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【Web連載】
あらためて「序」──『生死本』
(仮)
の準備・5
立岩 真也
(2012/09/20)
■
1
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2
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3
・
4
・5・…
■
文献表(作成中)
*
「安楽死・尊厳死 2012」
すこし増補しました。
*[繰り返し]紀伊国屋書店で私が選書したブックフェア「【じんぶんや第83講】立岩真也 選「身体に良き本――主に運動の方面から」 」というのをさせていただくことになりました。生活書院の本(結果として)たくさんはいってます。よろしく。
→
「身体に良き本――主に運動の方面から」
(
http://www.kinokuniya.co.jp/20120825095245.html
以上前文。
第1回で書いた
こんど出していただく本
の「はじめに」というか「序」というか、いろいろやってるうちに本の構成が変わってしまったので、前半書き直しました。これでいきます。では以下。
■序
「安楽死」「尊厳死」について、
立岩
は
『良い死』
と
『唯の生』
(ともに筑摩書房、二〇〇八年・二〇〇九年)の二冊の本に書いた。それから基本的に言うべきことに変わりはなく、とくに足すべきこともない。ただ、それらで、もう一冊、関連する本・言論を紹介する本を出すことを予告していた。もとになる原稿はその時にほぼ一冊分あったのだが、他の仕事・事情が様々あったりもして、まとめる時間がなかった。ただそろそろ出せねばとは(いつも)思っていた。そこで、なんとかその仕事をして、刊行してもらおうと考えた。ただ結果、当初考えていたのと違う本になった。そこで、その事情と本書の概要を。
それらの本が出る前、二〇〇四年から二〇〇五年頃にかけて「尊厳死法」を作ろうという動きがあった。(その時のことは『唯の生』第2章の「近い過去と現在」、第4章「現在」に記した)。今年(二〇一二年)になってまた法律を作ろうという動きが出てきている。(九月に閉会した国会には法案は出されなかった。)取材依頼などいただくと、本を読んでください、とすませるわけにもいかず、同じことを手短かに話したり、書いたりといったことをすることになっている。第T章ではそうしたものを中心に幾つか再録した。
これまで法律化の動きはこのたびのものを含めて三回あった。その(二回目までのものについての)経緯については、今記した
『唯の生』
の第2章――そこで
日本尊厳死協会
(その前は
日本安楽死協会
)等についても紹介している――と第4章に記したのだが、本書第U章では各々の時の法案とそれに関わる意見を幾つか収録した。今回の三番目については、それまでより「障害者関係」の団体が動いている。(法律化を推進する人々はこれは障害者とは関係ないと言うのだが、そんなことはないことは本書を含む三冊でも示した。)また
『現代思想』
の二〇一二年六月号の特集が
「尊厳死は誰のものか――終末期医療のリアル」
で、(その時点での)現況を伝えている。
第V章では、
有馬斉
が
バイオエシックス(生命倫理学)
における肯定論を紹介してくれる。有馬に書いてもらうことは一昨年か昨年かから決めていた。読者は、同じ主題であるのに、なんだかまったく異なった世界があるように感じるだろう。そう、そのように世界はできている。ただ関係はしている。どこがどうなって、話が違ってくるのか考えてみていただきたいと思う。
ここでは「功利主義」が取り上げられるが、それは素人の私たちがその言葉で思う「最大多数の最大幸福」といった原理に限られるものではない。まず「本人」によって「よい」ことがよいことであることについては、多くの人が同意するだろう。とすると、そのことはどのように論じられているのか。また、「本人」をもってくれば、結局、有馬が紹介するように、「自律」「自己決定」が関わってくる。この主題については立岩は
『良い死』
第1章「私の死」で論じている。また(人・ヒトの)特別扱い、「生命尊重主義」批判については『私的所有論』(
立岩[1997]
)の第5章「線引き問題という問題」で、続いて、
『唯の生』
の第1章「人名の特別を言わず/言う」で、有馬があげる人・文献と同じ人・文献をあげて論じている。生と死を比較することについては『唯の生』の第6章「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」で論じている。
サバイバル・ロッタリー(生存籤)
については『私的所有論』第2章第4節。読み比べていただければと思う。
そして、この章の後半で有馬が紹介していることで大切なのは、積極的安楽死と消極的安楽死、尊厳死、治療停止、不開始…等いろいろと区別されているものが区別しがたいという主張である。立岩はこの主張にほぼ同意する。(「自然」に委ねるのと「人工的」に行うことに違いがあるという言い方はあるだろうが、やはり本章で紹介される人たちの同様、この区別の有効性は疑わしい。このことについては『唯の生』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」。)すると、このことは、いまこの国で盛んに言われていること、つまり、自分たちは「安楽死」を認めるわけではない、あくまで「尊厳死」――最近はこの言葉もあまり使われない傾向がある――を主張するのだという主張に危ういところがあることを示しているということである。だから、区別した上で一部を認めるべきだと主張する人たちは、この章に紹介する論に反論し論破せねばならないということである。
言うまでもなく、人々の議論を紹介することとと自らの論を示すこととは別のことでであり、ここで紹介される論と有馬自身の論(有馬[2009][2010])とは同じでない。それらの論文では、自由主義は、特定の価値なく、人の自由をもって安楽死他を認めると主張するが、実際にも、規範的にもすべての自死を認めるとはしない。とすればそこには特定の価値観があるとしか言いようがないことが証明されている。読んでいただきたい。ただそれが掲載されている雑誌の残部がなくなりつつある。後で紹介する電子書籍での提供などを検討したいと考えている。
『看護教育』(医学書院)で、二〇〇一年から二〇〇九年まで毎年十一回、計一〇一回、本の紹介をした。最初は、それを使い、補って、本を作ろうと思った。というかその連載はもともと、本の紹介の本を依頼され、そのためには原稿がいるから、そのために始めたものでもあった。その企画自体は、出版社の栄枯盛衰に関わる事情で宙に浮いたのだが、やはり本があってもよいだろうと思ってもきた。そのから「生死」「死生」に関わる本を紹介した回を使い、註を新たに付して本を作る。それが最初の計画だった。ただ今回は、手にとりやすいよう全体の分量を抑えるため、九回分にとどめた。残りは次にということになる。今回とりあげたもの、とくに日本の著者のものは、肯定的でない方に偏っていることを断っておく。例えば
清水昭美
は、さきに三度と述べた法制化の動きのうち最初と第二回――その間に約二五年が経っている――の法案の「阻止」の際、その活動の実務をほぼ一手に引き受けた人である。ただ、その次に紹介する
松田道雄
は初回の一九七八年に「阻止する会」の発起人だったが、後年賛成の立場に転じた人――実際はさらにもう少し複雑だった――人である。
そして、断片的にではあるが、「海外」における反対の運動――その大きな部分は(日本でのこのたびの、つまり三度目の動きへの動きと同様、障害者たちによって担われている――を紹介している。しかし、今回は急いでの出版になるために、断片的にでしかない。もう少し詳しく知りたい人はホームページに情報がある。また今後増補の機会があればと思う。
先に記した二〇〇四年頃、出来事を追い、字を扱うのが(人文社会系の)学者の仕事で、その分他の仕事ができない(ことになっている)のだから、できることはした方がよいのだろうと思い、まず数日かけてホームページを増補した。(「生存学」
http://www.arsvi.com/
→
「安楽死・尊厳死」
――表紙では「良い死?」という項目になっている――というファイル(ページ)からつながるファイルたちである。それからもぼつぼつと続けた。それらが収蔵・掲載されているHPは二〇〇七年から(二〇一二年まで)グローバルCOE「「生存学」創生拠点」(今は「生存学研究センター」)のホームページになって、関心のある大学院生他がリサーチ・アシスタント等として増補してもくれた。それで現在、直接に関わる(「et」で始まる)ファイルが一一〇ほど、計6メガバイトほど。これに本の目次のファイルやら、
太田典礼
、
松田道雄
といった人物のファイル等を加えるとさらに多くなる。文字の部分を取り出しても何冊か分にはなっている。(〇・五メガバイトほどテキスト・ファルルがあると本ができる――安くして手にとりやすくしようともくろんだ本書の文字量はさらに少ない)。
ただそうした資料は――とくに私(たち)のように工夫が足りない場合――やはり羅列的かつしばしば断片的であり、よほどその主題に入れあげないと読み込むのは難しい。難しくなくともその気になれない。一つには、私にはこう見える、思えることを書いて読んでもらう。それは一つの物語ではあるが、物語だから、それに反対することもできる筋をもったものとして読んでもらうこと、考えてもらうことができる。さきの二冊の本はそうした本だ。本書もどこからでもばらばらに読んでもらえるものでありつつ、「こんな感じ」と(すくなくとも筆者は捉えていることが)わかるようになっている。
ただ他方で、本に書ける量は限られている。これで同じ(ような)主題で三冊、というだけですでに顰蹙ものである。どうしたものか。
このたびに限らず、そのことをときどき考えることがあった。とくに日本語の本はすぐ厚くなってしまい、書くべきことを十分に書けないことが多い。しばしば、事実を伝えるのにも中途半端で、考えを展開するのも中途半端になってしまう。そうした半端な書き物が多い、多すぎると私は思ってきた。(それは、たんに書籍にする際の制約というだけのことではないと私は思っているのだが、そのことに関わる愚痴はここではよしておく。)そこで、詳しくは、個別のことについてはHPでということにしたのでもある。また情報は新しく加わる部分があるが、毎年本を書いて出してもらうのは難しい。そこで基本的な筋が使えるものである限りは、本は本として残してもらい、新しく起こったことやわかったことはホームページに載せるというやり方がよいだろう。そう思った。本書に出てくる書名や人名を検索してもらえばよい。多く貧弱で失望してしまうとしても、何かは出てくるはずだ。
ある筋をもつ文章はそれとしてあった方がよい。またある分量以上の文章は本になった方がよい。同時に、関係する資料はそれとしてホームページで読めたらよい。そして両者の行き来がたやすい方がよい。そんなことを思っていた。すると、近頃は電子書籍がようやく日本でも普及し始めた、らしい。その中の言葉から直接にHP上のファイルに飛んでいけるようにできるらしい。そこで、本書を電子書籍としても提供する。(まずは試験的に。HPで本書の書名で検索してほしい。)
私は多くのことを知らないが、それよりもなお知らない人がいる。むろん、なんでも覚えていたらたいへんで、人はたくさんのことを忘れるし、忘れたらよい。しかし、そうとばかりも言ってられない。例えば二〇〇三年に要項が作成され、二〇〇五年に出されると報道された法案は、一九七八年に日本安楽死協会が作った「末期医療の特別措置法案」のほぼ蒸し返し、おおむね同じものである。
推進する側(の一部)には連続性がある。あの時実現しなかったことが、時代が変わり、今度こそと思っている人もいるだろう。だが、賛成の人も、よくわからない人も、また批判的な人も、多くはそのことは知らない。それはよくないと思う。その時は提出されなかったものが、今度提出されそして通るとしたら、それはかつても正しかったことがようやく実現されるということなのか、そうでないのか。何かが変わったのか、そうでないのか。そんなことも考えられないまま、ものごとが決まっていくのはよくないと思う。「現代史」を辿ることが、いやでも必要になる。本書の最後に「カレン・クインラン事件」を丁寧に追った香川千晶の本の紹介を置いたのもそんな思いがあってのことでもある。
ただ本の多くはすぐに品切れ・絶版になってしまう。今は出ていないものに紹介すべきものがある。紹介する本が買えない本ばかりでは困る。ただ、図書館にあれば借りることはできる。そして、これは次の本で明らかにされることの一つだが、あきれるほど同じようなことが繰り返し語られてきた。「死について語ることを避けてきた」という話が、繰り返し、もう三十年以上、語り続けられている。だいたいこんなものだ、ということをわかってもらえたらよい。そして、中に読まねばと思うものがあったら――あるはずである――読んでもらったらよい。
最後に、まったくもって無理な急な願いを受け入れてくださった生活書院の高橋淳さんに、とても、感謝しています。ありがとうございます。
立岩 真也 二〇一二年九月
■紀伊国屋書店のブックフェアに出ている(はずの)生活書院の本・1(出版順・3つずつぐらい)
◆立命館大学生存学研究センター 編 2009/02/25
『生存学』1
,生活書院,414p. ISBN-10: 4903690350 ISBN-13: 978-4903690353 2310
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/
[kinokuniya]
※
◆渡邉 琢 20110220
『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』
,生活書院,420p.,ISBN-10: 4903690679 ISBN-13: 978-4903690674 \2415
[amazon]
/
[kinokuniya]
※
*大学院途中でやめて京都で介助者して稼いできた人が、自分野こと、自分の周りのこと、関西のこと、介助労働者のこと(彼は「かりん燈」というのもやっている)を書いた。
◆立命館大学生存学研究センター 編 2010/03/20
『生存学』2
,生活書院,416p. ISBN-10:4903690512 ISBN-13:978-4-903690-51-3 2200+
[amazon]
/
[kinokuniya]
※
UP:20120827 REV:
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