ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈2〉

出口泰靖    


 

第2回 

「手のひら返し」にケリつける!?
んでもって「手のひら返し」で「肩甲骨」や「背中」に気にかける!? の巻

 

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(1)わたしのなかの「気の弱さ」「気の小ささ」をとっぱらう?

 

 前回、人をなぐるのも、けるのも、キライなのにもかかわらず、〝なべブタの身のこなし〟にあこがれて、武術の稽古にいそしんだことについて述べた。
 今回も、わたしが「ボディふぃ~るだー!でぐち」に変身?し、〈身遣い〉のフィールドワークをはじめた経緯について触れておきたい。いましばらく、わたしのヘタレでポンコツな武術遍歴におつき合いのほどを。
 今からしてみると、わたしが武術の稽古をはじめたいと思うようになったのは、前回お話しした〝なべブタの身のこなし〟にあこがれたのとは別に、ほかの理由があったように思う。
 わたしは最初の大学受験の時、ものの見事に失敗し、挫折感を痛いほどに味わった。現役のときには、共通一次試験(わたしの高校生時代は、まだセンター試験導入前であった)で、箸にも棒にもかからない点数をはじき出し、どこの大学にも受験できない結果に終わってしまったのだ。当然、高校卒業後は、大学浪人生活へと突入し、予備校通いをすることになった。
 予備校時代は、中学、高校まで過ごした地方の土地から離れ、東京の予備校で浪人生活を送ることになった。当然、友人も知り合いもいない中、孤独な浪人生活を送ることになった。一日中ずっと、家族以外誰とも口をきかない〝暗黒〟の日々が続いた。
 一浪時代では、受験勉強漬けの毎日をおくった、と言いたいところだが、将来の行く末の不安の沼にどっぷりハマり込んでしまい、あまり勉強に手がつかない日々をおくってしまった。
 結局、希望する大学(高望みしすぎたのもあるが)に行けず、学びたい歴史学の学問分野にも行くことができずに終わってしまった。第一志望でない大学へ、しぶしぶながら行くことになり、わたしは、われながら自分がジクジク、クサクサと腐りかかっていることに気づき、なんとかそこからぬけ出したいと強く思った。
 望まなかった大学に入ったとしても、自分を奮い立たせるため、武道系・武術系の、サークルではなくバリバリの体育会系の部活に入って、根本から気合いを入れ直し、根元から根性をたたき直そうと思った。武術を習い、学ぼうと思ったのは、そんな理由もあった。
 だが、それよりもなによりも、武術を習い、学ぼうと思ったのは、自分自身の「気の弱さ」、「気の小ささ」をとっぱらいたかった、はぎおとしたかった、というのもあった。
 わたしは、いちど受験に失敗してしまったこともあるのか、試験がはじまると、緊張とプレッシャーゆえか、お腹がゆるくなってしまい、満足に問題が解けなくなっていた。そんな自分の「気の弱さ」「気の小ささ」に自分で自分に嫌気がさしてしまっていた。一皮むけたかった。
 そういや、小学六年生のときの恩師からお別れのときにいただいた色紙の言葉が、「脱皮」だった。恩師は、どういう思いで「脱皮」と書いたのか。小学六年生の一年間で一皮むけたな、というおほめの言葉だったのか。いや、小学校時代は脱皮できなかったので、これから一皮むけることができるよう、ガンバるんだぞ、という方だったのだろうな。
 まさに、できうることなら、「脱皮」したかった。武術の稽古に励み、〝なべブタの身のこなし〟を身につければ、一皮むけた、シブい、イカした大人になれるのでは。勝手にそう思い込んでいた(今からしてみれば、そういう思い込みこそ、とっぱらい、はぎおとさねばならなかったのではなかったか)。

 

(2)わたしは一皮むけられるのか? 〝一線〟越えられるのか?

 

 このように、わたしは、稽古をはじめた当初から、武術の身のこなしから自分の「気の弱さ」「気の小ささ」をとっぱらう突破口をさぐり求めようとしていた。でも、武術そのものを究めて相手との格闘に強くなる(武術の達人になる)気はあまりなかった。今からしてみれば、なんとも、妙ちくりんな動機であったことか。
ただ、たしかに、武術を学ばなければ日頃気づき得なかったことも学べた。武術の技や型、組み手の技を覚えるたび、自分の気の弱さ、小ささを克服したような気になっていた。怠け癖のあるわたしにしては珍しく、大学二年生までの二年間は、みっちり武術の稽古に没頭していた。
 だが、矛盾しているようだが、武術の稽古をすればするほど、自らの気の弱さ、気の小ささを、ぶざまなほどに思い知らされてばかりの日々を送ることにもなった(前回の連載原稿の「け、毛穴が開いとるがな!」の文章を参照されたし)。そもそも、わたしは、人をなぐることも、たたくことも、けることも、できない、したくない。もともと、そんな気の弱い、気の小さい人間だ。そんな人間が、武術を少しかじりはじめたくらいのことで、根本から気の弱さや気の小ささが直せると思うなんて、なんとも浅はかな。
 ある日、稽古が終わって、コーチから言われたことがあった。「おまえは、ほんとに、気が弱い。けどな、〝一線〟を越えれば、世界がかわって見える。ちがう世界が見れる。今とちがう景色が見れるぞ」と。
 だが、わたしは、〝一線〟を越えることができないでいた。それどころか、コーチの期待に応えようとしているかのようでいて、それはそれは、「手のひらを返す」ことばかりしてきたのだった。

 

(3)「手のひら返し」ばかりの日々

 

 そうなのだ。わたしは「手のひらを返す」ことばかりしてきた。いま自分が学んでいる武術が自分に合っていないのではないか。そんなふうに変に勝手に思い込み、〝一線〟をこえられない理由を自分のせいではなく、いま学んでいる武術のせいにしようとしていた。
 〝一線〟をこえられずにグジグジしていたわたしは、自分に合う武術はないものかと、大学での武術の稽古を怠け出し、さまざまな武術の流派の道場や教室をさがしもとめ、渡り歩く日々をおくりはじめた。
 別な武術に体験入門し、稽古を受け、その武術を続けるようにみせながら、ふたたびまた「手のひら返し」をするかのようにまた別の流派の武術の稽古に顔を出して入門を乞う、といったことを繰り返していた。自分のやってきた武術をつきつめようとせず、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと、さまざまな武術をかじってばかりの時期があった。
 しかしながら、どの武術の流派を学ぼうとも、わたしは、その〝一線〟を越えることはなかった。「一皮むける」こともなかった。自分のなかに巣くっている「気の弱さ」や「気の小ささ」をとっぱらい、はぎおとしてくれる武術がどこかにあるはずだと、ひとつの武術をじっくり学んでその奥深い世界を会得することなく、いろいろさまざまな武術を見学し、体験入門しては、そのつど、手のひらを返すように、また別の武術の流派の門をたたくのだった。

 

(4)「手のひら返し」にケリつける!?

 

 そんな日々を送って十数年たち、もはや、手当たり次第、いろんな武術の稽古の場をめぐりまわることもなくなり、武術の稽古自体をすることもしなくなりつつあった。それどころか、前回の原稿でも触れたように、腰痛やら股関節痛やら、からだのあちこちにガタがきはじめた。もはや、からだを鍛えるどころの話ではなく、からだへの別なはたらきかけが必要なのではないかと思いはじめた。
 〝なべブタの身のこなし〟のように殺気、気配を感じ取りたい。とか、「気の弱さ」、「気の小ささ」をとっぱらいたい。もはや、そんなことなど、二の次になり、どうでもよくなった。というよりも、腰痛や股関節痛に悩まされている自分にとって、もはや、それどころではなくなった。
ここで、今までの、あくなき「手のひら返し」してばかりの武術遍歴?にケリをつけよう。まず、からだからだ。自分のからだを見つめ直そう。自分の「自らのからだのはたらかせかた」にとっくみあおう。そう思うようになった。

 

(5)と、ここでトツゼン、ボディふぃ~るだー!:「手のひら返し」の〈身遣い〉で「肩甲骨」に気にかける!?

 

 「手のひらを返す」といえば、古武術を応用した介護術のひとつに、「手のひら」を「裏に返す」、いわゆる「手のひら返し」というものがある。この「手のひら返し」は、いつもの動作と異なる〈身遣い〉がある。
 まず、ためしに、片手だけで「手のひら返し」をしてみる。うでを肩の高さまで横にあげてみる。そのとき、手のひらは前に向けている。そこから、手のひらを背中側にうら返してみる。イラストその1のような感じである。すると、肩の裏側、肩甲骨までピーンとした張りが生まれてくる〈ボディふぃ~る〉がする。(イラストその1)

イラストその1

 すると、どうだろうか。片手だけやってみるより、さらに肩の裏側、肩甲骨までピーンとした張りが生まれてくる気がしてくる。もっと言えば、肩甲骨が外側に開いていく〈ボディふぃ~る〉がえられる。つぎに、両の手で「手のひら返し」をしてみる。こんどは、はじめに、手のひらは内側に向けて、うでを肩の高さにまであげてみる。そこから、「くるり」と手のひらを外側に返してみる。イラストその2のような感じである。(イラストその2)

イラストその2

 その「手のひら返し」の〈身遣い〉をもちいて、前回もやってみた「相手を抱え上げる」ことをためしてみる。手の甲から腕をまわし、手首を握って抱えると、「キツネさんの手」と同じように、ヒョイッとラクに抱え上げられる。「手のひら返し」しない場合と比べ、「手のひら返し」で相手を抱え上げた方が、ヒョイッとラクな〈ボディふぃ~る〉がえられる。イラストその3では、手のひらを返したまま抱え上げているが、手のひらを返した状態のまま、片方の手でもう片方の手首を握って抱え上げるとよいらしい。(イラストその3)

イラストその3

 この「手のひら返し」は、あおむけで寝ている状態の人の上半身を起こす場合にも活かされる(イラストその4)。とかく、わたしたちは、寝ている人を起こそうとする場合、手のひらは内側に向けて起こそうとする。その場合、腕にかなり負荷がかかる。腕の筋肉を思いっきり使っている体感がある。(イラストその4)

イラストその4

 そこで、こんどは、手のひらを外側にして相手の背中(肩の裏側)に差し込んでみる。「手のひら返し」をしたまま、手の甲から相手の首の後ろに手を入れて肩を抱いてみる。腕を「手のひら返し」にしたまま、手の甲のうえにして相手の背中に入れてみるのである。
 そして、手のひらを外側にしたまま、すなわち「手のひら返し」にしたまま、相手を起こしてみる。すると、思いのほか、ヒョイッと、あまり腕の力を使わずして相手を起こすことができてしまう。

 

(6)「手のひら返し」という〈身遣い〉によって、どのようなからだのはたらかせ方がおこっているのか?

 

 手のひらを返す。それだけの〈身遣い〉で、どうしてそんな大きなチカラが生まれるというのだろうか。そこには、どのようなからだのはたらかせ方がおこっているのだろうか。
 前回も紹介した岡田慎一郎さんは、「手のひら返し」のチカラの秘密を次のように述べている。

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 手のひらをそのままの向きで抱えるようにあてると、どうしても肘や肩を支点にして筋力を出そうとしてしまう。だが、手のひらを裏返すことにより、腕全体や体幹につながる肩が絞られる。肘や肩が自由に動かないとなると、自然に身体全体が動くようになる。それぞれの関節にある「あそび」がなくなることで、身体全体の力がダイレクトに手まで伝わる。(岡田 2006)
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 「手のひら返し」することによって、肩甲骨が左右に広がるようになる。肩甲骨が広がると、まるで綱引きの綱がピーンと張ったような、適度な張りを背中に感じるようになる。このことで、背中のチカラが腕にまで伝わりやすい状態をつくり、腕っぷしで、腕の筋力、腕力だけで起こすのではなく、からだ全体でチカラをはたらかせて上体を起こすことができる、と岡田さんは言っている(岡田 2006)。
 ちなみに、わたしのイラストでは、手のひらを返したまま、相手の身体を抱き上げたり、上体を起こしたりしている。だが、手の甲からでは相手の背中を抱えにくい場合もある。その場合は、背中の張りは残したまま手首の先だけ返し、手のひらで相手の上体を抱え支えたらよい、と岡田さんは解説している。
 えてして、わたしたちは、「腕っぷし」の、腕だけの力で起こそうとする。腕だけの筋肉、筋力だけに頼りきってしまう。このような筋力に頼りきった抱き起こしの介助をし続けると、介助者の腰を痛めたり筋肉痛に悩まされたりすることになる。
 だが、「手のひら返し」の〈身遣い〉によって抱き起こしをすると、腕っぷしの力をそれほど使わずしてラクに抱き起こせる。それだけではなく、介助される側の人にとっても、身体を痛めず、つらさを感じることなく、それほど負荷がかかることなく、ラクに起き上がることができる。

 

(7)「筋力に頼らない」からだのはたらかせ方

 

 この「手のひら返し」による介護術について岡田さんは、前回も紹介した武術研究者の甲野善紀さんから、そのヒントを得たと述べている(岡田 2006)。甲野さんの稽古会に岡田さんが参加した際、寝ている人の上体を起こす身体術などの「筋力に頼らない動き」を紹介していたという。
 その稽古会で甲野さんは、寝ている人の上体を起こすとき、通常だと相手の肩口に手のひらから差し込むところを、「手の甲」から差し込んでいた。そのうえで、手首を返して手のひらから抱えていたという。
 これらの〈身遣い〉をヒント、手がかりに、岡田さんは独自に試行錯誤を繰り返し、創意工夫して、日常生活のさまざまな場面での「手のひら返し」を編み出してきた。たとえば、買い物袋を持つときなども、持ち手を外側に手のひらを向けて「手のひら返し」すると、腕だけで持っている感覚がとれ、肩甲骨から背中まで体で持っている〈ボディふぃ~る〉がつかめる。などなど、「手のひら返し」の〈身遣い〉は、日常生活での、いろいろさまざまな場面にも活かされることを提案している。
 また、上体起こしの〈身遣い〉の方も、岡田さんはその後も、たえずバージョンアップ、アップデートさせてきている。そして介護の場だけではなく、救急搬送の分野にも上体起こしなど身体介助の〈身遣い〉を提案し続けている(岡田 2019)。
 さらに、甲野善紀さんのご子息で身体技法研究者である甲野陽紀さんも、独自のアプローチで「筋力に頼らない」上半身を起こす介護術を紹介している(甲野・甲野 2014)。甲野善紀さんは、この「筋力に頼らない」からだのはたらかせ方について次のように述べている。

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 (身体の介護や介助というのは-引用者補足)相手の方に負担がかからないように配慮しながら、同時に手際の良さも求められる動作です。時間に追われているとつい力任せになってしまいがちですが、そうした動作は相手に不快感を与えてしまうばかりか、介助する人自身の腰や膝、腕などを痛めてしまうことにもなります。「お互いに心地よく」は、介助動作すべてに共通する目標のひとつでしょう。「心地よさ」を感じさせる動きに、腕力のような部分的で強い力は必要ありません。(甲野 2014: 88-89)
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 そのうえで甲野陽紀さんは、介助する際に「心がけたいことは、カラダ全体がひとつになって働く働き方を見つけること」だと述べている(甲野・甲野 2014)。

 

(8)お互いの心地よさをさぐる〈身遣い〉

 

 「手のひら返し」の起き上がり介助の表現のしかたは、岡田さん、甲野さんたちでそれぞれ独自の表現をもちいている。「手のひら返し」という〈身遣い〉を用いた起き上がり介助ひとつとっても、言い表し方、言葉にすることで、いろいろな表現のしかたがあることに気づかされる。
 甲野善紀さんの上体起こしでは、「手の甲を上に親指から差し込む」「親指から右手を差し込むのは、こちらの肩がつまらないようにするため」「手のひらを返して相手を抱え、そのまま後ろに倒れ込むようにすると、相手の体が起きてくる」といった言い表し方をしている(甲野 2003: 36-37)
 岡田さんは、相手を抱き起こすとき、「腕力で引き上げるのではなく、相手の身体と一体感をたもったまま、後ろに倒れるように」自らの身体をもっていく、そうすると 「相手の身体が自然と起き上がってくる」と表現している(岡田 2009)。
 「手のひら返し」による抱き起こし、上体起こしは、フワリ、と浮くような感じで持ち上げられるので、介助される側の人も心地よく起き上がれる。ただ、人によっては、そのフワッとした〈ボディふぃ~る〉が怖い、と最初は不安がってしまう人もいるかもしれない。
 なかには、「相手を倒すために練り上げられた古武術の技法で身体介助なんかされたらたまったもんじゃない」とか、「介助される人たちに恐れや不安を感じさせてしまうのでは?」などというような思いをもつ人もいるかもしれない。
 だが、甲野善紀さんは、以下のように述べ、介助する人もラクにからだをはたらかせられることは、介助される人にとっても心地いいものであると指摘している。

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 「(前略)この武術を介護に応用した動きは、たとえば横になっている人を起こすときや、床に座っている人を立たせるときなど、武術と同じように、局所に負担がかからない動きで、自分の体重や相手の体重をうまく利用して行います。そうすれば、自分の身体を壊すこともないし、相手も力ずくで動かされるよりも心地いいものなのです」(甲野・田中 2005)
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 甲野陽紀さんは、「相手を動かそうとすると、どうしても力が入ってしまい、それが不快感を与える動作につながってしまう」と述べ、「逆に『自分から動く』気持ちになると、不思議なことに、余分な力をいれなくてもお互いスムースな動作に」なり、それが介助する人も介助される人もお互いに「心地よさにもつながる」という(甲野・甲野 2014: 88-89)。
 えてして、わたしたちはどうしても相手を動かそうとしてしまいがちだ。そうではなく、「自分から動く」気持ちになる。これは、とても、大切なことであるのかもしれない。
 「手のひら返し」の〈身遣い〉は、介護される側の身心の状態や、介護される人の生活の場や条件そして状況によって、この他にもさまざまなバリエーションが考案されてもいる。このような、甲野さんたちや岡田さんによる、そのほかの〈身遣い〉については、次回以降の連載でも紹介していきたい。

 

(9)手と腕は、「バカ社長と出しゃばり社員」!?

 

 今回の「手のひら返し」のような〈身遣い〉について、甲野善紀さんは次のようなことを言っている。

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 人を起こそうとするとき、多くの人がとても苦労する理由は、手を働かせすぎてしまうからです。/人間が生活していく上で、手はもっとも使う頻度が高く、どんな職業に就いている人にとっても、もっとも出番の多い身体の部位だと思うのです。/何かあると、手は常に「自分の出番」というスイッチが入り、すぐに反応してしまいます。/もちろん、そうした反応があるから、突然飛んできたボールなどにも対応できるわけですが、それが習い性となっているため、なにかやろうとすると、手は、まず自分の出番だと思って自動的に反応してしまいます。/その反応は自動的で便利ですが、自動的であるために、かえって、それが仇になってしまうこともあるのです。(甲野 2016: 75-76より)

 手を使って相手を起こそうと、足を踏ん張り、手と身体の一部しかその相手を起こそうとする働きに参加できないため、大きな力が出てこないのです。(中略)そういう意味では時として、手というか、手を含めた腕は「出しゃばり」になるのです。(中略)人間の身体は便利に出来ていますが、時として、その便利さが過剰になりすぎて、使いこなせなくなるのですよね。相手を起こそうとすると、つい、手が積極的に働いてしまうという問題点に、普通、人はなかなか気付けないのです。/この状態を「バカ社長と出しゃばり社員」と私はよく言っています。(甲野 2016: 76-83より)
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 手や腕の力ばかりに頼りきってしまっているのを「バカ社長と出しゃばり社員」とは上手いこと言うもんだなあ。
 今回、〈ボディふぃ~る〉した「手のひら返し」という〈身遣い〉もまた、手と腕の「出しゃばり」をなくすための術であるのだろう。そして、腕っぷしを黙らせ、あえて働かせないことで、「肩甲骨」や「背中」にまで気にかけられ、からだ全体にまではたらかせることができ、かえって腕っぷしよりもラクな、それでいて大きなチカラを出せたといえるのだろう。

 

(10)わたしの「手のひら返し」、お裁きにあう?

 

 それでは、こちらの「手のひら返し」は、どうしたもんだろう。大学で学んでいた武術の稽古にいそしまずに、コロコロと、いろいろさまざまな武術を体験入門し喰いつまんできては「これじゃない」とフラフラし続けてきた、わたしの「手のひら返し」の方である。
 わたしは、コーチの期待に応えようとしているようでいて、それに背くかのように、「手のひら返し」ばかりして悪事?をはたらいてきた。それこそ、時代が江戸時代ならば、わたしはイラストのように、お白州に引っ立てられ、名奉行の遠山の金さんから「おうおうおう!この肩甲骨(?)、いや背中にまで咲いた桜吹雪が、お前の悪事、いや『手のひら返し』をちゃーんとお見通しなんでえ!!」と、片腕を脱いで啖呵を切られ、お裁きを受けねばならぬのじゃあ、なかったろうか。って、そんなお裁きにあったら、あいかわらず「気の弱い」「気の小さい」ままのわたしは、ビビりまくって、しょんべんチビっちゃうだろうなあ。(連載3回目につづく。)

イラストその5

 

文献
甲野善紀監修 2003 『古武術で蘇るカラダ』宝島社
甲野善紀・田中聡 2005 『身体から革命を起こす』新潮社
甲野善紀監修 2007 『古武術の技を活かす』MCプレス
甲野善紀・甲野陽紀 2014 『驚くほど日常生活を楽にする武術&身体術 「カラダの技」の活かし方』山と渓谷社
甲野善紀 2016 『できない理由は、その頑張りと努力にあった 武術の稽古で開けた発想』PHP研究所
岡田慎一郎 2006 『古武術介護入門』医学書院
岡田慎一郎 2009 『古武術介護 実践編』医学書院
岡田慎一郎 2019 『〝筋力に頼らない〟目からウロコの身体操法 古武術式!ラクラク搬送術』イカロス出版

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。