半身を床の方へ落としていくような感じである(イラストその5、その6、その7)。
 また、ここで、しゃがむときに、「膝裏(膕(ひかがみ))」 (ヒザ裏の感覚)に気にかけるとよい(光岡2017)ともいう。そうすると、ひざに負荷がかかる感じがゆるまり、ひざの負担が減るようだ。
 ここでいうところの「ヤンキー坐り」というのは、床に手を置いて坐る、一時期よく言われた「地べたリアン」のような「たりぃ坐り」(岡田2013)のような床にへたれたダラけた坐りではない。それこそ、「そこに腰(コシ)があるんやなあ」と感じるような腰の入った「しゃがみ姿勢」なんで、そこんとこ、ヨ・ロ・シ・ク。

イラスト4                  イラスト5

 

イラスト6                                           イラスト7

 

(9)「腰(コシ)」を感じる「しゃがみ姿勢」のボディふぃ~る!(その2)――花輪のポーズ

 

 そういえば、わたしが十数年間学んでいるヨーガにも、「ヤンキー坐り」と同じようなポーズ(アーサナ)があったことを思い出した。
 ヨーガのお師匠さんも、「『しゃがむ』の大事!今の人たちは、キチンとしゃがめていない!しっかりしゃがむこと!!!」と、おっしゃっていたっけ。
 「マーラ」というコトバは、「花輪」の意味があるそうだ。サンスクリット語で、「マーラ」は「花輪、数珠」の意味があるらしい。この花輪のポーズは、股関節を開いてしゃがみ、胸の前で手を合わせ(合掌す)る。
 この花輪のポーズによる「しゃがみ姿勢」をボディふぃ~るしてみたい(以下の花輪のポーズのやり方は、「ヨガジャーナルオンライン」から参考にした)。
 まず、脚を肩幅に開いて立ち、足先を四五〜九〇度ほど外側に開く。両手は体の横におく。
 つぎに、股関節から上半身を前に倒し、両手を床につく。
 そして、足裏全体を床につけたまま、お尻を床の方へ下ろしてしゃがむ。ここではじめてしゃがむ姿勢をとることになる。
 両手のひらを胸の前で合わせて合掌する。両ひじで両ひざの内側を押し、両足の拇指球で床を押しながら、ひざでもひじを押す。力むことなく、ひじとひざで押しつけ合う感じであろうか。お尻の力が抜けないように坐骨を床に向け、尾骨を内側に向けることに気にかけてゆく。こんなとき、お尻の穴をキュッ、キュッ、キュッとしめるのもおすすめかもしれない。

イラスト8

 この花輪のポーズは、しゃがむだけのポーズではなく、足裏全体で床を押し、頭頂を天井方向に引き上げ、ひじとひざで押すように、全方向に引き合うことを意識するのだという。胸の前で合掌をしてバランスがとりにくい場合は、両手を床につき、手のひらで床を押してひじを伸ばし、腰が伸びるとこまで上半身を引き上げてゆく感じをとればよいという(「ヨガジャーナルオンライン」より)。

 

(10)「腰(コシ)」を感じる「しゃがみ姿勢」のボディふぃ~る!(その3)――草取り

 

 ふたたび、「ヤンキー坐り」という「しゃがみ姿勢」に話をもどしたい。
 岡田さんは、この「ヤンキー坐り」という「しゃがみ姿勢」を応用して、現代社会においても日常の暮らしのなかで取り入れてみたら、とすすめている(岡田2015)。
 その一つは、「草取り」である。しゃがみ方としては、先ほど述べたように、肩幅、もしくはやや広いぐらいに足を開き、ひざとつま先をひろげて、骨盤と腰骨はまっすぐにして股関節からしゃがむ。このときも、お腹を中心に曲げることなく、ひざを中心に曲げることなく、股関節を気にかけながら。
 進み方としては、股関節からひざを倒していく。ひざがつく直前に反対側のひざを立ててゆく。そのまま、その動作を繰り返す(岡田2015)のだという。
 現代に住まうわたしなどは、しゃがんだ体勢で、草取りをしながら動くと、腰やひざに負担がきやすいと思い込んでしまっている。草取りをするとからだを痛めたり、疲れてしまうのは、「筋力が足りないから」とか「体が硬いから」とか思い込みがちである。
 だが、草取りには草取りにふさわしい「からだのはたらかせ方」がある。とくに、からだを「いためない」、からだが「つかれない」ような〈身遣い〉がある。その「からだのはたらかせ方」に気づかずに、やみくもに草取りをやっていると、からだを痛めたり、疲れたりしてしまうのだ、と岡田さんは言う(岡田2015)。
 それでは、からだを「いためない」、「つかれない」ような〈身遣い〉というのはどういうことなのか。
 その一つは、股関節からつま先を広げて、しっかりしゃがむことが肝だという。また、「ひざ曲げ」中心にならないように、「お腹から曲げ」ないようにすることも肝要だという。
岡田さんによれば、椅子に坐る延長として、「ひざ中心」で坐ろうとすると、後方重心になり、なんとかバランスを保とうと、お腹から上体を曲げてしまう。そのことで、腰に負担がかかってしまうようになる。また、しっかりとしゃがむこともできなくなるため、腰が高くなり、かかとも浮いてしまう体勢となる、と岡田さんは言う(岡田2015)。
 そこで、股関節から、ひざとつま先を広げてゆき、骨盤と腰骨を真っ直ぐに保ったまま、しっかりとしゃがんでゆく。すると、お腹から曲がってしまうことはなくなる。そのため、腰にも負担がかかりにくくなるという(岡田2015)。
 えてして、草取りで動く場合には、ひざを中心に振り出すように進む人が多く見られるという。ひざを中心にしていると、ひざ一点に負担が集中しやすく、使う筋肉も太ももの前側が中心となり、痛めやすく、疲れやすくなる(岡田2015)。
 そこで、股関節を中心に動かすように変えてみる。股関節からひざを前に押すようにしていくと、太ももの裏側、内側、前側と全体的に使われることで、力を出しやすく、負担もかかりにくく、よって疲れにくい、という〈身遣い〉に切り替わってゆくのだという。

 

(11)現代社会における〝腰抜け〟な身体を問い直す

 

 今回の連載では、現代に住まうわたしのような人は、「腰(コシ)」が消え失せてしまっている、いわゆる「腰抜け」状態である。そのことから、「しゃがみ」姿勢を、かつての「腰(コシ)」をとりもどす(あらたに体得する)ための〈身遣い〉として、「しゃがみ」姿勢のボディふぃ~るを試み、吟味してみた。
 ここでフト思ったのだが、「しゃがみ」姿勢は、一見すると、今流行りの筋トレのメニューの一つである「スクワット」と同じようにも見える。「しゃがみ」姿勢と「スクワット」とはどのように異なるといえるのだろうか。
 「スクワット」というのは、いわば「足腰の筋肉」を鍛えるものであるのだろう。だが、スクワットのような筋トレを無理に自らに課して筋肉をつけようとしなくとも、かつての人たちは、ふだんの暮らしのなかで「足腰」が培われていた(らしい)。筋肉隆々でなくとも、「五俵担ぎ」のようなものもできていた(らしい)。
 また、「きたえる身体」の身体観の名のもとに、筋トレとしてのスクワットを「お腹曲げ中心に」、そして「ひざ曲げ中心に」ガンバって回数を気にしてやってしまっていると、かえって腰やひざを痛めてしまうかもしれない。
 さらに言えば、光岡さんの考え方によれば、スクワットのような筋トレというのは、前回の連載でも取り上げた「肚(ハラ)」や「腰(コシ)」を練るようなものではなく、「概念上の体をきたえることにしかなっていない」といえるのだろうか。
 これは、わたしが目指そうとする、脱「筋トレ・筋力増強に偏重な介護予防運動」にめっちゃつながる話ではなかろうか。いわば、「きたえない」、「ガンバらない」、「いためない」、「つかれない」、「りきまない」、ないないづくしの「からだのはたらかせ方」として、「しゃがみ」姿勢における〈身遣い〉は、是が非でも取り入れたいものであるなあ。
 かといって、「しゃがみ」姿勢における〈身遣い〉を気にかけるだけで、「腰(コシ)」のあるからだをとりもどす(あらたに体得する)ことができるわけでもないだろう。
 かつての人びとにあったであろう「腰(コシ)」。その「腰(コシ)」を、わたしもとりもどす(あらたに体得する)ことができるのだろうか。それができたならば、長年悩ませられてきた「腰痛」なるものも消え失せてくれるのであろうか。
 まずは手始めに、「腰(コシ)」のあるからだをとりもどす(あらたに体得する)足がかりとして、「本腰を入れる」「腰を据える」というコトバがあるように、わたしも本腰をいれて、「腰(コシ)」の入った「しゃがみ」姿勢における〈身遣い〉に気にかけながら、「腰(コシ)」体得するべく、いざ、草取りへいざなわん。
 と、思ってわたしは、意気揚々と家の玄関のドアを開け、外に出てみた。だが、真夏の、真っ昼間の、ギラギラとギラつく真っ赤に燃える太陽のもと、灼熱地獄の外で、草取りかあ。
 ……涼しい季節になったら、やってみることにしよう(な、なんという、腰抜けなボディふぃ~るだー!であることよ)。
 まずは、和式便所を見つけて、そこで、シッカリとしゃがみ、腰の入ったしゃがみを試みることにしよう(イラストその9)、とちょっとこれまた逃げ腰気味になってしまったボディふぃ~る!でぐちでなのであった。(そいでもって、まだまだ、もうちょっと連載は続くので、そこんとこ、ヨ・ロ・シ・ク。)

イラスト9

 

参考文献
藤田一照、‎光岡英稔 2017 『退歩のススメ――失われた身体観を取り戻す』晶文社
林久仁則 2022 『古武術に学ぶ体の使い方――脱!筋トレ!?いにしえの知恵で暮らしの動作が楽になる』(「NHK 趣味どきっ!」2022年 2月1日~3月29日Eテレ毎週火曜日放映)NHK出版
光岡英稔 2019 『身体の聲』PHP研究所
岡田慎一郎 2013 『あたりまえのカラダ』イースト・プレス
岡田慎一郎 2015 『体の使い方を変えればこんなに疲れない! 体力&筋力がなくても大丈夫!!』SHC

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。