ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈3〉

出口泰靖    


 

第3回 

安まらなくとも、定まらなくとも、ヘンシン!? ボディふぃ~るだー!の巻

 

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 前回、一つの武術をしっかりと学びとおすのでなく、フラフラとさまざまに異なる流派の武術を学びかじっているような、とっても不安定な時期を大学時代のわたしが過ごしていたことについて触れた。今回も、そんなフラフラと安定しない時を過ごすなか、「ボディふぃ~るだー!」(読み間違えないでいただきたいのであるが、「ボディビルダー」ではない)と名乗り、からだのはたらかせ方に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめた経緯について、さらに触れてみたいと思う。

(1)「水面斬り」よか、「真空斬り」。~やっぱり、〝武術の達人〟に、なりたかったんじゃねーの?!

 

前回と前々回、武術そのものをきわめて格闘に強くなる(〝武術の達人〟になる)気はさらさらなかった、と述べた。
 だが、そう述べた後しばらくしてから、やや、まてよ、そうでもないんじゃないのかいな?と記憶をまさぐっていくうちに思い直してみた。
 武術の稽古をはじめたのは、大学に入ってからだ。だが、それまで武術にまったく関心がなかったか?と自らに問えば、幼少の頃から興味はあったといえる。

イラストその1

 昨今、巷では「鬼滅の刃」というマンガやアニメがブームになっているようだ(わたしはまだマンガもアニメも見たことがない)。道を歩いていると、子どもが「水面切り!」と叫んで、おもちゃの刀をふりまわしているのを目にする。それを見ながら、小さい頃のわたしも、たしか似たようなことしていたなあ、と思い出した。
 わたしが子どもの頃は、「赤胴鈴之助」がテレビアニメで放映されていた。主人公の鈴之助が繰り出す「真空切り」という技が、刀を用いずして敵をなぎ倒すものだった(と記憶している)。ケンカ嫌いのわたしにとって、武器を持たないその技が、とても格好良く思えた。その赤胴鈴之助の「真空切り」を真似しては、ひとり遊んでいたように思う(イラストその1のように?)
 それから、『カムイ外伝』などの白土三平の忍者マンガも、むさぼるように読んでいた。そこでも、華奢な体格の主人公が筋骨隆々な武芸者を倒すような忍術を自分も使いこなせるようになりたいと夢想していた。
 そう思い出してみると、なんだ、わたしは小さい頃からなんとなく、〝武術の達人〟に、なりたかったんじゃねーのかよって、自分にツッコミをいれている自分がいた。ただ、やはり腕っぷしの腕力で倒すのとは異なる武術の達人を夢想していたように思う。

 

(2)なにごとにも動じない、「安定」したココロとカラダを

 

 また、前回、武術の稽古をはじめた理由に、「気の小さい」「気の弱い」ビビりな自分を変えたかった、ということを述べた。〝武術の達人〟になれば、そんな「気の小さい」「気の弱い」ビビりな自分を変えられる。内心、そう思っていたようにも思う。
 言い換えれば、「なにごとにも動じないココロとカラダを手に入れたかった」のだろう。そのために、〝鍋ぶたの身のこなし〟(連載1回目参照されたし)を身につけ、〝武術の達人〟になりたかったのだろう。今になってみて、そう思う。
 なにごとにも動じない、「安定」したココロとカラダを手に入れられるのであるのならば、何も武術ではなく、「太鼓の達人(ゲームのそれではない)」などでもよかったのでは?と思う人もいるかもしれない。
 しかし、達人としては、太鼓でも、能でも、伝統芸能でもなく、武術のそれであった。その意味では、やはり、わたしは、〝武術の達人〟に憧れていたのだろうとあらためて思う。

 

(3)当時のわたしは、「安定」を求めていた、のか?~安まらなくとも、定まらなくとも

 

 これまた前回の連載で、いろいろ、さまざまな流派の武術を、フラフラと学びかじってばかりで、なんとも定まらない、「不安定」な稽古暮らしの日々だった話をした。
 だが、そんななかで、いちばん、深い学びがえられたのは、結局のところ、やはり、大学の一年生と二年生で二年間みっちり学んだ武術だったのではなかったか。近頃、そう思い返すようになった。
 そのなかでも特に、大学の武術の稽古で、どんな技でもくりだしてよく、しかも寸止めではない「フリー」という組手から学んだことが大きかった。わたしは「フリー」という組み手が、コワくて、コワくて、しょうがなかった(連載1回目参照されたし)。それでも続けられてきたのは、「フリー」を何度かやってゆくなか、こういうことだったんじゃないだろうか、と思うようになっていったことがある。
 当時のわたしは、不安や緊張を取り除く方法ばかり追い求めてきたように思う。武術をはじめた頃のわたしは、稽古を続けていけば、なにごとにも動じないココロとカラダをえられるだろうと思い込んでいた。武術の稽古をすることによって、ドシッとした「安定」したココロとカラダをえられるだろう、と大きな勘違いをしていた。
 だが、わたしが大学時代に学んだ武術で、なんでもありの「フリー」という、極度の不安と緊張そして恐怖のあるなかでの組手をやって(やらされて?)ゆくなか、多かれ少なかれ、不安や緊張、恐れは、どっちみち、なくなりはしないことに思い知らされた。
 「フリー」では、型や決められた組手と違い、相手がどのような技をくり出してくるか、予想できない。思いもよらぬところから、蹴りや突き、抜き手がとんでくる。そのうえ、寸止め組み手ではないため、この人の技をまともにくらうと、めっちゃ痛いやろな、という恐怖感をもって間をつめていかねばならない。
 そうすると、不安や緊張、恐れを取り払ったり押さえ込んだりするのではなく、むしろ、極度の不安と緊張そして恐怖がある身心の状態のまま、どう我が身を処するか、武術の稽古から教わっていたんじゃないか、と今ごろになって思うようになった。
 ブレまくる。動じてしまうココロとカラダ。安まらなくとも、定まらなくとも、そのただなかで、どう成り振る舞うか?そこにわたしが学んだ武術の肝があるように思えてくるようになった。そんなふうに今では思う。そんなことに気がつくのは、ほかの流派をフラフラと学びかじった後であるのだが。
 また、思い返せば、大学での武術の稽古では、コーチから、からだのひとつひとつを、どういうふうに動かしてゆけばよいか、丹念に教わってきた。ひとつひとつの技について、なぜ、こういう動きをするのか、その意味するところもきちんと教わることが出来ていた。今からしてみれば、これもまた、フラフラ別の流派に教えを乞う必要はまったくなかった、そう思える(のも後の祭りなのだが)。
 しかしながら、じっさい武術をわたしが学んでみると、自分のからだが思い通りに、思うようには動かない、動けないことに、いらだちやもどかしさを感じてしまってもいた。
 わたしが教わった武術のコーチは、ものの見事に技を繰り出す、まさに〝武術の達人〟だった。そのコーチが、初心者のわたしに、技の一つ一つの動きを懇切丁寧にゆっくり見せてくれる。コーチの動きを、見よう見まねで、からだを動かしてみる。だが、コーチのようには動けずにモタモタした動きになってしまっている自分がほとほと情けなく、思うように動けずにいる自らのからだにいらだちを感じてばかりだった。コーチから手取り足取り教わっておきながら、自分の動きのポンコツぶりといったら。フラフラ別の流派に学びにいってしまったのは、そんな情けないポンコツな自分から逃げ出したかったのかもしれない。
 こんなからだの動かしようでは、やはりわたしは、〝武術の達人〟どころか、いっぱしの武術家にもなれそうにもない。そろそろ自分で自分に気づきはじめた。

 

(4)ヘンシン? ボディふぃ~るだー!

 

 そんななか、前回や前々回の連載で紹介した甲野さん父子や、岡田さんなど、新たなカラダの動きやカラダのはたらかせ方を見い出し、創出している人たちがいた。わたしもそんな見出し、創出できないものかと、からだに向き合おうとしてみた。だが、新たなカラダのはたらかせ方など、そんなアイデアは、いっこうにわたしのなかには浮かんでこなかった。
 カラダの新たな動かし方を創出できそうもない。ならば、それらのカラダのはたらかせ方、〈身遣い〉を自ら体感し、その自らの身体の感触からえられた気づきや学びを文字にする、そんな身体感触を表出し表現することは、ポンコツなわたしでも(ポンコツなわたしだからこそ)できうるかもしれない。
 かくして、わたしは、自らの身体感触を表出し表現する「ボディふぃ~るだー!」として変身?することにした。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、こうして始動した。
 実は、「ボディふぃ~るだー!でぐち」としては、すでにわたしは「認知症ケア」のフィールドワークのなかで変身?し活動していた。その「認知症ケア」のフィールドワークのなかでも、わたしは、オロオロと悩み、もがき、逡巡し、グラグラの、フラフラの、不安定なままフィールドワークしていた。
 やがて、その不安定なまま、フィールドワーカーとしての不安定さ、自分自身の「ボディふぃ~る」を研究のまな板の上にのせ、それをとことん見つめてゆこうと考えていた。それが、「ボディふぃ~るだー!でぐち」の誕生の瞬間?であった(詳しくは、出口(2016)を参照されたし)。
 そして、〈身遣い〉のフィールドワークでも、からだのはたらかせ方にオロオロと悩み、もがき、逡巡し、グラグラの、フラフラの、不安定なままであった。〈身遣い〉のフィールドワークでも、その不安定なまま、自分自身の「ボディふぃ~る」をそのまま描き出し、それをとことん見つめてゆこうと考えた。
 こうして、〈身遣い〉のフィールドワークでも、依然として、安まらず、定まらないままの姿をさらすような「ボディふぃ~るだー!でぐち」として再び始動したわけである。
 「仮面ライダー」風に言ってみれば、「認知症ケア」のフィールドワークでは「ボディふぃ~るだー!でぐち1号」であり、〈身遣い〉のフィールドワークでは「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」なのである(といっても、「仮面ライダー」とは違って、ボディふぃ~るだー!は改造人間ではない)。

 

(5)と、ここでいきなり!?またしても、ヘンシン?ボディふぃ~るだー!:「一本足(片足)立ち」の「不安定」な姿勢でこそ出せる〝チカラ〟をボディふぃ~るする

 

 ところで、「不安定」といえば、前回や前々回から紹介している岡田慎一郎さんが、カラダの「不安定」こそ、チカラが出せる場合もある、ということを言って、そのからだのはたらかせ方を紹介している。今回も、そんな〈身遣い〉を取り上げてみたい。
 まず、岡田さんが紹介している『古武術あそび』という本から、「一本足立ち」という〈身遣い〉を取り上げてみたい(岡田2007)。
 ところで、力を出すためにはドシッとした「安定」した姿勢が大切だ、と、わたしたちはよく考えてしまいがちなのではないだろうか。「安定」した姿勢をとった方が、より大きな力が出せる。わたしたちは、えてして、それが〝あたりまえ〟だと思い込んでいないだろうか。片方の足だけで、「不安定」なまま、フラフラと立っている、そんな姿勢よりも、二本の足でしっかり「安定」させて立っている姿勢の方こそ力が出るんだと。
 以前、わたしが「へルパー2級(当時の名称)」の資格や「介護福祉士」の国家資格を取得するために、「介護技術」なるものの講習を受けたことが何度かある。そのとき、「ボディメカニクス」というのを学んだことがある。
 ボディメカニクスというのは、わたしが介護福祉士の資格試験の際に用いた受験本によると、「人体に外部から重力や抵抗が与えられたとき、筋肉や骨、関節にどのような力が生じるかなど、力学的関係によって生ずる姿勢や動作のこと」(『介護福祉士受験ワークブック2007(上)』中央法規、261頁より)だという。その身体力学としてのボディメカニクスを用いて身体介助をすると、介助しやすくなったり、介助者も腰痛などで身体を痛めずに介助できたりすると言われている。
 なかでも、ボディメカニクスの「第一の原則」としてよく言われているのが、「身体を安定するために、重心を低くし、支持基底面積を広く取る」というものだ。
 「支持基底面積」というのは、「要介護者を支えたり、持ちあげたりするときの足場となる面積のこと」(黒澤、他2013)である。より厳密にいうと、「足の裏など、床と接しているところで囲まれた、足の下の面積を指す専門用語」であるという。
 具体的には、たとえば、「足を開いて立つ」と、支持基底面積というのは大きくなる。逆に、「足を閉じて直立する」と、この面積は小さくなる。また、足を左右だけでなく、「前後にも開く」と、支持基底面積は広くなる。
 さらにボディメカニクスでは、「身体の重心を低くする」ことで、「介護者の身体はより安定する」と言われている。できるだけ、足を開いて立つだけでなく、「膝を曲げ、腰を落とした姿勢」を取る。すると、「身体を安定させる」ことができる、というのだ(黒澤、他2013)。
 ボディメカニクスのからだのとらえ方においても、支持基底面積を広く取って膝を落として重心を低くするような「安定」した姿勢をすすめている。このように、力を出すためには「安定」した姿勢を取らねばならない、という考え方が「一般的」であるのだろう。
 だが、逆に「不安定」な姿勢のほうが、かえって、筋力に頼らず力むことなく〝チカラ〟が出せる場合もある。そんな〈身遣い〉を岡田さんが紹介しているので、ここで取り上げてみたい(岡田2007、28-29頁)。

イラストその2

 まず、イラストその2にあるように、Aさん側になる人とBさん側になる人とで、お互い向かい合うように立つ。そして、Aさん側の人は、Bさん側の人の手首あたりを握る(このとき、Aさん側になる人は、Bさん側になる人の手首が痛くなるほど力を入れて握らない)。
 握られたBさん側の人は、左右に腕を振って動かそうとする。対するAさん側の人は、Bさん側の人の腕を動かないようにおさえる。じっさい、わたしもやってみる。すると、この場合、Bさん側の人は、腕を少ししか、あるいはまったく動かすことができない。
 今度は、Bさん側の人は「一本足(片足)立ち」になって、腕を動かしてみる。この場合だと、不思議なことに、先ほどより、大きく動けるようになる。それだけでなく、Aさん側の人のほうは、カラダごとふりまわされるような感じになってしまう(イラストその2)。わたし自身もやってみたのだが、Bさん側になってやってみると、力を入れなくてもAさん側の人をグリングリンと動かすことができてしまう。
 岡田さんの説明によれば、両足で立った(「安定」した)状態では、握られた手を動かそうとすると、どうしても踏ん張って体をねじって腕力を発揮しようとしてしまい、体の一部だけしか使わなくなってしまう、という(岡田2007、28-29頁)。
 それに対して、「一本足(片足)立ち」の姿勢だと、踏ん張ることが難しくなる。体をねじって腕力を発揮するのも難しくなる。だが、逆に、全身が協調して働くようになるという。そのため、部分的にはわずかな筋力しか使えないにもかかわらず、トータルとしては力むことなく大きな力が発揮できる、というのである。
 さらに、「一本足立ち」であるため、「不安定」さは増してしまう。だが、逆に、その「不安定」ゆえの〝チカラ〟というのが、おおいに利用できているのではないか、と岡田さんは考えている(岡田2007、24-25頁)。

 

(6)もういっちょ、ヘンシン?ボディふぃ~るだー!:「片ひざ、しゃがみ、そんきょ」の一見「不安定」な姿勢でこそ出せる〝チカラ〟をボディふぃ~るする

 

 つぎに、これも岡田さんの『古武術あそび』の本から、「片ひざ相撲、しゃがみ相撲、そんきょ相撲」というのを取り上げてみたい(岡田2007)。
 まず、イラストその3にあるように、お互いしっかり坐った正坐の姿勢になって、互いに腕をまっすぐにして押し合ってみる。すると、お互い、力が釣り合ってしまう。そこで、今度は、一方の人が片ひざの姿勢になってみる。すると、正坐の姿勢のままであった相手を押せて後ろにのけぞらせ、コロッと転がせてしまう(イラストその3)。
 つぎに、お互いが片ひざの姿勢になる。すると、再び釣り合ってしまう。そこで今度は、一方が「そんきょ(蹲踞)の構え」になる。すると、片ひざの姿勢のままである相手を押せて後ろにのけぞらせ、コロコロと転がせてしまう(イラストその4)。

 わたしたちは、えてして、正坐で、「安定」した姿勢のほうが、強く押せるだろう、そう思ってしまいがちである。ところが、一方の相手が「片びざ立ち」になったり、「そんきょ(蹲踞)の構え」になったり、最終的には「一本足(片足)」に、と「不安定」な姿勢になればなるほど、不思議なことに力まずして相手をコロコロと転がせてしまうような〝チカラ〟が出せていってしまう。

イラストその3

イラストその4

 

(7)一見「不安定」な姿勢でこそ出せる、筋力に頼らないで力まないチカラ

 

 しっかりと座った、まさに「安定」した姿勢の正坐で押すよりも、「不安定」な姿勢の「そんきょ(蹲踞)の構え」で押すほうが、力まずしてチカラが出せてしまう。それは、どうしてなのだろう。岡田さんは、つぎのように説明している。

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 私たちが普通使っている力の原動力は筋肉の力です。筋肉の力は安定した足場がないと発揮できません。例えば、揺れているつり橋の上で相手を襲うとしても、力は出せませんよね。それは力を出す前に、倒れないように自分を安定させようとするから、力を出すまでに至らないのです。
 また自分は安定した場にいたとしても、相手がつり橋の上にいるとやはり力一杯押すことができません。押す相手がゆらゆらして不安定だと自分もしっかりできず、思わず自分が安定することを優先してしまい、力を出せなくなるようです。
 つまり、安定した正坐の人がそんきょのような不安定な状態を押すのは、つり橋の上にいる人を押すのと同じで、自分が倒れないようにバランスをとることを優先してしまい、うまく押すことができないのです。
 しかも、そんきょの人は、はじめから不安定なので微妙なバランスをとり続けています。正坐の人は押そうとして急に不安定になり、あわててバランスをとろうとします。そこで押し合うわけですから、安定している人のほうが崩れてしまうというわけです。(岡田2007、24-25頁より)
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 もう一つ、相手が自分の腕を握って動かさないようにした際、「一本足(片足)立ち」の方が、自分の腕を(相手の腕も)自由に動かせるのはナゼなのだろう。この一本足で立つことで生まれる「大きな力」についても、岡田さんは次のように述べている。

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 両足で立った状態では、握られた手を動かそうとすると、どうしても踏ん張って身体をねじって腕力を発揮しようとしてしまい、身体の一部だけしか使わなくなってしまいます。一方、一足立ちだと踏ん張ることが難しく、身体をねじって腕力を発揮するのが困難になります。が、逆に全身が協調して働くため、部分的にはわずかな筋力にもかかわらず、トータルとしては大きな力が発揮できるのです。さらに一足立ちであるため不安定さが増し、前の「そんきょ相撲」でも経験したその不安定の力も利用できているのではないかと考えられます。(岡田2007、28-29頁より)
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 この、一見「不安定」な姿勢であるにもかかわらず、いや、「不安定」な姿勢であるからこそ出せるような、筋力に頼らないで、しかも気張らず、踏ん張らず、力まない〝チカラ〟もある。そんな力まなくとも出せる〝チカラ〟の〈身遣い〉としてのカラダのはたらかせ方もあることを、わたし自身、日々の暮らしの中で、どれだけ気にかけられてきたのだろうか。
 もちろん、ボディメカニクスのように、「安定」することで身体介助がスムーズにおこなうこともできるだろうし、腰痛もふせぐことができる場合もあるのだろう。だが、筋力に頼りすぎることで、ヘンに力みすぎたり、気張りすぎたり、踏ん張りすぎたりしてしまうこともあるだろう。筋力に頼りすぎてばかりだと、逆にかえって腰を痛めてしまうこともあるのかもしれない。
 「一本足(片足)立ち」といい、「そんきょ」といい、「不安定」な姿勢のほうが、逆に、かえって、力むことなくチカラが出せる場合もある。これを、身体介助の場面でも、おおいに活かせないものだろうか。
 わたしは、えてして、力を出すためには、踏ん張って「安定」した姿勢をとり、気張って筋力をめいいっぱい用いなければならない、と思い込んではいなかっただろうか。ここは、一つの身体観、価値観にこだわらず、とらわれず、もっともっと、自らのカラダのはたらかせ方に謙虚になって気にかけてゆこう。と、自らのカラダのはたらかせ方にもっと〝けんきょ〟にボディふぃ~るしようと〝そんきょ〟をしながら思うボディふぃ~るだー!でぐち2号であったのだった。

イラストその5

文献
出口泰靖 2016 『あなたを「認知症」と呼ぶ前に――〈かわし合う〉私とあなたのフィールドワーク』生活書院
黒澤貞夫、他 2013 『介護職員初任者研修テキスト』中央法規
岡田慎一郎 2007 『古武術あそび』NHK出版
岡田慎一郎 2013 『あたりまえのカラダ (よりみちパン! セ)』  イースト・プレス

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。