ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈5〉

出口泰靖    


 

第5回 

「はかる」ばかりやないんやで〜「かんじる」んやで〜の巻

 

***************

 

(1)「はかる」ことを、追い求めてた、あの日のわたし

 

 中学3年生のとき、わたしの運動能力が、いきなり、とつぜん?開花?したことがあった。
 それを実感できたのは、春の体力測定で、100M走をはかったときだったと思う。
 そのとき、わたしといっしょに走ったのは、クラスで一番足の速い、学年でも一番か二番を争うんじゃないかというくらい、俊足の持ち主だった。しかも、ロックグループの氣志團の綾小路翔のような見事な金髪リーゼントのバリバリヤンキーだった。でも、そのヤンキーとわたしとは席が前と後ろに座っていて、お互いジョーダンを言い合えるような、とっても良い奴だった。
 位置についてぇ。よーい」ピッ、と笛の音が鳴るや、わたしは駆け出した。走りながら、前を「俊足ヤンキー」が走っているんだろな、と思い、斜め前に目をやってみる。
 あれ?いない。途中でコケてしもうたか?と横をチラと見やると、ナ、ナント、横一列でヤンキーといっしょに駆けてるではないか。
 ありゃりゃ、ヤンキー手抜きしてんのかいな?それともヤンキーの足がおそくなったか?
 そんなことを思っているあいだに、ほぼ、ヤンキーと同列でゴールしてしまった。タイムは?というと、わたしもヤンキーと同じ13秒台をたたき出していた。えー、ウソやん。
 ただ、小学生の頃から、駆けっこだけは、人よりほんの少しだけ速かったこともあり、ちょっと自信はあった。今はどうか知らないが、当時の中3生の100M走が13秒というのは、そこそこ速いほうだった。
 でも、そんなに速く走れたんかいな。わたしは、自分で自分におどろいた。ただ、わたし以上に目をむいておどろいていたのが、「俊足ヤンキー」のほうだった。
 ところで、わたしがいた中学校には、常時、陸上部というものがなかった。そのため、この体力測定で足の速かった生徒のうち何人かが、市の陸上大会に出場することになっていた。
 わたしは、俊足ヤンキーと肩をならべてしまったがために、その大会メンバーに選ばれることとなった。クラスの教室の壁に選出メンバーが貼り出され、そのメンバー表に、わたしの名前が入っていた。
 陸上のユニフォームが着れるのかあ。スパイクもはけるのかあ。わたしは、高揚感に満ちあふれて頬を紅潮させていた。
 その後、選ばれた生徒たちは、放課後、グラウンドに集められて、陸上大会に向けての練習がはじまった。わたしに課せられた目標は、100M走のタイムを13秒台から12秒台にのせていくことだった。その日から、「13秒台から12秒台へ」という、タイムを「はかる」ことへの〝こだわり〟がはじまった。
 だが、いくら、どんなに練習を重ねても、100M走のわたしのタイムが、13秒台から12秒台に届くことは、なかなか、できなかった。なんでやねん。どうしたら、ええねん。あせりと、いらだちが募っていった。
 そのうち、わたしは100M走の練習ではなく、400M走のメンバーとして練習することになった。その当時の理由や経緯が思い出せない。わたしの100M走のタイムが、けっきょく、13秒台から12秒台にのせられなかったからなのだろう。
 400M走は、同じ短距離走でありながら、走りが難しかった。瞬発力やスピードはもちろん、スピードを持続する力や持久力も必要とされた。「曲がったことが大キライ」というわけではないのだが、真っ直ぐ直線コースを走り抜く100M走とは異なり、コーナーを左回りに曲がりながらスピードを落とさず走るのも、難しかった。
 とくに、ペース配分がとても難しかった。序盤に飛ばしすぎると、終盤で息切れしてガス欠状態になって、ペースがガクンと落ちてしまう。終盤まで体力を温存するように走っていると、タイムが思うようにのびない。走り終わると、ドッと倒れ込むようにして、疲労がたまりにたまっていった。
 100M走のタイムを12秒台にする。そのことをめざして、シャカリキに、しゃにむに走り込んできた。種目を100M走から400M走へ変えられ、めざしてきた目標のはしごを急にはずされた、そんな気持ちがつのってきた。
 そんな気持ちが強まると、陸上の練習をつづける意欲もそがれてきた。中3の初夏、受験もひかえていた。親からは、そんなに日が暮れるまで陸上の練習に身をやつしていて大丈夫か?と心配されもした。
 ある日、ひとり職員室に行き、「陸上大会のメンバーからはずさせてくれ、もっと走れるやつがいると思うので」と、体育の先生に申し出た。実は、わたしがメンバーに入らなければ、メンバー入りできたかもしれない同級生がいたことを知っていた。その同級生をわたしの代わりにメンバーに入れてほしい、と願い出た。
 体育教師は意外そうな顔をし、椅子をキイッとわたしの方に向け、職員室の机を背にして「そうか?オレは、瞬発力はお前の方が上だと思っていたけどな」と言ってくれた。
 そう言ってくれただけでも、わたしは満足だった。満足だ、と思い込もうとした。そう言ってくれるのなら、メンバーに残りたかったな、でも、100M走のメンバーだったらよかったのにな、という後悔と未練の気持ちが押し寄せてくるのがわかったからだ。
 陸上大会の壮行会の日、わたしは生徒会の役員として会の進行役の側にまわっていた。わたしは、陸上のユニフォームを着ている俊足ヤンキーや、わたしの代わりにメンバー入りした同級生をうらやましくみていた。同時に、わたしがメンバーのなかに入っていれば、どうだっただろう、という思いもスッと横切った。
 ただ、メンバーとしては100M走のメンバーとして入りたかった。わたしだって、スパイクをはいた練習に入れば、12秒台に届いたのかもしれない。でも、やみくもに走り込みの練習しかやってこなかったわたしにとって、その12秒台が、とてつもなく遠かった。
 12秒台をめざして、タイムを計測すること、「はかる」ことを、追い求めていた、そんな日の、わたしがいた。

 

(2) 〝はかりごと〟の困りごと?――「メタボ」健診をめぐって

 

 それから、数十年経ち、わたしも年を重ね、もはや、往年の頃のような走りは、まったくできなくなった。
 娘が保育園に通っていたとき、運動会で保護者のリレーに出たことがあった。はりきって、本番前の一週間前くらいに、事前に練習してみるか、と思い立った。日も暮れ、人気のない近くの公園で、何十年ぶりかというくらい全力疾走してみた。
 だが、日頃の運動不足がたたり、使わない筋肉をいきなりフルに使ったためか、太ももがパンパンに筋肉痛になり、足があがらなくなってしまった。とうぜん、本番の保護者のリレーでは、筋肉痛がおさまらないまま走ることになってしまう、というていたらくぶりであった。リレーの後、妻から「まるでジョギングしているような走り方ね」と言われてしまった。
 そんなトホホな時も過ぎ、さらにわたしは年をとり、脂肪もつき、体重も増えた。そんなわたしに、「はかること」に対する困りごとが生じてしまった。
 ある日、突然、わたしのもとに「貴殿は判定の結果、『特定保健指導』の対象となりました」とのお達しが届いた(注1)。
 特定保健指導」というのは、「健診の結果に基づき、生活習慣病の発症リスクが高く、生活習慣の改善による生活習慣病の予防効果が高く期待される方を対象に『積極的支援』、『動機付け支援』に判定し、個々の健診結果や生活状況に合わせて、医師や保健師、管理栄養士等の専門家が、生活習慣を見直すサポートを面談にて行う」(送付された手紙の文面より)ものである。
 どうやらわたしは、見事にめでたく?「生活習慣病の予防効果が高く期待される」者として選ばれたらしい。と言えば聞こえは良いが、悪くいえば「〝予防〟が必要な不健康な者」という〝選ばれし者〟として、バッチリと判定されてしまったようだった。
 でも、これって、いわゆる世間で言われている「メタボリック・シンドローム(以下、「メタボ」と略称)」のことではあるまいか?わたしは晴れて?「メタボ」に選ばれたっていうこと、なんじゃあ、ないのか?
 ちなみに「メタボ」は、「内臓脂肪症候群」とも呼ばれている。「メタボリック(metabolic)」とは「代謝」、「シンドローム(syndrome)」とは「症候群」を意味する。
 メタボ」というのは、「内臓脂肪の高い状態」に加えて、「高血圧・高血糖・脂肪の代謝異常の状態」のことであるという。俗にいう通称「メタボ健診」なるものは、心臓病や脳卒中などの動脈硬化による疾患が起きやすくなるとされている「生活習慣病」を予防することが目的であるらしい。
 日本での「メタボ健診」では、「腹回り(腹囲)」の測定をしている。この「腹囲」の測定で、日本では「男性は85cm以上」、「女性は90cm以上」で「内臓脂肪過多」(すなわち「メタボ」)と判定されるという。
 だが、「腹回り」を「はかること」ぐらいで「メタボ」と判定することができるのだろうか。
 いろいろ調べてみると、本来であれば「メタボ」を「はかる」ための診断には精密なCTスキャンが必要であるらしい。しかし、実際のところ精密な検査を行うのは難しいため、より簡易に「はかること」ができる指標として、日本では「男性85cm以上・女性90cm以上」という基準が設定されることになったようだ。
 この「腹囲」のほかに「メタボ」を「はかり」、判定するものとして「BMI」というものもある。「BMI」というのは、「Body mass index」の略で、「身長と体重のバランス」を表す指標のことを指す。
 この「BMI」は、「体重(kg)」を「身長(m)」の2乗で割って算出する。「BMI」は「22」が「理想」らしく、値が小さくなるほど「やせている」、大きくなるほど「太っている」ことになり、「BMI」が「25以上」の人は、「肥満」としてひっかかるという。
 わたしは、「メタボ」ならびに「肥満」とレッテルをはられてしまったのか。通知の文書をあらためて見てみると、そこには、「メタボ」の語も、「肥満」の言葉も、なに一つとして書かれていない。
 不思議に思い、この年に受けた人間ドックの検査結果にある「メタボリック・シンドローム判定」の項目も、あらためてみてみる。すると、そこには「メタボリック・シンドロームではありません(非該当)」と書いてあるではないか。
 念のため、人間ドックの検査結果の数値を確認してみる。まず、「腹囲」の数値は「84.4cm」とある。ギリギリセーフ。
 つぎに「BMI」の数値はというと、「25.0」となっていた。25以上の人が「肥満」としてひっかかるので、ちょうどギリギリひっかかる数値になっていた。
 数日後、共済組合から委託された業者の管理栄養士が面談しにやってきた。その管理栄養士から、どうやら基礎代謝が落ちているようなので、食事の内容や食事をとる時間に気をつけることや、毎日こまめに運動をかかさずつづけること(スクワットやウォーキングをすすめられた)、そして毎日こまめに体重計にのって体重を「はかる」こと、などなど、まさに「生活習慣病」なるものを予防するためのポイントやダイエットのしかたを、ことこまかに詳しく(よく耳にすることであったが)、伝えられた。
 こうして「メタボ」のレッテルをはられたわたしは、「メタボ」の〝はかりごと〟にまんまとはまってしまい、「生活習慣病」なるものを予防するための〝はかりごと〟に見事に巻き込まれることとなってしまったのであった。

 

(3) 「介護予防運動」の〝はかりごと〟?――「はかりごと」のなじめなさ

 

 前回の連載で、「介護予防」のための「運動」というものが、筋トレが重んじられ、筋トレに偏っているのではないか、とギモンを投げかけた。そして「介護予防」そのものに対しても、「『介護』は予防するものなのか?」とギモンを投げかけた。
 実は、この「介護予防」でも、「この人は予防が必要かどうか」判定するために、「歩く速さ」「片足立ち」、そして「握力」など、いろんな「はかりごと」がおこなわれている(注2)。
 なぜ、「歩く速さ」を測るのか。それは、「歩行速度」が「年を重ね、身体の機能が低下し、要介護状態になるかどうか、今の状況から将来の状態を予測するための一つの尺度」(大淵 2013)だかららしい。
では、「歩行速度」というのを実際にどのように測るのか。まず、5~10メートルの距離を、何秒かけて歩くのかを「はかる(計測する)」。5メートルを歩く際、男性では4.4秒以上、女性では5秒以上かかるようになったら、「確実に老化のサイン」(大淵 2013)だという。10メートルを歩くとき、男性で8.8秒以上、女性で10秒以上かかるようであれば「危険」(大淵 2013)だという。それに対し、5メートルを歩くのにかかる時間が、男性で3.6秒未満、女性で3.8秒未満であれば、「優秀」(大淵 2013)だという。
 ここで、フト、わたしはギモンに思う。歩く速さを「はかる(計測する)こと」をする、と言われると、普段はノンビリ歩いている人でも、そのときだけ俄然張り切って早歩きになるのではないだろうか。
 また、「ノンビリ屋さん」と「せっかちさん」とでは、歩く速さが違うと思う。そのような性格やキャラは影響しないものなのだろうか。
 さらに言えば、普段から歩幅が広い人や脚の長い人、身長差といったものが関係するのではないだろうか。わたしのような、短足の人間は、歩く速さを「はかる」テストは、圧倒的に不利になるように思うのだが。フツフツと、ギモンがわいてくる。
 さてさて、つぎに、なぜ「片足立ち」を測るのだろうか。これは、「片足で重心を一定にたもてられる」ことが、「転びにくいからだ」であるかどうか判別する指標になる、ということらしい。
 「片足立ち」では、目を開けた状態のまま、片足で何秒立っていることができるのかを「はかる」という。「男性で20秒未満、女性で10秒未満」しか立っていられないような場合には、「老化のサイン」だという。それに対し、60秒以上立つことができれば大丈夫だという(大淵 2013)。
 ここでも、また、ギモンがわいてくる。これなども、とび職などバランス力をつちかってきた職種の人や体操選手などのスポーツをやってきた人などは、圧倒的に有利になるだろう。
 さらに、なぜ、「握力」を「はかる」のだろうか。それはまず、「握力」の低下というのは、「全身の筋力低下」というのを反映するという。また、「足の筋力」は、「手の筋力」と相関があるという。「手の筋力」が強い人は、「足の筋力」が強く、その反対に、「手の筋力」が弱い人は、「足の筋力」も弱いという傾向があるという(大淵 2013)。
 「握力計」ではかった場合、「男性で29㎏未満、女性で19㎏未満」が「筋力が低下している」という目安となるらしい。「男性で37㎏以上、女性で24㎏以上」あれば「優秀」だという(大淵 2013)。
 「歩行速度」をはかり、「片足立ち」をはかり、「握力」をはかる。「介護予防」プログラムを受ける「高齢」とされる人たちにとって、「筋力」などを「はかる」ことで数字によって数値化され、自分の身体の状態が「見える化」されることにより、「筋トレ」などのモチベーションが上がるのだという。
 それは、わたしが中3のとき、100M走を12秒台で走ることをめざして、タイムを「はかる」ことにシャカリキ、しゃにむになっていたときのことみたいだ。
 だが、人の暮らしや人生においては、いろいろさまざまな「はかりきれないもの/こと」あるいは「はかりしれないもの/こと」があるのではないだろうか。
 三原岳氏は、「数字やデータだけで介護を語ろうとすると、その人の経験や価値観、人生観など数字に表しにくい部分に目が向かず、視点が偏ってしまうリスクがある」と指摘している(三原 2019)。そしてまた、「その人の生活を数字やデータで当てはめるだけでいいのか、その人の複雑な生活を、数字で測定しやすい統計データのごく一部分だけで切り取るだけでいいのか」と指摘している。
 つまるところ、三原氏の指摘というのは、人びとの暮らしというのは、その人たち自身がつちかってきた経験や価値観、人生観などが反映されていて、それらは単純な数字では表しにくく、数字で測定しやすい明快な統計データだけでは把握しにくい、もっと複雑で豊かなものだ、という指摘でもある。
 「強さ」、「速さ」、「長さ」、「多さ」、「大きさ」を「計り」、「測り」、「量る」。「何分」、「何秒」「何回」できるかを「計り」、「測り」、「量る」。「介護予防」なるものや、そのための「運動」というものは、数値、測定、数量、計測を測りすぎている気がする。
 まるで、自らの身体がすべて数字によって支配されるような、わたしのからだのありとあらゆるところに数字のマークをペタペタとはりつけられるような感覚。大げさかもしれないが、そんな気持ちにもさせられる。

 

(4) 「介護予防」の〝はかりごと〟?――「生活習慣病」から「老年症候群」

 

 「介護予防」というのは、一言で言えば、「健康寿命(心身ともに健康で活動的でいられる期間がどれくらいあるか示すもの)の延伸」「健康長寿」をめざすものであるらしい。ただし、「介護予防」は、「生活習慣病」と呼ばれるような疾病の予防というより、むしろ「老年症候群」というものの予防にある、という。いわば、「介護予防」というのは、ターゲットを「生活習慣病」から「老年症候群」にうつしている(注3)
 「老年症候群」というのは、「易転倒性(容易に転倒しやすい)」、「低栄養」、「閉じこもり」、「うつ」、「認知症」など、老化と密接に関連した症候群を指すという。
 ちなみに、「生活習慣病」から「老年症候群」へと切り替わる時期というのは、「70歳頃」といわれている(鈴木・島田・大淵 2015)。別の専門家は、「65~74歳の前期高齢者」は、「メタボ」や心血管病などの「生活習慣病」が悪化しないようにすること、「75歳以降の後期高齢者」は、「忍び寄る老年症候群に注意すること」と言っているのもある(新開省二「健康長寿へのいざさい」山梨日日新聞2021年7月15日付)。
 ここでひねくれ者のわたしは、またしてもモヤモヤっとしてしまう。
 わたしのような「メタボ」とラベリングされた「中年オヤジ」は、「太るな、やせろ」と言われ、「生活習慣病になるぞ」とおどされ、あおられつづける。ところが、70歳頃の「高齢期」にさしかかったとたん、急にこんどは「メタボ」ではなく「老年症候群」に切り替わる。そして、「筋力が衰えるぞ」「寝たきりになるぞ」「筋肉をつけろ」「たくさん食べろ」とあおられる。なんだか、まわりから自分の人生にあれこれケチをつけられ、あれしろ、これしろ、とあおられている。そんな気持ちにさせられるのは、わたしだけなのだろうか。

 

(5) 「介護予防」の〝はかりごと〟?――「フレイル」というコトバの出現?

 

 ところで、「老年症候群」を予防するにあたって、「介護予防」で重要視されているものがある。それが、にわかに巷で広まりつつあるコトバでもある、「フレイル」というものだ(注4)。
 日本老年医学会によると「フレイル」とは、「高齢期に生理的予備機能が低下することでストレスに対する脆弱性が亢進し、生活機能障害、要介護状態、死亡などの転帰に陥りやすい状態」と定義している。要は、「フレイル」とは「要介護」になる一歩手前の状態のようだ。
 そもそも「フレイル」という語は、老年医学で用いられている「フレイルティ(frailty)」の日本語訳であるという。従来から日本では、「フレイルティ(frailty)」の日本語訳として「虚弱」という言葉が用いられてきたという。だが、近年の「フレイルティ(frailty)」の概念には、「適切な運動や食習慣によって改善を図ることができる」という〝可逆性〟が内包されるようになり、「虚弱」や「衰弱」、「脆弱」という訳語は不適当と考えられるようになった。
 そこで、日本老年医学会は、「フレイルティ」の重要性を広く国民に周知していく必要があるため、2014年に「フレイルティ」の日本語訳として「フレイル」を使用する声明を出した。そして、「身体的なフレイル(移動能力や栄養状態など)」、「精神・心理的なフレイル(認知機能や抑うつ状態など)」、「社会的フレイル(閉じこもりや社会的交流など)」が混在した症候群の状態が高齢期の生活を脅かしていることを示した。その一方で、「フレイル」の状態であれば適切な介入によって改善可能であるとし、積極的な介入の必要性を提唱した。
 その「フレイル(とくに身体的フレイル)」を防ぐには、筋力が落ちないように何よりもまずは「筋肉をつける」ことが大切だという。ある意味で、「介護予防」というのは、要介護一歩手前の「フレイル」の予防でもあり、それはとりもなおさず「筋肉・筋力をつける」ということでもあるのだろうか。
 ただ、こうしてみると、やはり、「フレイル」予防であれ、「介護予防」あれ、「あらかじめ、『介護される身体』にならないように」するために〝はかりごと〟をめぐらすことに、よりかかりすぎてはいないだろうか。
 どうにもこうにも、「介護される身体」になることが決して許されない、「介護される身体」となることがまるで「怠けている」「怠惰だ」と決めつけられてしまうような、不寛容な社会へ向かっている気がしてならない。そう思うのは、考えすぎだろうか。

 

(6) 「はかる」ばかりやないんやで~、「きにかける」んやで~、「かんじる」んやで~

 

 このように、「介護予防」というのは、「予防」が必要かどうかを「はかる」。そして「介護予防」のための「運動」というのも、数をかぞえ、速さをはかり、長さをはかり、量をはかり、時間をはかり、筋力をはかる。どちらも、「はかること」、「はかりごと」に重きをおいているように感じる。
 とくに、「介護予防」のための「運動」でも、「秒・分といった時間をはかる」、「回数をはかる」、「筋力をはかる」など、ガンバって身体を「きたえる」ことがくり広げられている。
 ここでわたしは、フト、思う。このような「きたえる身体」という身体観からくる身体の考え方ではなく、もっとこう、からだにずずずぃーと「気にかける」ようなからだのとらえ方はできないものであろうか。
 以前の連載のなかでも紹介させていただいた甲野善紀さんの身体技法(この連載でいうところの〈身遣い〉)のなかに、「鎮心の急所」あるいは「鷹取の手」というものがある。
「鎮心の急所」あるいは「鷹取の手」は、イラスト1のような〈身遣い〉をする(注5)。

イラスト1

 言葉にすると、こういう感じであろうか。
 両肘を水平にして、両手の薬指同士を絡ませ引っかけ合わせて押し下げるように押し付け合い、手の甲側に反らせる。そして、中指を除く親指、人差し指、小指の3本の指をそれぞれ2~3cmほど離して合わせ寄せる。手のひらの中心を深くくぼませるような形にして、肩を下げる。このとき、親指と人差し指と小指の指先をそれぞれくっつけるのではなく、それぞれ2~3cmほど離しておく。そして、両の手のひらの中央がくぼむようにする。
 甲野さんにインタビューした小沢(2016)の記事には、「鎮心の急所」について面白い「実験」をおこなっていた(注6)ので、その「実験」をわたしも実際に体験してみたことがある。
 その「実験」というのは、二人でおこなう。まず、一人が木刀(木刀でなくともラップの芯でもよいかと思う)をもち、わたしに向かって打ち込んでくる。わたしはビクっと身がすくみ、あぶねっと目をつぶり、その木刀をよけようとからだがのけぞってしまう。
 つぎに、「鎮心の急所」の〈身遣い〉をとってみる。ふたたび、相手が木刀を振り下ろしてくる。すると、あらら、不思議なことに、身がすくむこともなく、目をつぶることもなく、からだがのけぞってしまうこともなかった。
 どうして、この、「鎮心の急所」の〈身遣い〉をすることによって、目の前に木刀がせまってきても、ビクッと目をつむってしまったり、身がすくんでしまったりすることもないのだろうか。
 甲野さんはご自身の著書のなかで、次のように説明している。
 カラダのつながりとしては、緊張や不安を感じると横隔膜が縮んで肩にも力が入り、不安感に拍車がかかる。そのときこの鎮心の急所を刺激すると、横隔膜が押し下がり、その作用によって緊張感が和らぐ(甲野・甲野 2014: 108)。
 また、インタビューの記事で甲野さんは、「鎮心の急所」について以下のような解説をしている。

*****

「人間は恐怖を感じるときに横隔膜が縮み上がりますが、手と指をこの形にすると、横隔膜が縮まないので、結果的に恐怖を感じる条件が満たされないため“怖い”と感じないのです。これは即席の方法で、昔の武士は普段の武術の稽古により、重心が下がって横隔膜が縮みあがらないような動きを身につけていたので、危険な場面でも平然としていられたのです」(小沢 2016)

*****

 ツボや経絡などの東洋医学の分野では、「労宮」とも呼ばれているところがある。この「労宮」というツボは、不安な気持ちに襲われたときに、この場所を刺激すると、平常心がもどってくると言われている。すなわち、「鎮心の急所」というのは、「労宮」と同じように、「心を静める効果のある大事な場所」であるという(甲野・甲野 2014: 108)。
 この「鎮心の急所」あるいは「鷹取の手」という〈身遣い〉などは、「きたえる身体」ではなく、まさに、わたしが感じ考えてゆきたいと思っている、からだにずずずぃーと「気にかける」ような「きにかける身体」としてのからだのとらえ方といえるのではないだろうか(まさにイラスト2のように?!ってこのイラスト、以前でも描いたような?)。

イラスト2

 この「鎮心の急所」のような〈身遣い〉を体験してみると、ふだんからいかに自らの「からだのはたらかせ方」に気にかけることをしてこなかったのだろうか、と痛切に思い知らされる。このような〈身遣い〉は、「りきまなくとも」「きばらなくとも」「きたえなくとも」気にかけることで感じとれる「からだのはたらかせ方」ではないだろうか。
 そう思えば思うほど、「速く歩けるか」「片足で長く立ってられるか」「握力があるか」といった「はかる」ことからくる「りきむ」「きばる」ような、下手をすれば「つかれる」「いためる」ような「きたえる身体」に対し、わたしはモヤモヤっとしたギモンを感じてしまう。
 そして、それよりむしろ、「からだのはたらかせ」ひとつひとつに気にかける、そんな「きにかける身体」へ、わたしはいざなわれてゆく。そして、「りきまない」「きばらない」「がんばらない」「きたえない」、さらに「つかれない」「いためない」、まさに「ないないづくし」の「脱介護予防」的な「からだのはたらかせ方」をさぐってゆきたいとわたしは思うようになってゆく。
 それは、今までの連載でも取り上げた「キツネさんの手」や「手のひら返し」のような〈身遣い〉であったりする。次回もまた、「りきまない」「きばらない」「がんばらない」「きたえない」、さらに「つかれない」「いためない」、「ないないづくし」の〈身遣い〉をさらにフィールドワークしてゆきたい。
 そんな今日この頃のボディふぃ~るだー!でぐち、なのであった。


1 この節での文章は、雑誌『支援』10号の特集原稿で書いたもの(出口 2020a)を、一部書き直したものとなっている。
2 この節での文章は、雑誌『支援』10号のエッセイで書いたもの(出口 2020b)を、一部書き直したものとなっている。
3 この節での文章も、雑誌『支援』10号のエッセイで書いたもの(出口 2020b)を、一部書き直したものとなっている。
4 この節での文章も、雑誌『支援』10号のエッセイで書いたもの(出口 2020b)を、一部書き直したものとなっている。
5 ここでの「鎮心の急所」のイラストは、甲野さんにインタビューした小沢(2016)の記事に載っている図のイラストを参考にしながら、わたしなりに描いてみたものである。
6 ちなみに、「鎮心の急所」は他にも、NHKのEテレで放映された番組「SWITCHインタビュー達人達 片桐はいり×甲野善紀」(2016年7月2日)で、「緊張しない裏ワザ」として紹介している。

 

参考文献・引用文献
出口泰靖 2020a 「〝予め、ふせぐ〟ことからのおいてけぼり――青い空の下で、もれ出ずる〈ウンチ〉とわたしの自己エスノグラフィ」『支援』 10号、生活書院: 60-86
出口泰靖 2020b 「『介護予防』は人の生の〝あおり運転〟になってしまわないか?――『介護(非)予防(無)運動(未)指導員?』への道すがら」『支援』10号、生活書院: 204-219
甲野善紀・甲野陽紀 2014 『驚くほど日常生活を楽にする 武術&身体術「カラダの技」の活かし方 たったそれだけ!気づけば簡単!』山と渓谷社
甲野善紀 2016 『できない理由は、その頑張りと努力にあった 武術の稽古で開けた発想』PHP研究所
大淵修一 2013 『健康寿命の延ばし方』中央公論新社
小沢美樹 2016 「WHAT IS THE IDEAL JAPANESE BODY? 甲野善紀が語る武術的身体の哲学――逆三角形が正解とはかぎらない」『GQジャパン』2016年6月7日の記事
鈴木隆雄、島田裕之、大淵修一監修 2015 『完全版 介護予防マニュアル』法研
三原岳 2019 「介護の「科学化」はどこまで可能か――リハビリ強化など予防強化に向けた政策の動向と論点」ニッセイ基礎研レポート: 1-4

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。