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【Web連載】


これは腎臓病何十万人のため、のみならず、必読書だと思う・3 連載:予告&補遺・28

立岩 真也  (2013/07/17)
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  前々回前回に続き、有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』の冒頭に収録された私の文章(の続き)を掲載する。

 ――以下――

お金のこと
  さてなんといってもこれは金の話、ではある。透析に大きな額の金がかかっているのはたしかだし、それは否定できない。本書で示されるように、価格設定には様々な力が働いている。政策的な誘導がなされてきた。一時期は出しすぎたと評価することもできるだろう。ただいずれにせよ金はかかったし、これからもかかる。それをどう考えるか。
  過剰であっても無害であるならそれ自体はさほど気にすることはない、問題は患者に加害的な行ないがなされる場合であると、そして、「資源」の問題は本当はそんなに深刻な問題ではないと述べてきた。短く繰り返すと以下のようになる(詳しくは立岩『良い死』(筑摩書房、2008)第3章「犠牲と不足について」)。
  例えば比較とはどんなことであるか考えみてほしいのだ。たしかにとても大切なことである透析と移殖の場合のQOLのこと(こちらは得られるもの、その質ということになる)をいったんおいて、このごろ(というかだいぶ前から)流行であるように、コストのことだけを考えよう。臓器は売買してならないことになっている。ならばそれ(腎臓そのもの)に金がかからないのは自明のことである。しかしそこに「負担」は発生していないだろうか。そんなことはない。そんなあたりまえのことからものごとは考える必要がある(が、どうやらほぼ考えられていない)。本書はそのことを教えてくれる。
  ではどう考えたらよいのか。ここではお金に換算できる部分だけに限る。たとえば何か(たとえば透析)がGNPの何%かを占めることは問題にされるのだが、他方でGNPが増えることはよいことだとされたりする。どういうことになっているのかである。
  増えるとは、おおざっぱには消費が増えるということであり、それにともなって生産が増えるということであり、(多くの場合)労働が増えるということである。他に生産のために使用される原料が増え、廃棄物も増えるということである。地球上の資源や廃棄物のことはきっと大切なことだが、この場合はそれほどであるとは思えず、ここでは略してよいとしよう。人が求めるものが得られ使われることが消費であり、消費は、それだけをとればよいことである。言葉の定義からそうなるのだが、そんな形式的なことを言わずとも人工透析・人工腎臓で生きられるのは当然によいことである。
  すると残るのは人、人の労働になる。筆者もその一員であるところの医療者たちがこの仕事に携わっている。その仕事のためにとてもたくさんの人がいりようで、米が作れないとか、魚がとれないとかそんなことにでもなったらそれは大変そうだと思う。だが、失業が存在するこの社会でそんなことは起こらない。ならばなんの問題もない。
  大略そういうことになる。だが、しかし、という感じを、私も含めて、多くの人はいだくだろう。給料のいくらかの部分を医療保険料として払い、そのいくらかの部分が透析に使われるとなると、もったいない感じがする。そのことと前の段落までに述べたこと――それ自体はまちがってないはずだ――とどう辻褄があうのか。その上でさらに、わかりやすくどう伝えるか。
  それはまたの課題としよう。ただ、自らの所得のうち自分で消費できたかもしれないのの一部が――金を使って消費できるのは人間だから――機械や薬…を作ったり使ったりする人たちに渡って、その人たちがその分を消費する。ここまではまず言える。それはいかほどか。第1章2節「人工腎臓にかかる費用」で引用されている数値では1兆4千億ほどで、GDPでもGNPでも、だいたいその300〜350分の1といったところだろう。たいした額ではない。それで約30万人が生きていられる。そして個々人にとって300〜350分の1というのは1人あたま同じ負担でという場合である。その負担のあり方より別の負担の仕方がよいというのであれば、例えば多く収入のある人は多く負担するのがよいと考えるのであれば、皆がその割合になることにはならない。もっと少ない負担でよい人も多くいることになる。これは、一方で、たしかに透析のために人が働く、その人が暮らせる分を他の人たちが贈与しているということ、他方で、もしその職が不要なら、どうせ生活保護といった形で贈与することになること、いずれにせよそれはそうたいしたものではないはずだということの両方をまず説明する。
  そのうえで、より多い負担感が(一部には)ある、大変だと思う人たちがいるとすれば、それはどこから来ているのか。そのことが実は本書で描かれている。「公費負担」とされるものは単純な仕組みのものではない。腎臓病を障害だとして(その把握自体は十分に可能であり妥当でもある)「更生医療」にもっていった、さらに加えて「高額医療費療養制度」の創出、というのは、苦肉の策でもあるが、ありうる策でもあった。その時点で実現可能な策という点では「賢明」だったと言えるかもしれない。ただ、それは、私は本書ではじめて仕組みの全体がようやくわかったのだが、自己負担分の負担であって、多くは(かつては今よりさらに分立していた)(公的)医療保険の保険者(支払い側)、自治体にかかるようになっていたし、今も大きくはそうなっている。そのような仕組みになっていることによって局所的に負担感が、というよりは現実の負担が大きくなることはある。とすれば変えるべき方向も見えてくるはずだ。
  最後に一つ加えておく。2004年に『ALS』(医学書院)という本を書いた時、人工呼吸器のことを、著者が人工透析について調べたのに比べればはるかにいいかげんにだが、すこし調べてみたことがあった。それで引用した一つ(p.187)。

  「一九五二年におけるコペンハーゲンにおけるポリオの[…]呼吸麻痺に対する治療としては気管切開をした後、気管カニューレを介して手でバッグをおして人工呼吸を行ったのであるが、バッグをおす人があまりにも多く必要だったので、デンマークの医科大学の殆んどの学生を必要とする程であった。/このためポリオによる死亡率は八〇%から二五%までに低下したが、これが契機となってヨーロッパ各地では人に代る人工呼吸器の開発に迫られたのである。/かくして[…]」(山村秀夫「人工呼吸器の歴史」、天羽敬祐編『機械的人工呼吸』、真興交易医書出版部、1991、p.7)

  そこでは何の解説もせず引用だけしたのだが、私はこれを読んでいささか感動してそれで引用したのだ。つまり――むろん腎臓の機能の代替についてはこの手は使えないのではあるが、呼吸については――「人力」でもなんとかなった、なんとかした時期があったということである。なんとかなった。機械を使えばもっとずっと楽だ。なのに、どうのこうの言っている。それはいったいなんなのだ。そんなことを私たちは思うことになる。思うことができる。そのための十分な材料を私たちは本書から得ることができる。

 ――ここまで――

  3回にわけて『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』の「序文」として書かせてもらった文章はこれで終わり。筆者は控えめな人なので、以前に何か書いてほしいという依頼があってたぶん安請け合いしてそのまま忘れていたのだが、催促をいただくことなく、いよいよ本が出るというわりとぎりぎりの時に、「リマインダー」をもらって、急いで書いたもの。加えるとよいことはいろいろとあるのだろうが、そのまえにまずは本を読んでもらえばよいので、いったん、ここまで。
  ツィッターでおもにHPの更新に合わせていろいろと告知・宣伝をしていて、いくつか本書関連のもあって、&生活書院(高橋淳さん)のツィッターもリツィートしている。それはそれで見ていただければ(→http://twitter.com/#!/ShinyaTateiwa、なのだが、これを書いている本日(12月14日)分で、透析のことではないが、関係あって書いたもの。同じ「テーマ」で2通続けて書くことは少ないのだが、2通目は、あきれたので連投ということになった。(ツィッターの日付、だいたい1日ずれているようです。以下は正しい。)

◇2013/12/14
「胃ろう(胃瘻)」頁、情報わずかですが作成→http://www.arsvi.com/d/peg.htm 12/11報道「「胃ろう」抑制実現に診療報酬増」/早川幸子 20130704 「尊厳死、自然死ブームの裏側にあるもの――胃ろうは本当にムダな医療なのか?」にリンク、他。

◇2013/12/14
胃ろう(胃瘻):09/16(医療経済研究機構の調査結果の朝日新聞)報道発見:「本来、回復する見込みのある人への一時的な栄養補給手段だが」http://www.arsvi.com/d/peg.htm。→何故「本来…」と言う(言える)か。「眼鏡は本来、回復する見込みのある人への…」??

  その記事は以下のような始まりになっている。

◇2013/0916 「胃ろうの6割、回復見込みないまま装着 漫然とした実態」
  http://www.asahi.com/national/update/0912/TKY201309120238.htm
  朝日新聞DIGITAL 2013年9月16日9時10分

  「【辻外記子】口から食べられなくなったお年寄りらの胃に直接栄養を送る胃ろう。本来、回復する見込みのある人への一時的な栄養補給手段だが、実際には約6割で回復の可能性がない人につけられていることが、医療経済研究機構の調査でわかった。
  厚生労働省の補助金を受けて、昨年12月〜今年1月、全国約800の病院、約1360の介護施設から回答を得て分析した。胃ろうにした1467人の患者情報が集まった。約2千人の家族
 →会員登録のご案内:記事全文をご覧いただくには、朝日新聞デジタルへのログインが必要です。会員の方は下記のボタンからログインページへお進みください。会員登録がまだお済みでない方は、登録申し込みページにてお手続きください。」

  人工透析のことを(ことも)、「本来、回復する見込みのある人への一時的な…手段」とし、にもわかからず使われている「漫然とした実態」と言うか。言えないに決まっていると思う。胃ろうも同じことだと思う。しかしそのようなことが言われている。


 
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■生活書院の本×3

◆有吉玲子 201311 『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』,生活書院,336p. ISBN-10: 4865000178 ISBN-13: 978-4865000177 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也・有馬 斉 20121031 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 [amazon][kinokuniya] ※ et. et-2012.
◆児玉 真美 20110922 『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』,生活書院,264p. ISBN-10: 4903690814 ISBN-13: 978-4903690810 2300+ [amazon][kinokuniya] ※ be. eg.

『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』表紙    『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』表紙    『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』表紙