ボディふぃ~るだー! でぐちの
〈身遣い〉のフィールドワーク、はじめました〈8〉

出口泰靖    


 

第8回 

〝こきゅーの、たんきゅー!?の巻(その1)
―すって~、はくのが~、しんこきゅ~って思い込んでたゾー!

 

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(1)じぶんひとりでも、ゆるま~る?

 

 前回の連載で、からだをみずからでゆるめようとしても、かえって気張ったり力んだりしてしまいがちになるけど、ゆるめてくれる相手がいることによって、相手にゆだねることで、おのずとからだがゆるまることもあるのでは?というようなことを書いてみた。
 ただ、こう書くと、からだがゆるまるためには、相手がいることがどうしても必要なのか?じぶんひとりだけでは、からだがゆるまることができないのか?そのように思われた人もいるかもしれない。
 だが、じぶんひとりだけでも、おのずから、からだがゆるま~る〈身遣い〉もあるように思う。その一つに、「ため息(溜息)」や「あくび(欠伸)」という体の働きがある。この体の働きを、からだのはたらかせ方として、〈身遣い〉の一つとして気にかけてボディふぃ~るしてみてみるのは、どうだろうか。と、わたしは考えてみてたりしている。
 「ため息」というと、たとえば、ほおづえをついて「はぁ~」と息を出している姿が思い浮かぶであろうか。また、ため息をつけばそのぶん、しあわせが逃げていく、とよく言われている。落ち込んだり、嘆いたり、疲れたり、相手に対してあきれたりするときに「ため息」をよくつくようにも思う。そういえば、「酒は涙か、ため息か」という歌もあったように、悲しいときにも「ため息」をついていたりもするのだろう。
 また、「あくび」というのも、「あぁ~」と口を開けて息を吐き出している。眠かったり、退屈だったり、そんなときに出ているようにも思う。
 こうしてみると、「ため息」も「あくび」も、からだにとってあまり良い状態で出ているものではない、というイメージが強いようにも思われていることだろう。

 

(2)「ため息」をつくんだー、ボディふぃ~るだー!

 

 だが、今までの連載で何回か取り上げた野口体操を提唱した野口さんは、「ため息」について以下のように述べている。

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 溜息は一般に、心配したり憂鬱なときに、出るものであるため、いやなものとして嫌われる傾向がある。しかし、溜息はもっと広く多様なもので、好ましい性質の、たとえば激しい感動の後にも出ることはよく経験することである。(野口 2003: 118)

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 野口さんが言っているように、舞台や映画やコンサートを見終わった後、「はぁ~、とっても、よかったねぇ~」と言いながら、思わずもれ出している息がある。それがここでいう感動の後にも出る「ため息」であったりするのだろう。
 つづけて、野口さんはまた、以下のようにも述べている。

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 これ(「溜息」のこと-筆者注)はその名のとおり、溜められていた息を一気に全部吐き出すひとつの呼吸のあり方である。要するに、吐き出す前の段階に、素直に十分な呼吸が行なわれず、浅い不十分な呼吸、それも断続的に吸い込む方が多く、吐き出す方が少ない、アンバランスの呼吸がしばらくつづくような条件が、前提としてある場合に起こる。確かにこの前提の状態は嫌われるような、好ましくないことの場合が多い。しかし、溜息そのものは、けっして好ましくない働きではなく、それまで溜まっていたものを、さらに新しく吸い込んだ息を呼び空気として、一気に吐き出すことによって、それまでの息苦しい・息詰まった・よどんだ・どろどろの状態を脱出しようとする、生きものとして自然にそなわった積極的な働きなのである。(野口 2003: 118-119)

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 「あぁ~、よく寝たな~」と言って出している息や、「あぁ~、今日も一日、よく働いたな~」と言いながら出す息は、「ため息」だったりする。これは、野口さんが言っているように、さまざまにからだのなかに溜まっていたものを一気に吐き出すことで、それまでの息苦しい、息の詰まった、よどんで、ドロッドロしてしまった、そんなからだの状態から脱け出そうとする働きでもあるのだろうか。
 こうしてみると、野口さんの言うように「ため息」そのものは、からだにとって決して好ましくない働きではなく、おおいに出してもよいものであるのかもしれない。

 

(3)「あくび」をだすんだー、ボディふぃ~るだー!

 

 「あくび」についても、野口体操の野口さんはネガティブにとらえていない。彼は、以下のように述べている。

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 疲労や倦怠や眠気から抜け出すために、自動制御として反射的に行なわれる「欠伸」は、その文字が示すとおり、伸び伸びすることの欠けた状態が長くつづいた後に、自然に無意識に口があいて行なわれる深呼吸(正確には拡呼吸)である。あくびは、いわゆるあくびをかみ殺したやり方をすると、その意味効果はほとんどなくなってしまう。礼儀作法の立場からそうなったのであろう。口が思いきり大きくあきたいのを隠すために、全身が思いきり伸びようとするのを押し止めるために、体内にうっ積したきたない空気を大きく入れ換えようとする深呼吸をごまかすために、全身が不自然に緊張してゆがんだものとなってしまう。欠伸はどこまでも思いきり伸び展がるということがない限り意味がないのである。その場の在り方によって制約があるにしても、何とか工夫して伸ばしてやらなければならない。そして大きくたっぷり深呼吸をすることである。お互いに「人間にとって欠伸とは何か」を理解して欠伸のあり方を新しく素直に探るべきだと思う。(野口 2003: 188)

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 そうか。「あくび(欠伸)」というのは、そもそも、「伸び伸びすることの欠けている」からだを、おおいに開放するためのものであったのか。
 そういえば、十数年間ほど学んでいるヨーガのレッスンを受けている最中にわたしは、めちゃくちゃ「あくび」が出てしまっている。それもこれも、わたしのからだに「伸び」が欠けているからにほかならないからであるのだろうか。
 この「あくび」という体の働きを、からだをゆるめてくれる相手がいなくとも、みずからゆるめられる〈身遣い〉としてとらえてみてもよいかもしれない。
ただし、この「あくび」というのは、躍起になって、みずからゆるめようとして「あくび」をしようとしても、ゆるまるどころか逆に気張って力んで緊張してしまい、かえって「あくび」が出づらくなってしまうことがある。
 ヨーガのレッスンでは、おのずとゆるまってゆくような〈身遣い〉をしてゆく。そのうちに、おのずから「あくび」が出てくる。「あくび」が出ることで、さらに、からだがおのずからゆるまってゆく。そんなボディふぃ~るがえられることがあったりする。
 ただ少し困ったこともある。ヨーガのレッスンのときに出る「あくび」をする際に涙が出てくる。その涙がときには滝のようにあふれ出てくる。そのため、顔が涙でグショグショになってしまう。それが、少々困ることでもあるのだが。

 

(4)息をつまさせた?体験

 

 「あくび」と「ため息」を単なる生理的な体の働きとしてではなく、からだのはたらかせ方として、〈身遣い〉の一つとしてとらえる。そうするのならば、「みずからゆるめる」、いやそれよりむしろ、「おのずとゆるまる」こともできるのかもしれない。
 だが、「あくび」であれ、「ため息」であれ、わたしは「息をすること」に気にかけられていないなあ、と思う。
 というのも、最近わたしは、「息が吸えない」という体験をしたことがあった。
 とある会議の場で、わたしは報告をすることになっており、わたしはメモを片手に話をはじめた。ただ、たんたんに、わたしは話をすすめていっていた、そんなつもりだった。
 だが、報告をしながら、あれあれ、息が吸えないぞ、吸えてないぞ、という体の状態におちいった。ここで報告の発言の声をとめ、ゆっくり息を吸いたかった。だけど、そんなことすると、なんだか不自然に思われるかもしれない。ええい、ままよ、このまま報告をすすめて終わらせてしまえ、ということで、一気にまくしたてる感じで報告を終えてしまった。
 わたしとしては少々のり気の出ない、会議での無味乾燥な報告でもあった。でも、報告事項は報告漏れがないよう、すべて述べておかねば、という思いもあった。そうしてまた、ともかくわたしの報告ははやく終わらせたい、という思いも強く、気がはやり気味であった。そのような、もろもろに腐りきったわたしの心根というものが、息をつまらせてしまったのだろうか。

 

(5)わたしは、息(生き)てるのか?

 

 現代社会の生活というものは、パソコンに向かっているときや、会議で人と話しているときなど、「息を止める」「呼吸を止める」ことになりがちだ(森田 2016: 17)という。先ほどのわたしの会議での報告での体験でも、わたしはおのずと「息を止め」て、「呼吸を止め」てしまっていたのだろう。
 呼吸と文化について論じている大森によれば、呼吸というのはその時々の社会の生活スタイルに大きく影響を受けてきた、という(大森 2016)。その意味では、現代社会に住まうわたしなどは、日々「一息つく」間のない、「息の詰まる」暮らしを強いられていたりしているのかもしれない。
 また大森は、日本では「呼吸」が生活と密着してきており、生活の中に重要な要素として溶け込んでいた、と指摘している(大森 2016)。というのも、日本語には「呼吸=息」にまつわる語が数多くあるからだ。これもまた大森が「息」と名の付く言葉をいくつかあげているのだが、そのほかにも、わたしが思いつくだけでも以下のようなものがある。
 「息が切れる」 「息が詰まる」、「息を呑む」、「息が上がる」、「息を殺す」、「息を押し殺す」、「息がとまる」、「息もつかせず」、「息が掛かる」、「息を潜める」、「息を凝らす」、「息が浅い」、「息が弾む」、「息つく間もなく」、「息苦しい」、「息の根を止める」。これらは、どちらかというと、あまりいい意味では使われていないようにも思う。
 いい意味で使われているものとしては、「息が続く」、「息が長い」、「息が合う」、「息抜き」、「息を抜く」「一息つく」、「休息」「息を入れる(息を休める 息を緩める)」といったところがあげられるであろうか。
 さらに、「息」は、すなわち「生き」るに繋がるという思考があり、「生」と非常に結びついている(大森 2016)ともいう。野口体操の野口さんも、以下のように述べている。

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 生きていると言うことは、「息をしている」ことであり、生きものは「息するもの」であり、命は「息の内」であり、生き方は「息方」なのである(野口 2003: 103)。

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 現代における社会生活では、息を止めてパソコンの画面とにらめっこしていたり、会議で上司の小言を聞かされるうちに息が詰まってしまうことが多々あるのだろう。その意味では、現代に住まうわたしなど、はたして、息(生き)ているうちに入るのだろうか。フト、疑問に思ってしまう。

 

(6)すって~、はくのが、しんこきゅう~?~「呼吸」をめぐる〈あたりまえ〉を問い直す、その1

 

 「はーい、深呼吸をしましょ~」と言われて、わたしなどは、まず大きく息をすぅ~と吸い込んでから、それからのち、はぁ~、と吐く。わたしは、「深呼吸」というのを、そういうふうに思ってきた。
 「ピタゴラスイッチ」という、NHKのEテレの番組がある。その番組のなかで、「アルゴリズム体操」というコーナーがある。その体操の終わりの動作でも、「吸って~吐くのが深呼吸~」と唱いながら、手を大きく上から横に広げて、息をすぅ~と吸ったのち、ふぅ~と吐いて、終わる。
 そういや、わたしが小学生の頃、夏休みの早朝に学校へ行ってやっていたラジオ体操(朝早く起きるのはおっくうだったが、カードを首にぶら下げ、終わった後ハンコを押してもらうのが楽しみだった)の最後に行う深呼吸も、「まずはじめに吸って、吐く」という動作であった。
 このように、「まずはじめに吸って、吸ってから吐く」というのが、「深呼吸」だとわたしは思い込んできた。だが、まずはじめに「吸う」のではなく、まずまずはじめに「吐く」、という呼吸の〈身遣い〉がある。
 わたしが十数年間ほど習い学んでいるヨーガの世界では、「呼吸」というのをとても大切にしている。通常、呼吸を深くしようとすると、大きく吸うことからはじめてしまうのだが、ヨーガでは逆に、まずは「吐く」、とくにからだのなかの空気をすべて「吐ききる」ということをすすめる。

 

(7)「まず、吐く」んだー、んでもって「吐ききる」んだー、ボディふぃ~るだー!

 

 ヨーガでよくおこなわれている、「まず、吐く」そして「吐ききる」という〈身遣い〉をボディふぃ~るしてみてみる。以下のボディふぃ~るの記述は、「ヨガジャーナルオンライン」に掲載されたヨガ講師の伊藤(2019)の記事などを参考にしながら、わたしがやってみたときの感じ方も含めたものである。
 まずはじめに、息を吐く。吐いたところで、いったん呼吸を止め、そこで息を吸うことをせず、さらにもう一度、息を吐く。からだのなかに残っているであろう空気をすべて吐ききってみるような感じであるという。
 すると、思いのほか、吸っていないのに、さらにもう一度息を吐くことがボディふぃ~るできる。からだのなかの空気をすべて吐ききるような感じで息を吐ききろうとすると、からだが少し前に傾いてゆく、グぅ~っと、おなかがヘコんでくる。
 もうこれ以上は吐ききれない、と感じたら、すぐ息を吸いこむのを待ってみる。すると、トクン、トクン、とからだのなかで静かに血がめぐっているのをボディふぃ~るできる。
 そのあと、閉じていた弁(バルブ)が開くように、鼻の穴がスンッと小さな音を立てて、スゥ~と鼻の穴からからだのなかに空気が、おのずから入り込んでくる。ヨーガによる呼吸を気にかけておこなっていくと、ときに、鼻が弁(バルブ)のように、空気を出し入れする際、クンッ、と開くのがボディふぃ~るできる。
 このような「吐ききる」というからだのはたらかせ方の〈身遣い〉に気にかけてみると、「みずから息を入れる」というより、「おのずと息がからだに入ってくる」のをボディふぃ~るできる。そして、「みずからゆるめている」というよりむしろ、「おのずと、ゆるまってくる」ような感じがボディふぃ~るできる。
 ヨーガの〈身遣い〉を習い学ぶまで、わたしは、「すって~、はくのが~、しんこきゅう~」って思い込んでいた。ヨーガでの「呼吸」は「吸って吐く」よりむしろ、まずはじめに「吐く」(伊藤2019)。そして、ヨーガでは、呼吸を深くしたいとき、「まずは吐くことから」そして「吐ききる」ことに気にかけてみる〈身遣い〉をおこなっている。
 野口体操の野口さんも、以下のように「まず息を吐け!」と述べている。

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 いつでも溜息をすることによって、いつでも溜息の後の、あの創造的な瞬間を味わうことができたら……。やがては日常生活の呼吸が静かで深いものに変わっているはずだし、常時創造的な生き(息)方をしているということになり、いわゆる溜息は出なくなり、溜息とは別のものとなっている。まず息を吐け! そこに新しい可能性がある。狭い意味での息とは吐く空気のことなのである。(野口 2003: 119)

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 先ほどのわたしの会議での報告での「息が吸えていない」体験というのは、「息を止め」て「呼吸を止め」てしまっていた、というよりむしろ、息を吸うための呼び水でもある「息を吐くこと」を怠っていたのかもしれない。

 

(8)「深呼吸」しているようで「大呼吸」?!~「呼吸」をめぐる〈あたりまえ〉を問い直す、その2

 

 もうひとつ、わたしが日頃からやっているつもりでいる「深呼吸」というのは、実は「大呼吸」なんだ、と言っている人もいる。呼吸について研究しており、鍼灸師でもある森田さんは、以下のように述べている。

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 深呼吸をする、ということ、多くの人は空を見上げて、腕を開いて、胸いっぱいに息を入れていくイメージをします。ですが、これは「大きな呼吸」「大呼吸」であって「深呼吸」ではありません。(森田 2016)

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 イラスト1のように、「深呼吸」と称して、「胸を広げて、上を見上げて、手を広げて」、「すって~、はいて~」とやっている呼吸というのは、「大呼吸」であったとしても、「深呼吸」ではない、というのだ。森田さんによれば、深く息を入れるためには、世間でイメージされる深呼吸とは、少し違う呼吸をする必要がある、と言っている。そこで、森田さんがおすすめしている呼吸法の一つをボディふぃ~るしてみる。
 まず、「胸を開いて、手を開いて、身体の全面を広げて立ってみる」(森田 2016)。その姿勢の状態で、息を出し入れしてみる。そしてつぎに、イラスト2のように、「背中は少し丸く、手は内巻きに、脚も少し内またに」(森田 2016)してみて、その姿勢から息を出し入れしてみる(注1)。

イラスト1

イラスト2

 両者を比べて呼吸してみると、どちらかというと後者の方が、深く息を出し入れしやすい。とくに、背中全体に息が入ってくるようなボディふぃ~るがえられる。
 森田さんによれば、体の構造として、体を丸くした方が適度にからだがゆるみ、深く呼吸しやすくできているという。逆に、体を開き、反らせると、緊張が入ってしまい、深い呼吸ができにくいという(森田 2016)。
 また、森田さんによると、胸を広げて、上を見上げて、手を広げて「すって~、はいて~」とやっている「大呼吸」というのは、体を一時的に覚醒させるときには適してはいる、という。だが、からだを落ちつかせ、リラックスさせて、疲れを回復したいときにする呼吸ではない、とも言っている(森田 2016)。
 このように、呼吸をする、息をする際のからだのはたらかせ方一つとっても、わたしはいろいろ思い込んできたことがたくさんあるなあ、と感じてしまう。

 

(9)みずから、ゆるめる? おのずと、ゆるまる?

 

 「あくび(欠伸)」や「溜息(溜息」というのも、からだをゆるめてくれる相手がいなくとも、みずからゆるめられる〈身遣い〉としてとらえてみる。生理的な体の働きとしてではなく、からだのはたらかせ方として気にかけてみる。すると、ネガティブな体の働きとしてみなされてきた「あくび」や「ため息」そのものは、みずからゆるめられる〈身遣い〉、からだのはたらかせ方の一つであることに気づかされる。
 ただ、「あくび」などは、躍起になってみずからゆるめようとして「あくび」をしようとしても、気張って緊張してしまい、かえって「あくび」が出づらくなってしまうことがあったりする。そうではなく、おのずとゆるまってゆくような〈身遣い〉をしてゆくうちに、おのずから「あくび」が出てくる。「あくび」が出てくることで、さらにからだがおのずからゆるまってゆくボディふぃ~るがえられることがあったりする。
 こう考えてみると、「みずから、ゆるめる」ことと、「おのずと、ゆるま~る」というからだのはたらかせ方は、異なっているものであるのかもしれない。
 また、呼吸というと「まずはじめに吸ってから吐く」と思い込みがちだが、「まずは吐いて」「吐ききる」ことで、おのずと、からだのなかに息が入ってくる。さらに「深呼吸」も、「胸を開いて」「上を見上げて」「両手をあげて横にひろげて」と思い込みがちだが、「背中は少し丸く、手は内巻きに、脚も少し内またに」してみると、深く息を出し入れしやすいボディふぃ~るがえられる。
 こうしてみると、わたしは、呼吸や深呼吸というのを、「すって~、はくのが~、しんこきゅ~」って思い込んでたなあ、と、あらためてしみじみと感じてしまう。
 次回はさらにまた、「呼吸法」と呼ばれているいろいろさまざまな〈身遣い〉をもう少し、いろいろさまざまにボディふぃ~るしてみようと思う。

 

【注】
(1)イラスト2は、森田(2016)の32頁のイラストを参考にして描いてみている。

【文献】
伊藤香奈(2019)「呼吸がぐっと深まる呼吸の新常識?!――「吸って吐く」の意識を変えてみよう」04-24ヨガジャーナルオンライン
森田敦史(2016)『なにもしていないのに調子がいい―― ふだんの「呼吸」を意識して回復力 を高める』クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
野口三千三(2003)『原初生命体としての人間――野口体操の理論』岩波現代文庫
大森正義(2016)「文化としての呼吸法」『城西現代政策研究』第9巻、第1号: 49-57

 

 

「ボディふぃ~るだー!でぐち」のぷろふぃ~る
 説明しよう。「ボディふぃ~るだー!でぐち」は、自らの身をもってからだを動かし、自らのからだで得られた感触をことばやイラストで描こうとするフィールドワーカーである。「ボディふぃ~るだー!でぐち」がホソボソと活動して、はや20年。一時期その名を封印し、数年前までひっそりとなりをひそめていた。だが、昨今の「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観にとらわれた「筋力増強至上主義」的な筋トレブームにモヤモヤしたものを感じはじめた。そこで、あらためて再び密かに「ボディふぃ~るだー!でぐち2号」を名乗り、「からだのはたらかせ方」に気にかける〈身遣い〉のフィールドワークをはじめることとあいなった。「鍛える身体」「気張る身体」としての身体観とは異なる、「気にかける身体」「ゆるま~る身体」としての身体観にもとづいた〈身遣い〉を、さまざまな身体術の達人から学びながらボディふぃ~るし、シノゴノと感じ考えたことをツラツラとことばやイラストで描いてゆきたい。
 (「ボデイふぃ~るだー!でぐち」の本名は、出口泰靖。世を忍ぶ仮の姿は千葉大学文学部教員。専攻は社会学。著書に『あなたを「認知症」と呼ぶ前に』〔生活書院〕など)

 

*この連載は偶数月の月末にアップいたします。