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【Web連載】


『生の技法』広告続・白石さんたち 連載:予告&補遺・11

立岩 真也  (2013/03/20)
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写真のこと等

 このたび第3版・文庫版を出してもらった『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也)の広告をしている。前回の続きということであれば、「学校での使い方・続」ということになるはずだが、別のことを。
 はてしなく、そしてどのような連載なのかわけのわからないわからない連載を月刊の雑誌『現代思想』でさせてもらっているのだが(この4月号で88回になる)、その3月号の特集が「大震災七〇〇日――漁師・サーファー・総理大臣…それぞれの現在」で、そこにJDF被災地障害者支援センターふくしま代表の白石清春さんが「JDF被災地障がい者支援センターふくしまでの活動報告と今後の福島の新生に対する提案」という文章を寄稿している。そんなに長大な文章というものではないが、書かれるべきはみな盛り込まれているというかんじの文章で、お買い求めのうえどうぞ(売り切れたら全文掲載させていただこうと)。
 さてその白石さんは『生の技法』に何か所か出てくる。実は第7章の初版・第2版冒頭の写真は白石さんの盟友である橋本広芳さんがトラメガ――それが「トランジスタ・メガフォン」の略語であることを、今、ウィキペディア(「メガホン」)で知った――であじっている(アジテーションをしている・煽動している)橋本さんの写真である。そして第2版第9章「自立生活センターの挑戦」の冒頭の写真は3枚あって、上から2枚は全国自立生活センター協議会(JIL)の「所長セミナー」というものの風景なのだが、そこには(2枚とも)白石さんが出てくる。そして一番下の写真は「阪神大震災 障害をもつ持つ仲間たちにカンパを!! 自立生活センター・立川」という看板の横でカンパを呼びかけている野口俊彦さんの写真だ。
 このたびの第3版出版の直接的な要因ではないのだが、関係がなくはないこととして、第2版(増補改訂版)まで出してくれていた藤原書店と取り引きのあった製版(+印刷?)会社が倒産し、そこにあった印刷のもとになるいわゆる「版下」がまるごとなくなってしまったというできごとがあって、それで今回はこれらの写真も――まるきり不可能というわけではなかったのだが――使えなくなったということがあった。まあいいかなと思っている。ただ、今見ると、私が撮った素人写真もあったりで、なにかきれいな写真たちではないのだが、なかなかよいようにも思える。なにか機会があったら、と思う。
 さてその――今は東京都自立生活センター(TIL、→そのHPでも活躍する、進行性の筋ジストロフィーのはずなのだが、この30年、ちっともかわらない――野口さんは、というようなことを書き出すと、いつまでもたっても始まりもしないということになる。それで、別建てで情報を提供というのがよいように思って、それで電子書籍を、と思ったわけだ。この連載もその「試供版」のような感じでやってみている。→電子書籍版、買ってよい人(と思う、だけでよいです)立岩TAE01303@nifty.ne.jpまで連絡ください。10人いたら作り出します。

『生の技法』より

 もう一度さて、以下、白石さんが出てくる箇所を引用。まず第1章、安積遊歩(純子)の「〈私〉へ――三〇年について」より。

 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→1995:30→2013:47-48])

 次は、第7章「はやく・ゆっくり」より。

 「青い芝全国連合会は、全健協の解散から数か月後、七八年七月、会長横塚の死を迎える。先鋭な理論家・活動家であるとともに、調停者の役割を果たしていた横塚の死を発端に、青い芝の会は二度目の混乱に陥った☆79。七九年の第四回全国大会は成立せず、常任委員会に代わって再建委員会が設置され、委員長として白石清春が選出された。再建委員会は、運動の方向に一定の変更を加える。それは制度的な改革への志向であり、また現実的な可能性の方を重視するという方向だった。それが、先に述べた、実態調査を実力をもって阻止することはしないという態度の表明、先に述べた国際障害者年を契機とする行政との関係の形成に現れる。そこで所得保障の確立を彼らは主張する。全国連合会結成以前の社会活動部、そして東京青い芝の主張が再び前面に出ることになったのである☆80。
 けれども、このような方針が、青い芝の構成部分の全てによって支持されていたのではない。この路線は、改革委員会が組織されて最初の全国大会で、再び否定されることになる。八一年三月、広島の会員が、電動車椅子でふみきりを横断中動けなくなって、電車にひかれ死亡するという事故がおこり、それをきっかけに兵庫・広島・福岡の青い芝の会が、電動車椅子は本質的には介助者の手を抜く健常者の御都合主義だと主張して☆81、電動車椅子を否定する方針を八一年三月の第五回全国代表者大会に議案書修正案として提案し、受け入れられる。この大会ではこの問題の他、二つの主題について論争が行われた。あと二つは年金と作業所である。年金の要求は健常者社会への迎合を帰結するというのが批判者の主張である。また作業所は、生産主義に追随するものとして批判される。年金問題などで厚生省とも関係を作ってきた白石が退き、再建委員会が設立される前に会長代行だった横田が会長に選出され、優生思想との対決が再度正面に出る。この方針は、現在も基本的に維持されている☆82。」(立岩[1990:212-213→1995:212-213→2012:313-315])

 「横浜では、神奈川青い芝の矢田らが中心となって、七九年三月、「ふれあいの会」を結成、同年七月作業所の運営を始め、八二年には障害者地域活動ホーム・ふれあいの家を設立、作業所をここに移すとともに、そこを地域との交流の場所にしょうと試みる。そして、当初から必要性が認められ、また家庭に問題が生じ生活する場がなくなっても作業所はそれに対応しきれないという問題の発生に促され、生活の場所としての「ふれあい生活の家」建設の運動を行う☆83。また、相模原市では、全国青い芝の代表だった白石が、八〇年六月、「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成し、後述する所得保障連絡会議に参加して所得保障確立の運動を進めるとともに、会独自の活動として、地域作業所「くえびこ」を八二年四月に開所し、運営を始めた。やはりこの作業所も、生産というより、外に出、地域との交流を図ることを目指す。そして八二年からはケア付住宅の建設に取り組み、八六年に実現させる。ここにやはり、養護学校を卒業した世代を中心とした人達が入居し生活を始めた☆84。」(立岩[1990:214→1995:214→2012:316-317])

 ☆は注。ここでは他は略すが、☆84は以下。

「☆84 ケア付住宅「シャローム」については第8章6で紹介した。機関紙として『生きる』、他に白石[84B]。」

 とみたら、ここは第2版以来の誤記のようで「第8章注2」がただしい、ようだ。といってもそこには文献の紹介しかない。と、初版の第8章を見てみたら、その第6節は「ケア付住宅」と題され、そこそこ詳しく書かれている。完全に忘れていた。その章「接続の技法――介助する人をどこに置くか」は全文をサイト上でご覧になれる。
 そして第3版に新しく加えた第10章「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」の第3節「様々な暮らし」より。

 「そしてCILもいろいろだ。これまでの章でも多様性については書いてきた。ただ、一九九〇年前後に私たちが関わったのは主に東京近辺の幾つかの組織だった。地域によっても形や「乗り」がずいぶん違う。例えば兵庫の「メインストリーム協会」はとても大きな規模の事業をしているが(常勤のスタッフが二〇人はいると聞いた)、東京の「ヒューマンケア協会」とはすこし雰囲気が違う。比べて緩い感じがある。それらがどんな具合に機能しているのか。どのように利用しているのか。どのように働いているのか。例えばさきにあげた前田・渡邉の本が示しているのは、全国で起きていくことでもあるが、その土地のその組織や人たちのことでもある。その上で、各地にできてきたつながり、そのつながりのつながりが、機能している。例えば阪神・淡路大震災の時、常に機能的に機能しているというわけでないそのつながりがあってなんとかなったところがあった。その人たちは新しい組織も作り、「ゆめ・風基金」を設立し金も集め始めた。そして東日本大震災の直後に東北に向かった人たちにメインストリーム協会の人たちもいたと聞く。そして福島で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしているのは、第1章の安積の先輩で盟友であった、そして全国青い芝の代表を務め(313頁)、神奈川県相模原市に「くえびこ」という場を作りグループホームを運営した後、福島に戻って活動を続けてきた白石清春(一九五〇〜)であり、その活動の支援に、かつて兵庫の青い芝の会にいて(後に解散させ)、その全国組織でも白石と一緒だった(そしてたぶん対立もあったはずの)古井(旧姓:鎌谷)正代(一九五二〜)が駆けつけたりもした☆07。
  突然の災厄もあり、凡々とした毎日もある。[…]」(立岩[2012:511-513]

「☆07 ごくごく簡単な報告として[12A]。HPに「東日本大震災」の頁があり、関連頁につながっている。阪神淡路大震災の時・その後のことについては似田貝編[06][08]佐藤[10]にいくらか記されている。そして、これらの本にも出てくる大賀重太郎(一九五一〜)――彼もまたものを言わず傍にいて支えてきた人たちの一人だった――がこの章を書いている年になくなった」。

 こんなふうに出てくる。

『現代思想』から

 そして以下は、冒頭で紹介した『現代思想』掲載の白石さんの文章より。

 「二〇一一年三月一八日に滋賀の障がい者事業所から医療関係などの支援物資が届けられた。支援物資と共に大阪のゆめ風基金の方がみえられて、福島県に被災地障がい者支援センターを立ち上げたらどうかという提案がある。次の日に関係者で協議した結果、支援活動を行なっていくことになる。支援物資があいえるの会の生活介護事業所に届いたので、自動的にあいえるの会で事務局を私が担い、私が代表を務めることになる。」(p.105)

 「[…]障がい者は、避難先での住環境が整っていないと避難することば難しい。そのにうな点を考慮して東北・関東大震災救援対策本部の支援を受け、相模原市に旧ケア付住宅(私が相模原にいた時分に建設された)を借り受けて避難拠点とした。二〇一二年五月に一人の脳性まひ者が相模原に避難していった。二〇一二年五月にも脳性まひ者が避難していった」(p.106)

 「福島県においてはさかのぼること四〇年前からの重度の脳性まひ者の団体である青い芝の会が、みずからの存在を社会に訴える文字通り体を張った運動を行なってきたという経緯がある。一九七〇年代後半には福島県青い芝の会は解散していくが、福島県の各地域で活躍していた脳性まひ者たちが地域に根付いた活動を継続していく。」(pp.109-110)

 表や裏でいろいろと大変なことがある。私は「現地」に一度も行っていないけれど、そこに行って波瀾を巻き起こしたらしい古井さんやら福永年久さんの介助をたまたま(というか、私が古井さんからことづかって、募集してしまったのだが)することになって、それ以来福島他に幾度か行ったりという人たち(青木千帆子さんや権藤眞由美さん)からも、すこし聞いてはいるし、土屋葉さんたちが調査を始めてもいる(そういったことはまたお知らせしよう)。「物語」はべつとして、調べるべきは調べねばならないし、分析すべきはせねばならないと思う。ただそのうえで、断裂や分裂がありながら、続くことがあるとき、それを知ることになる私たちは、すこしうれしく思う。


 
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