ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈6〉

出口泰靖    


 

第6回 

「だらけた身体」に気をつけて、「ゆるまるからだ」に気にかけて、の巻

 

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(1)あやうし!?ボディふぃ~るだー!

 

 〝それ〟は、まだ蒸し暑い日が続いていた、今年の夏ごろからであったろうか。
左の肩、とくに肩甲骨の裏あたりから、腕と手の先まで、ピリピリと、しびれるような痛みが走るようになった。
 最初は、あまり気にしなかった。だが、ピリピリ、ジンジンとしたしびれは、しょっちゅう、おとずれるようになった。夜中、寝返りをしようとして右向きになると、左の肩から腕までがジンジンしびれてくる。そのため、右向きに寝返れないようになってしまった。
 そのうち、朝、歯みがきをして、うがいをしようと、頭や首を後ろにそらそうとすると、肩甲骨の奥の方から腕の先まで、ビリビリビリっとした電流が走るようなしびれが生じるまでになってしまっていることに気がついた。

イラスト1

 このほかにも、朝に洗濯物を干そうと頭を上げるだけでも、ピリピリし出したり、ペットボトルの飲み物を口にしようと、首をあげようとすると肩から腕までジリジリしたシビレが走ったりもした。おフロあがりに、顔を上にあげて、グイッとヤクルトを一気に飲み干そうものにも、肩や腕のシビレがジャマをして、やりづらいったら、ありゃしない。
 「上を向いて歩こう」と言われても、頭を上げることもできず、「見上げてごらん、夜の星を」と言われても、夜空を見上げて眺めることもできない、ときたもんだ。
 こりゃ、どういうことやねん。こいつは、困ったことになった。
 これはあやうし!?ボディふぃ~るだー!

 

(2) 医者の言うことにゃ、「首のヘルニア」っていうことか?

 

 いちおう、と言うか、ねんのため、と言ったほうがよいものか、整形外科というところに行ってみることにした。
 まずはレントゲンをとる、ということになり、右向いて、左向いて、今度は前向いて、と、肩あたりから胸あたり、首まわりのレントゲンをとってもらう。
 いったん、待合室で待って、と言われ、しばらくして名前を呼ばれて診察室に入る。すると、医師が私の首の骨の画像を見ながら、首の骨と骨の間が狭まっているところがあるといえなくもないようだ、と何だかハッキリしない、なんともビミョーなことを言われてしまう。
 医師は、私の後ろにまわって、頭を押さえもち、後ろにそらしたりして「どう?痛む?」と聞いたりした。いてててて、と顔をしかめると、医師は、あっそう、とうなずく。そりゃ、痛むから病院に来ているわけであって。
 それから医者は、黒い、先がとがった三角すい上のゴム上のトンカチのようなものを取り出してくる。なにをするかと思いきや、私の左の脚や左の腕、そして右の脚と右の腕とをそれぞれコンコンとたたきまくるではないか。
 たたきながら、「ここと、ここの感じ方はにぶい?」と聞き出しはじめた。どうやら、左の脚と左の腕の感じ方の違い比べ調べているようだった。急にたたかれて聞かれても、左と右で違いはあるようで、ないようで。今ひとつよくわからずにいた。
 その後、再び待合室で待つように、と言われて待っていると、「リハビリ室」なるところに通される。ベッドに座った状態で、リハビリ担当のスタッフの人に、左側の首や肩や腕を中心に電極をペタペタとつけられる。そして、「今から流しますね~」と「電気」なるものを流される。流す電流に弱さや強さがあるらしく、「最初は、これくらいの強さにしておきましょうか」と言われる。
 電流が流されるたび、左側の首や肩、腕の筋肉がピクッ、ピクッ、と勝手に動く。我ながら、自分の体が自分の体でないようで、いい気味がしない。まるで、電極を足につけられて電気を流されるカエルになった気分だ。
 そのあと、「〝けん引〟をしますねー」と言われる。〝けん引〟?なんじゃ、そりゃ?何の説明もないまま、場所を移され、かなり低い台のような椅子に坐らされた。そこから、あごにシートをかけられ、頭をクレーンのような装置でつるされた。上から頭を持ち上げられ、首をひっぱられるような感じである。
 ただ、姿格好としては、なんだか、モノのような扱いにされたようで、自分が情けなく思え、なんだか泣けてくる。

 

(3) だらけまくった!?のか、ボディふぃ~るだー!

 

 よもや、よもや、だ。
 からだに気にかけて暮らしていきまっしょい、と唱えようとしているボディふぃ~るだー!ともあろうものが。自分のからだへの〈身遣い〉のなさといったら。
 なんたる不覚。不甲斐ない。穴があったら、入りたい。
 この、わたしのからだの肩から腕にまで走るピリピリ、ジンジンした〝しびれ〟というのは、どうしておこってしまったのだろう。自分なりに、いろいろ、考えてみた。
 まず、ここ最近、とみにスマホで調べものをすることが増えてきた。そのついでに、ネットニュースを見はじめると、ついつい、あれも、これも、と見まくってしまう。ふと我に返ると、すわ、こんな時間か、ということが何度かあった。ついつい、スマホに発信され流される数々の情報の誘惑に負け、長い時間、なんとはなしに、だらけた、だらしない姿勢で見続けてしまうなんて。
 なんたる不覚。不甲斐ない。穴があったら、入りたい。
 また、パソコンやスマホを使っているとき、ついつい、首を曲げてうつむいた姿勢になってしまいがちだった。長時間、首を曲げてうつむく姿勢のまま、同じ姿勢をとりつづけていた。
 それらのためでもあるのだろう。長い間、首を曲げてうつむいた状態でいた後、左の首の後ろから左肩にかけてのあたりが、凝っているような、こわばっているような感触をおぼえることがよくあった。そのこわばりのまま、ほっといて、ほったらかしにしてきた。そのつけが、今になってまわってきたのだろうか。
 よもや、よもやだ。

 

(4) 肩や腕のシビレは、医学的にどう説明しているのか?

 

 頭を上げ、首をそらす。すると、肩や腕がジンジン、ピリピリ、シビレてくる。それって、医学的にはどう解釈し説明しているのだろうか? わたしが受診した整形外科の医師は、はっきりと診断名は下さなかった。
 本やネットでいろいろ調べてみると、肩や腕がシビレる症状が出るものの一つに、「頸椎の椎間板ヘルニア(首のヘルニア)」というのがあるという。
 「頸椎の椎間板ヘルニア」というのは、「首の骨と骨の間でクッションの役割をしている椎間板が、あるべき位置からずれて飛びだしてしまう病気」だという。そして、「飛びだした椎間板が神経を圧迫すると、肩甲骨や首の後ろ、肩、腕などに痛みやしびれなどの症状が現れる」という。今まさに、わたしがおそわれているジンジンしたしびれのことではあるまいか。
 巷では、〝地獄に近い痛み〟があるから、「ヘルニア」っていう名前がついたという説が、まことしやかに言われているらしい。英語の「ヘル(hell=地獄)」と「ニア(near=近く)」という二つの単語が合わさって、ヘルニアという言葉が生まれた、ということのようなのだ。
 だが、実際のところ、ヘルニアの本来の語源というのは、ラテン語の「ヘルニア(hernia)」であり、「体の組織などが本来あるべき位置から飛び出した状態」という意味であるという(酒井 2017)。
 ただ、〝地獄に近いような苦しみ〟を味わうというのは、本当のことらしい。わたしの、ジンジン、ピリピリしたシビレも、ほったらかしにしていると、いずれ、〝地獄に近いような苦しみ〟を味わうのであろうか。
よもや、よもや、だ。
 さらに肩や腕のシビレについていろいろ調べてみる。すると、「頸椎椎間板ヘルニア」のほかにも、「頸椎症性神経根症」とか「頸椎症性脊髄症」などといったような、肩や腕のシビレが出る疾患があるらしい。
 「胸郭出口症候群」というのもある。自分の名前が「出口」だからって、疾患も「出口」がつくなんて、なんてご縁があるんでしょう。って、のんきなことを言っている場合ではないのだが。
 治療法にも、いろいろあるらしい。リハビリ室でカエルの足のピクッピクッのような電流を流されたことも、いちおう、治療方法として紹介されていた。あとで調べたことであるが、これは、「電気療法」あるいは「低周波療法」と呼ばれているものらしい。電極を通して患部に弱い刺激を与え、筋肉の軽い収縮、弛緩を促し、血行改善をはかるものであるという(井須2021、122頁より)。
 リハビリ室で首をひっぱられたことも、これまたあとで調べたことであるが、「けん引療法」というものだったようだ。これは、頸椎症による痛みやしびれがある場合や、首や筋肉のこりが強いときなどにおこなわれるものであるという。専用の機器を用いて、15分程度、頭部を引き上げた状態を保つ。効果としては、頸椎の周囲の組織を伸ばし「椎間孔」と呼ばれる箇所を拡げる効果や、筋肉のストレッチ・マッサージ効果による血液循環の改善と促進などが期待できるとされる、という。だが、この療法の科学的根拠は得られていない、ということだそうだ(井須 2021、120頁より)。

 

(5) 首がネックだ? ボディふぃ~るだー!

 

 思えば、小さい頃からわたしは、首がネックになっていたといえなくもない。
 生まれたときなどは、首にへその緒がグルグル巻き付いていたらしい。それゆえにか、幼少の頃は、オマエの首は人よりも、か細いゾー、か弱いゾー、と言われてきた。
 そのためもあるのだろうか、わたしは、いまだに首が据わっていないようなのだ。ひとは、生まれてからしばらくすると、首が据わる、と言われている。
 だが、わたしの場合、その首の据わりが悪いようなのだ。
 学校にあがってからというもの、学年が上がるたびに、クラス全員と担任の先生を含めた集合写真というのを撮る。写真屋さんが「はーい、それじゃあ、撮りますよー」と言われるそのたびに、わたしを指さして「そこのキミ、頭が横に傾いている」と言われ続けた。
 そのほかにも、わたしの体の癖として、よくいつの間にかアゴが前に出てしまうことがある。パソコン作業をし続けようものなら、気がつけば、アゴがスンゴイ感じで前につき出てしまっている(イラスト2のように)。車の運転をし続けていると、これまた気づけば、アゴが、前に、前に、どんどんスライドしてしまってスンゴイことになってしまっている。

イラスト2

 さらにもっと言えば、アゴを上げて寝ているクセもある。横向きになって、アゴを上げて寝ているのだ。頭をそらしつづけながら寝ている。
 肩や腕に流れるジンジンくるシビレというのは、今まで生きてきたわたしの体や姿勢のクセが、積もり積もってあらわれた症状であるのだろうか。とするなら、体のクセ、姿勢のクセを、なんとかしないといけないのだろうか。

 

(6) 背中をゆるやかにしならせろ!? ボディふぃ~るだー!――首が痛まないような〈身遣い〉とは?

 

 この連載で何度もご登場いただいている、〈身遣い〉の達人である岡田慎一郎さんは、理学療法士でもある。彼によると、スマホを見るときに、首だけを曲げている姿勢になってしまいがちだという。
 首だけを曲げる姿勢というのは、首一点に負担が集中しやすくなり、首を痛めてしまうという(岡田 2017)。おそらく、わたしが肩から腕までのしびれに襲われたのは、首だけ曲げた、首に負担をかけすぎた姿勢で、スマホを見ていたということでもあるのだろう(イラスト3のように)。

イラスト3

 それでは、スマホやパソコンを見るとき、首が痛まないような〈身遣い〉として、どういうことに気にかけるとよいのだろうか。
 岡田さんによれば、「首だけ曲げるのではなく、全身を少しずつ曲げていく」とよいという。股関節からはじまり、骨盤、そして腰、さらに首、頭……と背中全体を少しずつ、適度に曲げていった上体にする。これが、首への負担が少ない姿勢だという(岡田 2017)。
 首(頸椎)だけで曲げるよりも、首、肩、背中全体を連動させ、各所を「ゆるませる」意識でパソコンやスマホを見る。そのようにした方が、ラクに作業もおこなえるという。
背中全体を、適度に、少しずつ、ゆるませながら、曲げる。この〈身遣い〉は、例えば、釣り竿のように背骨をしならせるような、からだのはたらかせ方のようだ。釣り竿というのは、全体がしなるから、魚がかかってからの負荷に抵抗できるという。逆に、竿のしなりがないと弱くなり、バキッと折れてしまうという。
 また、背中全体を適度に少しずつ曲げる〈身遣い〉をとる際、骨盤と腰骨は、ゆるませる程度にして、首と腰は曲げすぎないように注意したほうがよいらしい。さらに、お腹が曲がっていたり、首が曲がりすぎていたりすると、首を痛めてしまうという。なので、お腹から曲がらないように気にかけるとよいという。お腹から曲がった姿勢の人は、首を寝違えやすいという。

 

(7) ゆるまるからだとしての、ぶらさがる上体――野口体操の「上体のぶらさげ」

 

 背中をしなやかにして、骨盤と腰骨をゆるませる。そして、こわばったからだをゆるませる。そのためには、どうすればよいだろう。
 わたしは、ふだんから、緊張しがちで、力みがちになる。
 よく、「力をぬけ」と言われたりすることがある。だが、からだのすべての力をぬいてしまうわけにもいかない。おそらく、余分な、余計な力をぬくということだろう。ただし、この「余分な力」「余計な力」をぬく、と言ってもねえ。まさに、言うは易く行うは難し、ではあるまいか。
 そもそも、「力をぬく」ということは、どのような〈身遣い〉、カラダのはたらかせ方なのだろうか。

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 「人間のあらゆる働きにおいて、肩や頸に力が入りすぎ、緊張することは、最も大きな障害である」。
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 こう主張して、独自の〈身遣い〉を編み出した人に、野口三千三氏がいる。彼は、「人間のすべての働き(からだの動きにかぎらず、精神的な働きを含めて)の良否は、肩や頸の柔軟さによって決定される」とも論じた。そして、肩や頸を徹底的にほぐすことによって、文化生活によって疎外された心身の「すこやかさ」をとりもどそうとした。
 野口三千三氏の独特なからだのとらえ方のなかに、「人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨と内臓が浮かんでいる」(野口 2003)というのがある。
 人のからだは、皮膚の袋のなかに液体がはいっており、そのなかに、骨も、内臓も、プカプカと浮かんでいる。そんな感じであろうか。常日頃から、そんなからだのとらえ方をする人は、あまりいないだろう。
 だが、からだのなかに骨や、内臓がプカプカと浮かんでいると、からだを液体のようなイメージをもってみると、からだが軽くなって、からだの力みはもちろんのこと、コリや張りがゆるんでゆくような感じがしないでもない。からだを固体としてとらえていたことで、かえって力みやこわばりが生まれるのかもしれない。
 彼が生み出した「野口体操」という〈身遣い〉のなかに、「上体のぶらさげ」というものがある。現在、野口体操の公式ホームページ上では、YouTubeで「野口体操チャンネル」というのを開設しており、野口体操の動きをわかりやすく紹介している。わたしもその映像を見ながら「上体のぶらさげ」を、ボディふぃ~るしてみた(注1)。
 まず、腰幅くらいに足を開いて立つ。その姿勢のまま、「からだの重さ」を左右の足の裏に、交互に、右へ、そして左へ、という感じで、のせかえてゆく。
 この「重さののせかえ」という動きは、「からだの重心」なのではなく、からだの重さ全体というものを右、左にのせかえるのだという。すると、おのずから、からだ全体が揺れはじめ、それがきっかけとなって鉛直方向(地球の中心方向)に緩めやすくなる(羽鳥 2003)という。
 そのまま、揺れながら腰を後ろに引いてゆく。ワカメやススキがユラユラゆれる、そんな感じだという。骨盤を前に回転させながら、上体をゆっくり下ろしていく。最後に首をゆるめ、頭がぶら下がる。
 ぶら下げたままで、静かに呼吸をしていると、だんだんと、深く、ぶら下がってゆくという。この状態のぶら下げは、だらしない感じとは違い、自然の重さに任せきった、のびのびとして、やすらかな感じだという。
 骨盤を含む上体がぶら下がったら、足の裏で重さを乗せかえながら静かに揺すってみる。ユラユラさせつつ、肩や頸をほぐしていく。とくに、足の裏の感触を味わいながら、ゆすっていくと、だんだん揺れが末端に伝わってゆく。すると、指先まで大きく揺れるという。またやがては、自分のからだの痛いところや凝ったところがわかりだすのだ、という。
 そして、吐く息が、肩や背骨、そして頸の内側に入るように感じるようになれば、肩や頸を「液状化」させることができる、という。だがしかし、わたしはというと、まだまだ、からだが「液状化」しているようなボディふぃ~るは、えられずにいる。
 また、ぶら下げた状態のままで、足や腰(骨盤)でほんの少しのはずみをつけて、上下あるいは左右などのゆすってみると、胴体・頭・腕などが、ユラユラ、ニョロニョロ、ゆれるように動く。もしそうならなければ、それは「不必要な緊張がつづいている証拠である」のだという。「胴体・肩・頭・腕などの無意識の持続的緊張は、最大の障害のひとつであるから、ぜひ取り去らなければならない(野口 2003、95-96頁)」と野口氏は述べている。
 わたしは、頭や首、肩をはじめ、からだのありとあらゆるところが「持続的」で「不要」な緊張をしつづけてきたのだろう。よもや、よもや、だ。是が非でも、それらの緊張を取り去らねば。
 起きるきっかけは、膝関節が緩められ、膝が曲げられると、骨盤の向きが変わる。そのきっかけで、下から徐々に起き上がって立ち姿勢にもどってゆく。起き上がってゆく際には、下から骨の重ねるイメージで、首はまだゆるめたままにしておく。床に接している足の裏の感覚を大切に、腹・胸・頸・肩・頭の順に導かれる。そのようにして起き上がって立ち上がり、頭蓋骨を骨盤の真上にのせてゆく。
 野口氏によると、このような「上体のぶらさげ」に慣れてなじんでくるようになったら、「直立の姿勢から、力を抜いて、ちょうど鎖の一端をもってそれを落とすようにサラサラーッと落としてぶら下げ、しばらく自然のゆれに任せていてから、膝をゆるめるのをきっかけにしてスルスルーッと下から徐々に起きる」(野口 2003、95-96頁)ようになるという。
 いやはや、このような〈身遣い〉は、だらけた、だらしない姿勢でいたわたしには、まだまだ、遙か彼方な地平にあるようだ(イラスト4では、良い感じに「上体のぶらさげ」をやっているようではあるが)。

イラスト4

 

(8) ゆるま~る、かな? わたしのからだ

 

 「上体のぶら下げ」のような、ユラユラと「ゆらす」ことや「ほぐす」ことといった〈身遣い〉にからだをひたすことで、わたしのからだはいろんな「余計な力み」が出ていることは、自分でもよーくボディふぃ~るできた。
 ただし、「力んでいる」ということは感じとれたとしても、からだの余分な力が抜けているというボディふぃ~るがえられているか、と言われれば、まだまだ、といった感じであろうか。自らのからだの機微が自分で分かるところまだにはたどりつけそうもない。まだまた、時間をかけて、丁寧に、自分のからだと対話する必要がありそうだ。
 野口三千三氏がお亡くなりになった後、「野口体操」を継承している羽鳥操さんがインタビュー取材に応じた話による(梅森 2017)と、野口体操には独自の「痛み」との付き合い方があるという。

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「痛みに対して、〝痛い〟という言葉の中に逃げ込まないように。ここから先の動きをしたら危ないとか、ここまでは大丈夫とか、自分の中で吟味して判断する」。
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 羽鳥さんの言うことには「野口体操」では、「痛み」から逃げるでもなく、立ち向かうでもなく、「痛み」を素直に見つめ、静かに自分の中で探っていくのだという。他人と比較せず、自分自身の体を痛めつけずにおこなうのだという。
 わたしも、また、首からくるピリピリ、ジンジンしたシビレや痛みに対して立ち向かうでもなく、しびれや痛みから逃げるでもなく、「おっ、ジンジンきたきた~」という感じで、シビレや痛みにつき合ってゆくことができるだろうか。
 フロあがりに、顔を上空にあげて、グイッとフルーツ牛乳を一気に飲み干せる日が、わたしに、やってきてほしい(連載7回目につづく)。


1 今回の連載原稿での「上体のぶらさげ」に関する文章については、野口三千三氏の著書(野口 1979, 野口 2003)や、野口三千三氏の講演や彼自身による動きの解説の映像(野口・養老・羽鳥 2004)、そして彼の運動・活動を継承している羽鳥操さんの著書(羽鳥 1997, 羽鳥 2003)、野口体操の公式ホームページの動画や解説などを参考にした。

 

文献
羽鳥操 1997 『野口体操 感覚こそ力』柏樹社
羽鳥操 2003 『野口体操入門 からだからのメッセージ』岩波アクティブ新書
井須豊彦監修 2021 『首・肩・腕の痛みとしびれ治療大全』講談社
野口三千三 2003 『原初生命体としての人間――野口体操の理論』岩波現代文庫
野口三千三・養老孟司・羽鳥操 2004 『DVDブック アーカイブス野口体操』春秋社
野口三千三 1979 『野口体操 おもさに貞く』柏樹社
岡田慎一郎 2017 『40歳からの不調がみるみる良くなる体の使い方』産業図書センター
梅森妙(取材・文) 「『野口体操』でラクな腰を手に入れる いつでも、どこでも、どんな腰でもできる!」ベストタイムズ2017年2月7日
酒井慎太郎 2017 『椎間板ヘルニアは自分で治せる! 腰・首の激痛、手足のしびれが消失!』マキノ出版

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。