ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈17〉

出口泰靖    


 

第17回 

「コトバ」が「カラダ」に、「カラダ」が「コトバ」に響応する!?その2
――「コトバ」は「カラダ」に響応するだけでなく、〝現実〟や〝世界〟をつくる!?の巻

 

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(1)「コトバ」が「カラダ」に、「カラダ」が「コトバ」に響応する!?

 前回、大橋しんさんの提唱している〝魔法のフレーズ〟という〈身遣い〉を取り上げた。大橋さんがおすすめしている〝フレーズ〟の「コトバ」を唱えることで、緊張や気張りや頑張りによってガチガチにかたまっている「カラダ」に響いてゆく。「コトバ」によって「カラダ」がフンワリ、ユッタリ、ゆるまってゆく。そんな〈身遣い〉であった。
 このような、「コトバ」によって「カラダ」が響応するといったことは、他の〈身遣い〉の達人の方もまた、似たようなことを取り組まれているように思う。
 この連載でも何度か取り上げさせていただいている身体技法研究家の甲野陽紀さんもその一人だとわたしは思っていたりする。
 たとえば、甲野陽紀さんは「手に持ったコップ〝を〟テーブルに置いてください」と促されたあとにする動作の場合と、「手に持ったコップ〝から〟テーブルに置いてください」と促されたあとにする動作の場合とでは、身体の安定感がなぜか変わってしまう、と言っている(甲野 2018)。
 「コップ〝を〟」の「コトバ」のときには感じられたしっかりした安定感が、「コップ〝から〟」の「コトバ」ときには身体の安定感がうすれてしまい、なかにはおおいにカラダがグラついてしまう人もいるという。
 このように、うながしの「コトバ」の言い方ひとつだけでも、身体の安定感が変わってしまうというのだ。
 また、甲野陽紀さんは、グーをつくるとき、指を閉じていくときに、「手を閉じる」か「指先を閉じる」かで、身体の感じが劇的に変わってくる、と言っている(甲野 2018)。
 「指先を閉じる」グーをつくって走ると、以前より走りが速くなる、というのだ。また、指先を閉じてグーをつくる立ち姿勢をとって、身体を揺らしてもらうことでも、その身体の感じの違いがわかるという(甲野 2018)。
 さらに甲野陽紀さんは、「くっつく」という「コトバ」と、「ついていく」という「コトバ」とで「カラダ」の感じ方が違う、ということも言っている(甲野 2018)。わたしも甲野さんの解説にしたがって、「ついていく」場合と「くっつく」場合の「コトバ」によって響応する「カラダ」の違いをボディふぃ~るしてみる。
 はじめに、Aさんとわたしとで二人一組になって、お互いが向かい合って立つ。Aさんが、片手の手のひらを上にして前に差し出す。わたしは、イラストその1(注1)にもあるように、Aさんの手のひらの上に自分の手のひらを重ねる。その状態からAさんは、自分の手のひらを、前後や左右といった、どの方向でもかまわず動かす役割をとる。

イラストその 1


 わたしは、Aさんの手のひらの上に自分の手のひらを重ねたまま、相手の手のひらに「ついていく」場合をやってみる。わたしは「ついていく、ついていく……」と「ついていく」という「コトバ」を頭の中で唱えながら、時に声に出しながら、Aさんの手のうごきに「ついていこう」とする。だが、わたしはAさんの手のうごきにどんなにガンバって「ついていこう」としても、「ついていく」ことができず、わたしの手はAさんの手からいともかんたんに離されてしまう(イラストその2)。

イラストその2


 こんどは、わたしは同じ体勢で「くっつく」場合をやってみる。「くっつく」という「コトバ」を頭の中で唱えながら、なんなら「くっつく」という「コトバ」を声にしながらやってみる。すると、あらら、不思議なるものかな、「くっつく」の場合には、まさに「くっつく」という「コトバ」が「カラダ」にあらわされたかのように、なかなか離されることなく、相手の手と「くっついた」まま、うごいていくではあるまいか(イラストその3)。

イラストその3


 甲野陽紀さんが言うことには、センス次第では、手を離そうとする側の人がどのように動こうとしても、まるで手の内に吸盤がついているかのように、相手の手のひらから離れないことができるのだという。まさに「くっつく」状態になるのだそうだ。
 ところで、「ついていく」ことでは相手の手のうごきに「ついていく」ことができなかったにもかかわらず、「くっつく」ということではなぜそれほど苦もなく「くっつく」ことができるようになったのか?このことについて、「そうしようと思ったからそうなったわけではない」のが不思議だと述べ、さらに陽紀さんは、次のように述べている。

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 「くっつく」というコトバを受けた身体が、勝手に「それは、こういうことだね」とやってくれているような、自分の身体でありながら、自分がしたように思えないところも、不思議さを倍増させているような気がします。AIがいかに進歩したとしても、最初にプログラムという名の設定があってこその動きです。設定を超えることはないはずですから、そう考えても、身体のこの〝賢さ〟は別格です。
 プログラムという考え方を、身体にあてはめてみることもできるかもしれません。あるコトバ(匂いでも風景でも手触りでも、経験のある身体感覚を引き出すことができればなんでもいいのですが)を受け取った瞬間に、みなさん自身も知らないプログラムが自動的に立ちあがり、動きだすのが身体です――身体の中にはおそらく、わたし自身も知らない「わたし」がたくさんいるのです。(甲野 2018、134-135頁)

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 「ついていく」という「コトバ」と、「くっつく」という「コトバ」とで、こうも「カラダ」のはたらきが変わってしまうものであるのか。この、「コトバ」によって「カラダ」のはたらかせ方を引き出してくれるボディふぃ~る。これらのことも、「コトバ」が「カラダ」に、「カラダ」が「コトバ」に響応することといえないだろうか。

 

(2)「コトバ」は〝現実〟や〝世界〟をつくる!?

 「コトバ」が「カラダ」に響応する、「カラダ」が「コトバ」に響応する。このような考え方、ものの見方は、社会学の学問分野では「社会構成主義(社会構築主義)」と呼ばれるアプローチ方法に近いのかもしれない。
 「社会構成主義」とは、「言葉が現実をつくる」、すなわち、「コトバ」がわたしたちの生きる〝現実〟や〝世界〟をかたちづくる、というものの見方であり考え方である(野口 2002)。「社会構成主義」というアプローチを紹介した社会学者の野口裕二さんは、「コトバ」が〝現実〟や〝世界〟をかたちづくるというものの見方について次のように説明している。

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 言葉が世界をつくる。たしかに、わたしたちは日々、言葉を使って何かを表現し、何かを伝達している。したがって、言葉がなければ、世界を表現したり伝達したりすることはできないという意味で、たしかに言葉が世界をつくっているといえる。しかし、社会構成主義が主張するのは実はこのことではない。世界がまずあって、それがことばで表現されるのではなく、言葉が先にあって、その言葉が指し示すようなかたちで世界が経験されるというのが、社会構成主義の主張である。/ちょっと常識を引っくり返すような考え方だが、このことは、たとえば、わたしたちが直接見たことのない世界(たとえば死後の世界)について語りあうことができるという事実のなかによくあらわれている。このとき、世界が言葉で表現されているというよりも、言葉が世界を構成しているというべきであろう。/それでは、直接目にしている世界についてはどうかというと、これも同様に説明できる。直接目にしている世界をある言葉で語るということは、別の言葉で語らないという選択がなされたことを意味する。このとき、世界は別の言葉ではなくある言葉が指し示すようなものとしてわれわれの前に立ち現れてしまう。つまり、言葉が世界をつくる。(野口 2002、17頁より)

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 このほか、野口さんは、「コトバ」が〝現実〟や〝世界〟をつくる具体例として、「セクハラ」という「コトバ」をあげていたりする。

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 かつて(といってもそんなに昔ではない)、「セクハラ」という言葉がまだなかった頃、たとえば職場で男性の上司が部下の女性の体にふれる行為は、女性にとって不快だけれどどうしようもないこと、我慢するしかないことだと思われていた。しかし、いま、「セクハラ」という言葉の普及によって、それは明らかに「許されない行為」「犯罪」として認識されるようになった。「言葉」が「現実」を創造したのである。(中略)
 つまり、言葉が世界をつくるのだが、これでもまだ、次のような反論があるかもしれない。たしかにそういう場合もあるが、それはあくまで例外的なケースであって、ほとんどの場合、客観的事実と言葉は対応しているのではないかと。
 しかし、ここで問題なのは、数の問題、確率の問題ではない。たとえば数は少なくとも、そうした場合がたしかにありうることが、言葉が現実を構成していることの決定的な証拠となる。いまは疑いようがなく動かしようがないと思われている「確かな現実」も、将来、いつ違うかたちで認識されるようになるかわからないといえるからである。
 「セクハラ」のように、新しい言葉の発明と普及によって、「現実」はいつ異なる姿をもってわたしたちの前にあらわれてくるかわからない。「現実」はつねにそうした変更の可能性に開かれている。つまり、わたしたちは、客観的事実ではなく言葉をたよりに現実を認識し、自分の生きる世界を構成しているのだといえる。(野口 2002、19-20頁より)

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 このように、「コトバ」というのは「カラダ」に響応するだけではなく、〝現実〟や〝世界〟をつくるというような側面もあるといえるのだろう。

 

(3)「介護予防」という「コトバ」がつくる〝現実〟や〝世界〟ってヘン?

 「コトバ」が〝現実〟や〝世界〟をつくってしまう。そのような側面から見てみると、「コトバ」によって〝なんだかヘンな現実や世界〟がつくられてしまっているなあ、とわたしがつくづく感じてしまっていることがある。
 そのひとつが、この連載でもたびたびグチのようにこぼしている、「介護予防」という「コトバ」と、その「コトバ」によってつくられている〝現実〟や〝世界〟である。
 「介護予防」というのは、要は「介護される身体」にならないよう予防することなのであろう。一見、誰もが「良きこと」として〝あたりまえ〟のものとして思ってしまっている、この「介護予防」という「コトバ」。
 わたしは、この「介護予防」という「コトバ」やその考え方は、人の生の〝あおり運転〟になってしまわないか?と、かなり〝キケンなもの〟ではないか?と、ギモンを投げかけてきた(出口 2021)。
 「介護予防」の「コトバ」によって、「介護される身体」になることをどこか「予防(身体を鍛えること)を怠けた」かのように決めつけてしまいかねない〝世界〟になってしまうのではないか、とわたしは危惧している。
 「介護予防」という「コトバ」によって、介護が必要になった人を「予防の怠け者」というレッテルを貼ってしまい、差別してしまうような〝世界〟になりかねないのではないだろうか。そしてそれはまた、「介護されずになんでも自分でできなければいけない」という強迫観念を生み出しかねないのではないだろうか。
 これらの論に対して必ず出てくる反論として、「誰でもみんな、介護されたくはない、というのが本音なのでは?」という主張というのがある。
 誰でもみんな、介護されたくはないと思うだろ。だから、「介護される身体」にならないよう、「介護予防」という「コトバ」や考え方が受け入れられ、広く行き渡りはじめているのではないか、という主張である。
 であるのならば、さらにわたしは問いたい。なぜ、「介護されること」を避けようとするのだろうか。なぜ、「介護されてまで、人に頼ろうと思わない、助けてもらおうとは思わない」のだろうか。
 その背景の一つには、「介護する」というのは大変だ、ということをいろんなところで見たり聞いたりすることで、今後の「介護」には期待していない、期待できないことの思いからくるあらわれなのではないだろうか。
 だがしかし、そういった主張や思いというのは、今現在が「介護される身体」になっても大丈夫な、安心できるような介護の仕組みがつくられている社会になっていないから、とはいえないだろうか。

 

(4)「介護予防」という「コトバ」の次は、「育児予防」?

 介護現場や理学療法の分野からも、「介護予防」というのは変なコトバだ、とずいぶんと前から主張し批判してきた人がいる。理学療法士の立場から現場の介護についてさまざまな場で論じてきた三好春樹さんは、感染症の予防ならわかる、だが 「介護予防」というのは変なコトバだ、それどころか差別的な用語だ、と批判している(三好 2005)。
 というのも、と「介護予防」という「コトバ」や考え方自体には要介護者を差別する面が隠されている、と三好さんは論じている。「介護されるようになった高齢者はこの世にあってはならない存在なのか」と三好さんは「介護予防」の「コトバ」や考え方に疑問を投げかけている。
 さらに三好さんは、「介護予防」というコトバに象徴される、「介護を受けるような高齢者はこの世にあってはならぬ」という考え方には、「自立した個人」を至上の価値とする西欧的近代社会の人間観が底流にある、と論じている。そうした人間観から、「介護される状況になると人間の尊厳はなくなってしまう」とか、「自立した個人でなくなったら人間ではなくなる」という強迫観念が生まれている、と三好さんは論破している(三好 2005)。
 こうした人間観は、いずれ「育児される子ども」もあってはならぬ、とか考えはじめて「育児予防」なんて言い出すにちがいない、なんてことまで三好さんは言っていたりする。「介護予防」なんて「コトバ」をつくり出すような人間観が根強い社会は、そのうち「育児予防」って「コトバ」をつくり出すんじゃないか、と三好さんはキョーレツな皮肉を言って「介護予防」の底にある人間観を批判しているのだ。

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 私がSF作家なら、親や社会が育児をしなくていいように社会的人工子宮によって、十分成長してから誕生させるようになった近未来社会を書くだろう。いや、近未来でなくても「育児される子ども」を邪魔者扱いする無意識はこの社会に蔓延していて、それが親による子ども殺しや虐待として表れていると思えてならない。(三好 2005、183頁より)

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 このような三好さんの指摘から考えてみると、「介護予防」という「コトバ」がとてもヘンなのがよくわかる。
 「育児予防」という「コトバ」に対し、おそらく誰もがみなヘンだと気づき、わかるだろう。にもかかわらず、「介護予防」がヘンだとほとんど誰も思わないのが、ヘンじゃあ、ないだろうか。それとも、ヘンなのは、わたしのほうなのか?

 

(5)「介護予防」にとってかわる「コトバ」は?

 三好春樹さんは、「介護される身体」に帯する差別的な人間観が根強いために、現代の社会はいつまでたっても「障害や認知症のある人の生活をつくろう」と言わないし、「一人ひとりの老化と障害に相応しい生活を手づくりする」社会をめざそうとしない、と嘆いている(三好 2005)。
 人がこの世に生まれ、子として育っていき、そのなかでいろんな場面で病いや障害をもち、老いて死んでゆく。そのような「生、老、病、障、死」をめぐって、わたしたちはさまざまな場面や状況で「予防」することができない、〝予(あらかじ)め、ふせぎえぬ〟ことに出くわしてしまう。
 〝予(あらかじ)め、ふせぐ〟ことができようもないことならば、あえて「ふせぐこと」をあくせくと考えずに、むしろ、「介護されるカラダ」となってからどううごけばよいか、どのような「カラダ」のはたらかせ方ができるのか、などといったことを、丁寧かつ丹念に考えてゆくことのほうこそ、必要なことなのではないだろうか。
 さらに言ってしまえば、「介護予防」という「コトバ」によってつくろうとしているような「介護される『カラダ』をもたない人がいなくなる〝世界〟」なんか、ミョーにヘンちくりんな〝世界〟なんじゃなかろうか、とわたしなんかは思う。それよりも、「介護される『カラダ』で大丈夫!!」といったような「コトバ」によって、介護される「カラダ」で安心しておおらかに暮らしてゆける社会の仕組みをつくってゆく。そっちのほうがよっぽどよいのではなかろうか、とわたしなんかは思ってしまう。
 「介護予防」というヘンちくりんな「コトバ」を用いなくてもすむような、いい感じで「カラダ」が響応してゆくような、もっとなにか良い感じの「コトバ」はないもんだろうかのー、と考えあぐんでいるボディふぃ~るだー!なのであった。

 
【注】
(1)わたしが描いている、その1からその3までのイラストは、甲野(2018)さんの本のなかに書かれている解説や、その本に描かれているイラストも参考にして、わたしなりのイラストにして描いてみている。

 
【文献】
甲野陽紀(2018)『身体は「わたし」を映す間鏡である』和器出版
出口泰靖(2021)「『介護予防』は人の生の〝あおり運転〟になってしまわないか?――「介護(非)予防(無)運動(未)指導員?」への道すがら」『ケアや支援をめぐる〈つながり〉のまよい、とまどいをかみしめて 〈つなまよ〉〈つなとま〉なフィールドワーカーの自己エスノグラフィ』(生活書院、273-298頁)
三好春樹(2005)「『介護予防』のつぎは『育児予防』?」『介護の専門性とは何か』雲母書房、182-191頁より
野口裕二(2002)『物語としてのケア』医学書院

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。