ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈7〉

出口泰靖    


 

第7回 

〝きをつけ〟な身体と、〝きにかけ〟なからだ。んでもって、みずから〝ゆるめる〟と、おのずから〝ゆるま~る〟?、の巻

 

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(1)からだはゆるまってるんか?ボディふぃ~るだー!

 

 前回の連載で、野口体操の「上体のぶら下げ」という、からだがゆるま~るような〈身遣い〉を取り上げてみた。ここでこうやって、からだがゆるま~る〈身遣い〉を取り上げて書いたりしてみていると、まるで〈身遣い〉の達人?をめざしているかのようにみられてしまうかもしれない。日頃から常に、ゆるま~るからだに気にかけて暮らしているかのように思われてしまうかもしれない。
 とうの昔にわたしは、〈身遣い〉の達人になることをあきらめている。というのも、実際にいろいろさまざまな〈身遣い〉の達人に出会い、そのからだの気にかけようをまのあたりにすると、わたし自身でみずから新たな〈身遣い〉を見いだし創り出すことは、恐れ多くて、とてもできそうもないことを思い知らされてきた。
 それに、わたしは常日頃から、からだがゆるまっているわけでは決してない。もちろん、自分のなかでは、からだがゆるま~ることに気をつけているつもりでいる。
 だが、その一方で、この一、二年ほど、だらしない姿勢で、だらけまくった暮らしを続けてしまっていたがために、「頸椎症」をいただくはめになり、いまもまだなお、ずいぶんと悩まされ続けている(前回の連載を参照されたし)。
 ただ、からだが、めっちゃ、ゆるまったなあと、ボディふぃ~るすることが、ここのところ、なくなってきたようにも思う。
 ゆるまるボディふぃ~るがなくなってきたたせいか、ゆるまっているからだの状態がどのようなものなのか、感じとれなくなっている自分にハタと気がついた。
 からだが、ゆるまっている。それは、どんなことやったんやろか?そもそも、わたしは、からだがゆるまったことは、あるんか?

 

(2)学校のタイイクやウンドーへのギモン -からだをゆるめることを教えないのは?

 

 ところで、前々回の連載で、中三の時、なぜか百メートル走だけ、速くなっちまったことについて書いた。だが、「体育」という科目が得意だったわけではない。むしろ、「体育」の成績は、よいほうではなかった。
 なぜなら、「体育」のなかで、苦手な種目が、たーくさん、ほーんとに、たーくさんあったからだ。
 なんといってもまず、「鉄棒」だ。小学校にあがっても、なかなか、しばらく逆上がりというものができなかった。逆上がりの思い出で真っ先に脳裏に浮かぶのは、手のひらについた鉄さびのニオイしかない。
 おつぎの苦手種目は、「マット運動」だ。これまた、なかなか、後ろ回りや側転ができなかった。これもまた思い出すのは、体育館の倉庫から出すときのマットの粉臭さだ。そして、粉臭さと言えば、「跳び箱」も苦手な種目だった。けっきょく何段まで跳べたんだろう。
 さらに、「なわとび」も、ろくにとべやしなかった。二重跳びなんか、いまだに、一回しか、できやしない。小学校のころ、冬の昼休みに、いっせいに運動場に出て「なわとび」をさせられたことがあったっけ。冬休みにも、前回り、後ろ回りなど、何回やったか数を書き込む宿題が出た。さむーい日に、なんでとばな、あかんねん、とブツブツ言いながらとんでいたっけ。
 そのほか、学校では、体力測定や、陸上の記録会というものもあった。「反復横跳び」なんか、なんでこんなことさせられているのか、わけがわからなかった。ただ、「垂直跳び」だけは、なぜか性に合ったらしく、どこまで届くかあ~、とぴょんぴょん跳びあがっていた。
 だが、「ソフトボール投げ」という、砲丸投げのように投げた飛距離をはかるものをするたびに、わたしはヘコみまくっていた。小学校の頃は野球が好きでよく三角ベースとかやっていた。だから、ボールがらみの種目にはこだわりがあった。だが、わたしの肩が弱いのか、ぜーんぜん、遠くまで投げられなかった。その時のわたしの、絶望感といったら、この世の終わりのように、ふさぎ込んでいた。

 

(3)気をつけ!な身体ばかりで、気にかけ?なからだは? 

 
 そういえば、学校の「体育」の科目や、朝礼や始業式や終業式で、よくやらされていたことに、「気をつけ」という姿勢がある。
 平成20年に愛知県教育委員会が出している「集団行動指導の手引」には、「気をつけ」の姿勢が解説されている。
 「両かかとをつけ、つま先は自然に開く。両ひざ、背すじを伸ばして直立姿勢をと る。両腕は、体側に沿ってひじを伸ばしておろす。あごをひき、正面をまっすぐ見る」。 留意点として、「この姿勢は、ある程度緊張を伴う姿勢であるから、長い時間この姿勢をとらせないようにする」と書いている。
 ここでふと、なぜ、学校は、緊張を伴う姿勢を、あえてやらせているのだろう。なんで学校という場で、からだに気にかけ、からだをゆるめる〈身遣い〉を、わたしは教わることがなかったんだろう。そんなギモンをいだいた。
 思えば、学校や体育では、鉄棒やマット運動など体育の種目をはじめ、記録会や体力測定など、頑張ること、速く動くこと、素早く移ること。速さや早さが求められてきた。「気をつけ」の姿勢をはじめ、力むことや気張ることをずいぶんと指導されてきた。
 その一方で、余計な力を入れない緊張を解く〈身遣い〉、あるいは余分な力みをとり力をぬく〈身遣い〉、すなわち、からだに気にかける〈身遣い〉というのは、ほとんど教わってこなかったように思う。
 学校時代の体育の種目や学校でとらされた姿勢での頑張りや気張りは、いまのわたしのからだから緊張や力みがとけずにいることの元凶なのだろうか。

 

(4)「体育座り」についてのギモン

 

 もうひとつ、体育や学校における独特な姿勢をとらされてきたものに、「体育座り」がある。「体育座り」とは、体育館や運動場で坐らされていたとき、地べたにおしりをついて、膝を曲げ、その曲げた脚に腕をからめさせる、あの座り姿勢である。
 この「体育座り」についても、平成20年に愛知県教育委員会が出している「集団行動指導の手引」にまたもや、解説がのせられている。
 そこには、「体育座り」という名称ではなく、「腰をおろして休め」という座り姿勢として載っている。その姿勢は、「腰をおろし、両踵をそろえて地床につける」ものであって、「両ひざをそろえて軽く曲げ、ひざのやや下方で、ひざがしらをかかえ込むように手を組む」とある。 留意点として、「腰をおろして休む場合は、地床の状態、気温等に十分留意して、適宜指示することが大切である」とも書かれてある。
 この、「腰をおろして休む姿勢」 であるという「体育座り」。いまのわたしなんかも、イスのないところで腰をおろして床に坐る際、いつのまにか、この「体育座り」をしてしまっていることがある。この姿勢が休む姿勢なのか、楽な姿勢なのか、ろくにボディふぃ~るせずに坐ってしまっている。
 誰もがみな、自然とその姿勢を取りがちだ。と、思っていたら、実はそうでもないらしい。この姿勢は、日本にはもともとなかった姿勢だという。しかも、1960年代のわずか十年間に、なぜか全国の公立の小中学校に一気に広まった坐り方なのだともいうではないか。
 自分のからだのこわばりや歪みに気づき、その緊張を解くためのワークショップを主宰した演出家の竹内敏晴氏は、「体育坐り(三角坐り)」について、次のように述べている。

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三角坐りは、体育座り、体育館坐り、体操坐り、オヤマ坐り、トンネル坐り、たくさんの名があり、幼稚園などでは「イイコちゃんずわり」と呼ばれるところさえあると言います。 しかし、おじいさんおばあさんに尋ねてみれば、そんな坐り方知らないよ、行儀悪い、という返事が返ってくるかもしれない。その通りで、これは日本にはもともとなかった姿勢で、1960年代のわずか十年間に、なぜか全国の公立の小中学校に一気に広まった坐り方なのです。/はじめには「戸外で生徒が腰を下ろすにはこの姿勢がよかろう」ということだったのが、なぜこうも急速に、教員によって広められたのか。その歴史的な理由を尋ねてみることはおいておきます。大切なのは、この姿勢が子どものからだにとって、どういう意味を持つか、ということであり、さらに、そういう問いを自分に発した教員が、ひとりもいなかった―少なくとも公式には―ということです。(竹内2006:9-11頁)

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 この「体育座り(三角坐り)」という坐り姿勢について、竹内氏は、「手も足も出ない」姿勢であると同時に、なにひとつできないように閉じ込められた姿勢だ、とまで言っている。

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昔からの日本語で言えば「手も足も出ない」姿勢です。(中略)これはなにひとつできないように閉じ込められた姿勢、自発性というものを一切否定された姿です。これが現代学校教育の、公式に表明されることのない基本的な子どもに対する抑圧の象徴です。ここからどうして芸術表現へ造形へと、出発できるでしょう。(竹内2006:9-11頁)

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 わたしは、いままで、学校で「手も足も出ない」姿勢をとってきたのかぁ。なにひとつできないように閉じ込められた姿勢を、いまもなお、とりつづけているというのか。

 

(5)あえて「体育座り(三角坐り)」をボディふぃ~るしてみる

 

 竹内氏は、なぜ、「体育座り(三角坐り)」を、こうも批判的にとらえているのか。竹内氏は、自らのレッスンで、受講生の人たちにボディふぃ~るさせている文章がある。

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まず、思うままに座ってみて下さい。あぐら、正座、横坐り、そして三角坐り。

では、そこで、深く息を入れてみよう。息を入れて、止めて、吐いて。坐り方を変えてみて下さい。なん度か。

さてからだを崩して。どの坐り方がいちばんらくに、深く息が入ったでしょうか?

三角坐りがいちばん少ししか息が入らないことは気づいたと思います。腹から胸まで、ももと膝で押さえつけられているので、息を深く入れようにも動かない。言いかえれば「息をひそめている」姿です。(竹内2006:9-11頁)

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 わたしも、ボディふぃ~るだー!にヘンシン?して、あえて、あらためて「体育座り(三角坐り)」をやってみる。なるほど、たしかに、言われてみると、深い息が入りにくいかもしれない、と感じる。
 そういや、小学生の頃、「体育座り(三角坐り)」の姿勢をとりつづけていると、お腹が圧迫されるせいか、おならが出ていたこともあったっけ(イラスト1)。

イラスト1

 また、竹内氏が言うには、「体育座り(三角坐り)」の姿勢をとると、腹から胸まで、太ももと膝で押さえつけられてしまうので、息を深く入れようにも入れられない、という。まさに、「体育座り(三角坐り)」は、「息をひそめている」姿であるというのだ。

 

(6)「ゆらす/ゆらされること」

 

 竹内氏は、からだをはずませないこわばりや緊張そして疲れがわたしたちの中に巣くっていることを、みずから気づいてゆくという「みずからのからだのこわばりに気づく」レッスンをおこなってきた。
 ふだんの暮らしなかで、あくせくと仕事に追いたてられ、身をちぢこめてしまっているみずからの「からだ」に気づき、そのちぢこまりこわばった「からだ」をとき放り、「安らぐ」ことが大切だと竹内氏は説いている。だけど、ちぢこまりこわばった「からだ」をとき放り、「安らぐ」ことは、どのようにしたらよいのだろう。
 竹内氏は、みずからのからだのこわばりや緊張に気づき「安らぐ」ためのレッスンのなかで、からだを「ゆらすこと/ゆらされること」という〈身遣い〉をいくつか紹介している(竹内1990、竹内1988)。ここでは、そのなかで「寝にょろ」という「ゆらし/ゆらされ」る〈身遣い〉を取り上げて、ボディふぃ~るしてみたい。
 まず、ゆらされる人は、仰向けに寝る。ゆらす側の人は、ゆらされる人の足元のそばにすわる。ゆらす人は、ゆらされる人の両足首をもち(※竹内氏は「足の甲を持って」「両足の甲を両手でもってかかとをぶら下げる」と説明している場合もある(竹内1990年))、十センチくらい床から浮かせ、水平面内、左右方向にゆらしゆすってゆく。このとき、力まかせにゆすってしまうことがないようにする。
 両かかとの間は、ゆらしゆする人の姿勢と動作のしやすさによるらしいのだが、少し開けておくとよいらしい。そして、ここで注意することとしては、「慣れない人の中には、両足を反対方向に、つまり同時に内へ外へと揺すってしまう人がある」(竹内1990)ので、両足を同時に、同じ方向にゆらしゆすってゆくことを気にかける(竹内1990)。
 ゆらしゆすられている側の人のからだが力がぬけていってくると、足先の末端のゆれが、足から腰、胴体から首を通して、頭までつたわってゆくという(イラスト2)。

イラスト2

 

(7)野口体操における「寝にょろ」

 

 実は、「竹内レッスン」でおこなっている「寝にょろ」は、前回の連載でも取り上げた「上体のぶら下げ」などの野口体操を提唱した野口三十三氏がおこなっていた〈身遣い〉でもある。ここで、野口氏のほうの「寝にょろ」についても、取り上げておきたい。
 前回の連載でも取り上げたように、野口体操におけるからだのとらえ方は、皮膚という伸び縮み自由な生きている袋のなかに、液体がいっぱい入っていて、そのなかに骨も筋肉も内臓も脳もぷかぷかと浮かんでいる、というものである。この、「ひとのからだは皮膚で覆われた袋で、体内の水に骨が浮かんでいる」という野口氏が提示するからだのとらえ方は、人間の身体は骨や筋肉によって組み立てられている、といったような、わたしのなかに巣くってしまっている身体観とは逆転した発想である(イラスト3)。

イラスト3

 こうした「液体が詰まった袋」というからだのとらえ方をダイレクトに実感できるのが、両足を持ってゆらゆらとゆっくり左右に揺らしてあげるという「寝にょろ」と名づけられた動きであるという(羽鳥2005)。
 野口氏のほうは、「寝にょろ」という〈身遣い〉を以下のように説明している。

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Aが仰向けに寝る。なるべく力を抜いて楽に、すべてを地球(床)にまかせ、空気にひたりきった感じで。BがAの両足をそろえて足首をもち、十センチほど持ち上げ、左右に五センチほどゆするように何回か動かす。この場合Aが力を抜いて完全に休んでいるならば、またBのゆすり方が適当であるならば(ゆするテンポがおそすぎるといけない)、Aのからだは全身のすみずみまで動きが伝わり、ニョロニョロ、フワフワと波のように揺れ動くであろう。「皮膚という薄い柔らかい伸びちぢみ自由な大小無数の穴によって外界と通じあっている複雑きわまりないひとつの生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」という実感を、ゆすられるAは自分のからだの中のある実感として、ゆするBは視覚とゆする手をつうじての実感として感じとることができると思う。(野口2003、11-12頁)

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 野口氏は、「片脚あるいは両脚を、いろいろな方向に、ゆすりながら引っ張る。 ゆすり方や引っ張り方の、テンポ・リズム・強さ・大きさなどを変え、引っ張る方向をいろいろに変えてみると、思いがけない奇想天外な動きが生まれてくる。脚の持ち方も、そのとき思いついた、やりやすいと感じた持ち方でやってみるとよい」と述べている(野口2003、196-198頁)。
 ただ、注意しなければならないこととして野口氏は、「粗雑な感覚で乱暴にやることは絶対に禁物」と言っている。加えて、「思いきってとか、自由奔放・勝手気ままということは、粗暴とはまったく異質のものである」(野口2003、196-198頁)とも言っている。
 「寝にょろ」をしてもらい、からだからこわばりが取れてゆくと、しだいに、からだ全体が、クネクネ、ニョロニョロと、ゆれてゆく。まさに、野口氏が言うところの、からだが「液体が詰まった袋」のような感じになってゆくのがボディふぃ~るできる。

 

(8)みずから、ゆるめる?おのずから、ゆるまる?

 

 実はわたしは、竹内氏がおこなってきた実践を受け継いだという「人間と演劇研究所」というところに一回だけ行ってみたことがあった。そこでも、「寝にょろ」を体験したことがあった。
 そのときの「寝にょろ」が、今まで生きてきたなかで一番、からだがゆるまった感触がえられ、とても忘れられずにいる。わたしのからだが、どれだけ、ユラユラ、ニョロニョロゆれていたのかは、自分ではわからない。ただ、とてもとても、心地よい、安らいだ、満たされた気分になったのは記憶に残っている。それは、わたしのからだをゆらし、ゆすってくれた人が、とてもいい感じでゆらし、ゆすってくれたからだと思う。
 こうしてみると、「からだがゆるま~る」というのは、みずから気をつけて、いや気にかけていても、からだはこわばり、ゆがみ、緊張し、かたまってしまうのかもしれない。みずからのからだに気にかけていても、かえって気をつけすぎてしまうあまり、緊張し、力みはとれず、力を抜くことができないのかもしれない。それゆえに、からだをゆらし、ゆすってくれる相手がいてはじめて、なおかつ、その相手と息が合うことでやっと、おのずと、ゆるまってゆくのだろうか。

 

【文献】
羽鳥操 2005 「柔軟性のトレーニング」日本体育学会編『体育の科学 特集「新しい時代のトレーニング」』Vol.55 6月号
野口三千三 2003 『原初生命体としての人間-野口体操の理論』岩波現代文庫
竹内敏晴 1990 『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書
竹内敏晴 1988 『ことばが劈かれるとき』ちくま文庫
竹内敏晴 2006 『竹内レッスン』春秋社

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。