【目次】 序 母親に殺される側の論理 本多勝一 I 脳性マヒとして生きる 脳性マヒ者の親子関係について 或る友への手紙 T婦人との往復書簡 母親の殺意にこそ──重症児殺害事件の判決を終わって 施設のあり方について──施設問題への提言 障害者と労働 カメラを持って 脳性マヒとして生きる II 差別以前の何かがある ゴロゴロさま N女への返信 差別以前の何かがある 不合理な存在として 脳性マヒ者としての自覚 脳性マヒ者の社会参加について III ある障害者運動の目指すもの ある障害者運動の目指すもの 1 殺される立場から/2 あってはならない存在? /3 崩壊からの出発 募金活動をふりかえって 我々の手で小さな施設を 優生保護法と私 優生保護法改正は阻止された ボランティアに期待するもの 鶏にみる「弱者考」 IV 「さようならCP」上映討論集 須佐上映会レポート 防府養護学校上映会 長崎大学上映会 九州リハビリテーション大学校上映会 福岡県社会保育短期大学上映会 八女上映会 柳川上映会 北九州大学上映会 あとがき 付録/亡き夫の介護ノートより 横塚りゑ 駒込病院入院のこと 手術及びその後のこと 介護者への手紙 妻沼行き 健全者集団に対する見解 心の共同体 (以上『母よ!殺すな』復刊部分) 補遺 1 横塚晃一 未収録の書き物と発言 雇用促進懇談会に出席して 話し合いを終わって 「青い芝」神奈川県連合会第十二回総会 (1974年5月19日)での発言 「青い芝」神奈川県連合会第十四回総会 (1976年6月6日)での発言 「青い芝」神奈川県連合会第十五回総会(1977年4月3日)での発言 障害者解放運動の現在的視点 全日本運輸労働組合協議会への抗議文 障害者の自立についての青い芝の見解 河野氏への手紙:大阪から帰った後に、横塚氏が河野氏にあてた手紙 2 横塚晃一への追悼文 3 シナリオ さようならCP 4 青い芝の会・歴史 解説 立岩真也 |
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【横塚晃一】(よこづか・こういち) 1935年12月7日埼玉県生まれ。52年6月整肢療護園へ入園、小学6年に編入され、53年3月小学校卒業。同年4月中学校入学、54年12月児童福祉法適用切れにより退園、以後不就学。55年4月国立身体障害センター入所、56年3月同センター終了。64年4月マハラバ村に参加、 66年10月関口りゑと結婚、 69年2月マハラバ村を出て川崎市生田に移る。70年5月「青い芝」神奈川県連合会副会長及び会長代行。71年3月川崎市有馬に移転、同年9月長男信彦誕生。72年11月「青い芝」神奈川県連合会会長。73年10月〜日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会会長。76年8月〜全国障害者解放運動連絡会議代表幹事。77年8月都立駒込病院に入院。1978年7月20日、同病院にて胃ガンのため 死去、享年42歳。 |
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写真:原一男(写真の転載はご遠慮ください) |