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【Web連載】
『私的所有論』の登場人物・5(最首悟・続)
連載:予告&補遺
・25
立岩 真也
(2013/07/17)
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……
前回
、『私的所有論 初版』&『同 第2版』に何度か出てくる
最首悟
の文章からの引用を紹介した。結局、もうすこし続ける。
最首悟といっても知らない人は、残念ながら、知らない。今度、あと数日後、青土社から
『造反有理――精神医療の現代史へ』
という本を出してもらうことになった。満足に書けたというものではないのだが、とにかく400頁を超えてしまって、きりがないし、出してもらうことにした。その紹介はHPに載せていくつもり。その本でも最首はすこし出てくる。その本は人物についての短い解説が82人分載っている本で、そのほとんどは精神科医(かつ日本国籍、かつほとんど男性)なのだが、中には精神科医でも医師でもない人がいる。その数少ない人の中には、少数の「ユーザー」がいて、最首がいる。
「◇最首悟[さいしゅ・さとる](一九三六〜) 東京大学理学部動物学科博士課程中退後、六七年同大学教養学部助手。九四年退職。恵泉女子大学を経て二〇〇三年より和光大学人間関係学部人間関係学科教授、退職。この間、六八年東京大学全学共闘会議助手共闘に参加。七七年第一次不知火海総合学術調査団に参加、八一年より第二次調査団団長。山田・立岩[2008b:158-159]の註により詳しい紹介。著書略。」
ひどくあっさりしているが、こういうものをきちんと書き出したら400頁でも収まらない。山田・立岩[2008b:158-159]の註とあるのは、生活書院から出してもらっている
『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』
(2008)――何度でも言いますがよい本です――に収録されている小児科医の
山田真
へのインタビューに私が付けた註でそこには、次のように書いてある。
「☆09
最首悟
(さいしゅ・さとる) 一九三六年福島県に生まれ、千葉県に育つ。東京大学理学部動物学科博士課程中退後、一九六七年同大学教養学部助手になる。一九九四年退職。恵泉女子大学を経て、二〇〇三年より和光大学人間関係学部人間関係学科教授。現在、和光大学名誉教授、予備校講師。この間、一九六八年東京大学全学共闘会議助手共闘に参加。一九七七年第一次不知火海総合学術調査団に参加、一九八一年より第二次調査団団長。著書に[1984]
『生あるものは皆この海に染まり』
、[1988]
『明日もまた今日のごとく』
、
『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害者の娘との20年』
(最首[1998])他。編書に最首・丹波編[2007]
『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』
。より詳しくは丹波[2008-]
「最首悟」
(以前からあった資料を丹波が増補している)。
『情況』
という回顧的な(だけではないが)雑誌の二〇〇八年八月号の特集が「人間的環境と環境的人間」で(もう一つの特集は「新左翼とは何だったのか」)で、最首の特集号のようになっている。(最首自身は、前者の特集で鼎談を一つ、後者の特集で――前の号から連続対談を始めたということでその第二回ということなのだが――対談を一つ。)この号に、以前書いた文章を集めただけの立岩[2008]
「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」
。」
この『流儀』の註は拡充して電子書籍版・第2版を、というようなことを
以前書いた
のだが、その後さして進んでいない。私はそういうものに需要があってほしいのだが、他の人たちにおいてはどうなのか、はかりかねている。
なぜ、いくらかためらいつつ、必要があると考えるのか。それは『私的所有論』にも書いたし、またそれは今度の『造反有理』を書いたわけでもあり、書いた中身でもあるから、詳しくはそちらで。ともかく、最首に限って簡単に紹介すると上記のようなことになる。より詳しくは最後に紹介している
「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」
――それもまたたんなる引用集なのだが――を読んでもられえばと思う。
『造反有理』で引いたのは以下の二箇所。
「
医学連(日本医学生連合)」
(一九五四年結成)は、一九六七年に医師国家試験ボイコットを行ないます。これが成立してしまうところに医者の特異性が出ています。医学部に入った途端に、学生たちは自分たちが特別な存在であることを弁えます。医学生が本気で反抗したら国がつぶれるような事態になってしまうことをはっきりと認識しているのです。その年、三六大学で三一五〇人の受験資格者中、受験したいわゆるスト破りは四〇五人しかいなかった。これでは国家試験は事実上成立しません。一九六七年、医学部卒業生は四〇〇〇人と思ってください。/政府は妥協してインターン制度を廃止し、研修医制度を設けました。」(最首悟[2013:269]、この講義が収録されている
『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』
(高草木編[2013])では、多く断片的にではあるが、知っておくべき様々な出来事が語られている。)」
『思想としての「医学概論」』
というのは、高草木光一という経済学部には(他にも)今どきほとんどいそうにない慶應義塾大学経済学部の教員が毎年、彼のこのみで人を呼んできて話をしてもらったり対談や座談やらをするという趣向の科目をもっている、その記録である。前回引用した最首・立岩のリレー講義は、同じ高草木担当の科目の2008年度の1回の記録である。『思想としての「医学概論」』はその科目の2012年度の記録。高草木は全共闘〜最首を愛好しているのである。私の最首の部分についての感想は上の引用の末尾に記したとおり。私としてはそういうものを拾って集めてという仕事をしたいと考えていて、
『流儀』
に長い註をつけたのも、そしてそれをさらに長くしようとしているのも、そんなところから来ている。
ではその「思想」はどうなのか。『造反有理』の第1章に次のような文がある。
「そして、大学闘争の前の世代であったり、大学闘争に関わったりしつつ、後には大学にも学会にもさして関わらないところにいた人たちがいる。例えば毛利子来(一九二九〜)、最首悟(一九三六〜)、山田真(一九四一〜)、石川憲彦(一九四六〜)、といった人たちがいる。石川は東大の病院で長く働いていたが、毛利はかつては今とは違って貧乏な人たちが多かったという原宿で診療所をやっており、山田は(徳洲会病院の院長に誘われたことがあったことを聞いたことがあるが)東京都八王子市で診療所をやっている。その人たちは「一般人」向けの本を書いたり雑誌に関わったりしている。それらは石井らの本にはほとんど現れてこない。同じ時代に、似たようでもあるが――しかしそこには理由もあって――交わらなかった部分もまたあったということだ。そうした差異やずれに着目して、この分野・業界の現代史を見ておく必要がいくらかはあると考えて本書を書いている☆25。」
ここで「石井らの本」とは
『聞書き〈ブント〉一代』
。その註が以下。
「☆25 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」(最首[1969])という気負った文章があり、同年の雑誌『現代の眼』(三月号)での座談会(最首他[1969])での発言が
吉本隆明
に批判されて最首はへこんだりする。
「私は、一九六九年に、当時教祖的存在だった吉本隆明から「この東大助手には、〈思想〉も〈実践〉も判っちゃいないのです」〔吉本隆明「情況への発言」、『試行』二七号、一九六九年三月、一〇頁〕というご託宣を受け、落ち込みましたし、考え込みました。「わかっちゃいない」と言われれば、「わかりたい」と思います。しかし「わからない」まま時間は過ぎてゆく。努力していないと言われるとそれまでです。しかし、密かに大きくなっていった意識は、「思想も実践もわかったらどうするのだ」ということでした。」(最首[2013:287]、その文章は吉本の同じ題の本(吉本[1968])には、それは六八年に出されたのだから当然だが、収録されておらず、吉本[2008]に収録されている、そしてその同じ「ご託宣」のことは『図書新聞』の吉本追悼特集に最首が寄せた文章(最首[2012])でも言及されている。)
これではなんのことやらわからないだろう。私もわかっていないし、最首自身も自らの位置を定めかねている、あるいはそれでよいと(いまは)思っているのかもしれない。ただ――まず今度の本では必要なかったから考えてないし、書いていないのだが――私はもう少しこの時期のことは考えておいてよいと思っている。吉本の『情況』といった本(たぶん)は大学に入りたての時に読んだことがあっはたずで、かくも人は人を罵倒するのだと驚いたのだが、出典を確かめるために
『「情況への発言」全集成1――1962〜1975』
(吉本[2008])を読んだら、やはりなかなかのものだった。「教条主義」を批判するのは当時当たり前だったし、それを批判する側のものにもいろいろと「とんでも」なものがあったのは普通に認めよう。けれども、吉本は、今なら「文化左翼」とか呼ばれるあたりも含め、さらにもっとなんでも罵倒する。それはなんだったかである。彼について書かれたものはいくらもあるし、亡くなってからもいくつも出たようだが、まだ考えておいてもよいと思っている。
さてそれはそれ。最首は、というか彼を囲む人々は、というべきか、
「最首塾」
というものを以前からやっている。どういうわけだか、2002年10年19日、私はそれに呼ばれて東京の杉並区の高円寺あたりのたしか公民館のようなところで話をすることになった。その時には2冊目の単著の
『弱くある自由へ』
(2000、青土社)はもう出ていたのだが、私は『私的所有論』の話をした。その時に初めて出会った人が2人、その後私の務める研究科(2003年4月開設)の大学院生になった。初めてといえば、私が最首に会ったのもその時が初めてだった。同じキャンパスにいたことがあるはずなのだが、それから20年以上が経っていた。彼は、私が明晰に語った(はずの)近代的私的所有体制批判の部分ではなく、では、何を代わりに言うのかという辺りの、途切れ途切れになって語った途切れ途切れさを楽しんでいるようだった。(そういう雰囲気だったというのではなく、彼は私の話が終わった後、そうした意味の感想を述べたのだった。)
その後は、前回記した慶應義塾での2008年のリレー講義+対談という企画で一回会った。そして2009年5月14日、
ひとり芝居「天の魚」2009年公演
の「アフタートーク」というようなものに呼んでもらって
鬼頭秀一
と対談をしたのだが、その総合司会?というかが最首だった。駒場寮という汚い(私は、住民でもないのに、大学にいるときのかなりの時間を、そこにサークルの部屋があったからだが、過ごしていた)寮の裏にあった駒場小劇場というところが、寮はあとかたもなくなってすっかりきれいになったのだが、劇場のほうは新しくなって残ったそこで行なわれた。終わった後、私は以前最首塾で会った最首塾の人たち他と渋谷で飲んだのだった。
■文献
市田 良彦・石井 暎禧 20101025
『聞書き〈ブント〉一代』
,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940
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/
[kinokuniya]
最首 悟
1969 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」、『朝日ジャーナル』1969-1-19:99-103(非常事態宣言下の東大・その2)
―――― 19841105
『生あるものは皆この海に染まり』
,新曜社,378p. ASIN: B000J71NW8 2200
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―――― 20120414 「思想も実践もわかっちゃいない――繭玉のように表現を紡ぐには、蚕のように静止しなければならない」,『図書新聞』3058
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/shinbun_list.php?shinbunno=3058
―――― 20130222 「「いのち」から医学・医療を考える」,
高草木光一編[2013
:235-315]
吉本 隆明 19680815
『情況への発言――吉本隆明講演集』
,徳間書店,272p. ASIN: B000JA5AP6 660
[amazon]
※
―――― 19690325 「情況への発言(一九六九年三月)――二つの書簡(発信者 内村剛介)」,『試行』27→吉本[2008:110-119]
―――― 20080123
『「情況への発言」全集成1――1962〜1975』
,洋泉社MC新書,389p. ISBN-10: 4862482155 ISBN-13: 978-4862482150
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/
[kinokuniya]
※
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■生活書院の本×3
◆深田 耕一郎 20131013
『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』
,生活書院,674p. ISBN-10: 486500016X ISBN-13: 978-4865000160
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/
[kinokuniya]
◆立岩 真也 2013/05/20
『私的所有論 第2版』
,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061
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[kinokuniya]
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 20081130
『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』
,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310
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[kinokuniya]
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