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【Web連載】
もらったもの:『私的所有論』広告
連載:予告&補遺
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立岩 真也
(2013/07/17)
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http://www.arsvi.com/m/s01.htm">『そよ風のように街に出よう』という雑誌に「もらったものについて」という「連載」をさせてもらっている――最初は連載のつもりはなかったのだが、2007年から続いていて、この雑誌はだいたい年に2冊ぐらい出るのだが、今日送ったのが
第11回
。これはよい雑誌で、ずっと続いてほしいので、買ってほしいのだが、というよりすこしでも宣伝になったらと思っているので、買ってほしいので、毎回の原稿をHPに掲載させてもらっている。
さて、これから鋭意宣伝しようと思う
『私的所有論 第2版』
の第1章では、「もらったもの」について次のようにまず記してある。
「現実や現実を肯定する流れがあり、それに対する批判がある。そして批判者は以上にあげてきたものを適宜援用してきた。どちらかと言えば、異を唱えてきた人達の方が何かを言っているだろうと私は感じてきたし、この本を書いてみた今、あらためてそう感じてもいる。ただ、両者のいずれにも満足できなかった。ずっと両者のその間にあったと思う。これは嫌われる立場である。しかし私はそのようにしか考えられなかった。徹底的な批判であるかに見える批判が、空虚な常套句でしかないように思われる。それは、どこかで相手にしているものと徹底的に対峙していないからだと思われた。そこでこの本を書いた。現実にある、どう考えたらよいのかわからない事柄をどう考えたらよいのかと考えながら書いた。同時に、どう考えたらよいのかというその足場を現実の表層の中に見出そうとする。論理を辿って、と先に述べたこととこれは矛盾しない。感覚は論理的である、感覚は論理を備えているのだが、その感覚=論理が、近代社会にあると公称されるものによって隠され、うまく記述されていないのだと思う。そして、考え記述するその手掛かりの多くは、結局、(私の不満の対象でもあった)疑問や批判の動きから得られた。たったこの本に書いただけのことを言うのに、考え始めてから十年よりは二十年の方に近い時間がかかってしまった。それは、別の仕事に時間をとられ、回り道をしていたからでもあるが、ただそれは悪いことだけではなかった。その仕事の中からいろいろなことを考えることができた。そこで得たものは、文字になったものからよりむしろ、呟かれたことや行われたことからだった――もちろん行われる時には様々な理念が語られるのだが、そうして公称されるものとは別のことが起こっていると思うことが何度かあった。」(pp.48-49)
これまで、「感覚は論理的である」という箇所を幾度か引いてもらったり、あるいはこの部分について質問をいただくことがあった(こないだ真宗の関係の研究所に呼んでもらって話させてもらった時もそのことを問われた)。これはこれで、そのままそう思って書いているところで、本来はあまり説明を要しないと思う。一つ加えれば、これは別の箇所(というか本の冒頭)で書いているのだが、A:矛盾しているように見えるような言明も、考えていけば辻褄があっていることがあるということ、逆に、B:論理的な主張とされているもの、それでBを批判したりする主張が、すこしもそうでないことがけっこうあるのだということ、そういうことは言っておいてよいことだと思っている。そうしたねじれがあって、それがそのままにされてしまってしまうと、しごくまっとうな論が「たんなる感情論」として除外されてしまうことにもなる。それはよくないと思っている。
ただこの箇所全体で言っていることは、私が、その前の時代・世代から何をもらったのか、どんな距離感をもっているか、その上で私はどうしていくことにしたか、である。
そして、今読んでみると、すこし遠慮しすぎたというか、わかりにくくなっている。一つ、引用した前の箇所で、一九七〇年代から一九九〇年代にあった社会を(批判的に)語る「学問的」言説には不満があることを言っている。どのように不満なのかはその箇所に、また
『希望について』
(2006、青土社)ならその最初に収録されている「たぶんこれからおもしろくなる」――それはつまり今まではあまりおもしろくなかったということだ――などで書いてあるからそれらを見ていただければと。
ここではもう一つのことを言っていて、それは、「あまりおもしろくかった」ものとそうくっきりと完全には分かれないのだが、しかし別のものに、「文字になったもの[…]よりむしろ、呟かれたことや行われたこと」のなかに、「もらったもの」があると書いてある。「別の仕事に時間をとられ、回り道をしていた」と記してあるが、それは具体的には
『生の技法』
(初版:1990、藤原書店、第3版:生活書院)にまとめられた仕事をする中で、あるいはその手前で読んでいたもの、また本の後、それを書く過程で知り合った人たちから頼まれてした仕事のことをさして言っている。そうした人たちには学者もいたのだが、そういう人の方が少なかった。その人たちは理屈をこねるのが仕事ではなかったので、ものの言い方はすっきりしてもいたが、そのぶん容易に突っ込まれそうなものでもあった。それで私は私としてそこをなんとかと思って仕事をした。かえって話を面倒にしてしまったのかもしれない。ただ、そうではあってもいちどはやっておいてよいことだと思った。
では具体的にどんな人たちから「もらったのか」。その文庫版には2つの補章があって、一つは「ごく単純な基本・確かに不確かな境界」、一つは「いきさつ・それから」というものなのだが、その二つ目の方の最初のところで次のように書いた。
「「団塊の世代」「全共闘世代」について私の評価は――全体としてものを考えない、というか途中でやめてしまったと思えてしまうために――かなり辛いのだが、それでもその人たちがいた。それより年が上の人も下の人も含め、一九七〇年頃から「能力主義」だの「優生思想」だの、呪文のように同じ言葉を繰り返していた社会運動のある部分があった。ほぼ消滅しかかっていた学生運動にもあった。それはこの国にかなり特異なことと言ってよいのかもしれないように思う。多くはあまりものを書かない人たちだったが、それでもいくつか本もあった[…]。そしてそういうものにわりあい深くあるいはすこし関わりのある私とほぼ同世代の人たちがそう多くはないにしても周囲にいた(そして結局、そのうちの一定の部分は研究者になった)。本書でわりあい名前がたくさん出てくる人たちの幾人かはそんな人たちでもある。」(pp.815-816)
そしてこの文の尻尾のところに註をつけて、文字を書いた人に限られるのだが、何人かの人をあげた。(最初に紹介した「もらったものについて」でもまったく同じ箇所を引いている。)
「時代の雰囲気とは別に、しかし必然性をもって、ものを書いた人の書いたものが、その人たちは「学者」でないことが多いのだが、あったにはあった。よく知らないからでもあるのだが、本書では控えめに、注などで、幾人か・いくつかについて記した。新たに加えた文では、補章1の注4(797頁)で
田中美津
、注6(798頁)で
吉田おさみ
、注9(802頁)で
吉本隆明
・
最首悟
、注16で
森崎和江
(809頁)、ほかに本補章で、
稲場雅樹
、
山田真
、
米津知子
、また初版では、第5章の注1(347頁)、注12(359頁)、注22(364頁)、第6章の注1(418頁)、注43(450頁)、第7章の注23(534頁)、第8章の扉(538頁)、注1(608頁)、注3(611頁)、第9章の扉(620頁)、注2(709頁)、注9(715頁)、注20(724頁)、注21(724頁)、注27(726頁)等で、
石川憲彦
、
石牟礼道子
、
奥山幸博
、
小沢牧子
、
北村小夜
、
最首悟
、
篠原睦治
、
堤愛子
、
野辺明子
、
福本英子
、
古川清治
、
宮昭夫
、
村瀬学
、
横田弘
、
毛利子来
、
横塚晃一
、
山下恒男
、
山田真
、
米津知子
、
渡辺淳
の文章・文献にわずかに、ほとんどの場合本当にわずかに、ふれた。」(pp.843-844)
吉本隆明は知られているのだろうとは思うが、それぐらいは知られてよい人たちのどれだけが知られているだろう。かといって、一人ひとりのことを説明していったらたいへんだ。だから一つ、こうやってリンクしてみているわけだ。
そして、そのリンク先はたいがいは文献リストのようなものに、すくなくとも今のところとどまっている。それはそれとして増補していこうと思うが、それ(→ハイパーリンクつきの電子書籍)とともに、いくらか「経緯」を記述し、それをどう見るかについて、これまで書けなかった部分を書ければと思う。今回最初に引用した部分、「公称されるものとは別のことが起こっていると思うことが何度かあった」の後は次のように続いている。
「ただ、この本には骨のような部分しか書かれておらず、どんな場で何を得たかは書かれていない。まだ三十年も経っていない出来事が、そのままにしておけば、それがあったということさえ忘れられてしまうだろう、その歴史を辿るのはまた別の仕事になる。」(pp.49-50)
その「別の仕事」の一部を、いくらかでも、というのである。ただそれはたんに「もらったもの」を書くということにもならない。
もらったものは、かんたんにすれば、「呪文のよう」な「同じ言葉」であって、それを繰り返すことが私は大切だと思うのだが、それだけなら、一言言えば(言ってもらえば)すむ、すんでしまうというところがある。そして繰り返せばよい。そしてそれについては私などより上手な人がいる。私は私で、もうすこし込み入ったことを調べることになる。
『ALS――不同の身体と息する機械』
(2004、医学書院)以来のいくつかの仕事はそんな仕事でもある。『そよ風』の連載も、予めの筋なく、その回その回をしのいでいるので、だいぶ整理しなけばならないが、整理して形になるのならと思っている。そしていま『現代思想』でさせていただいている「連載」??の数日前に送った原稿が「精神医療についての本の準備・5――連載 92」、この「準備」というものの前にも精神医療(改革?、あるいは改革派への造反?)について何回も書かせてもらっているのだが、それらを合わせて本にしようと思っている。
「見立て」ができていって、そこから見ていって、結局それは外れていたとか、だいたい行けるとか思って、続けたり、別の道を探したりする。この本はそうした過程の中でひとまとまりつけたというものでもあり、次につなげるものでもあった。つなげかたも一通りではない。過去につなげていくという道もあるということである。
※『私的所有論 第2版』誤字→その他関連情報:
『私的所有論 第2版』
798-01 「性格な」→「正確な」
844-04 「渡辺」→「渡部」
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◆利光 惠子 20121130
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天田 城介
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北村 健太郎
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堀田 義太郎
編 20110325 http://www.arsvi.com/b2010/1103aj.htm">『老いを治める――老いをめぐる政策と歴史』,生活書院,522p. ISBN-10: 4903690733 ISBN-13: 9784903690735 3000+
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