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【Web連載】


『家族性分業論前哨』広告・5+『差異と平等』少し
連載:予告&補遺・29

立岩 真也  (2013/12/23)
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  有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』(20131114,生活書院,336p. 3200+)他の紹介・宣伝はまだ続けるつもりだが、一回休み。
 今に到るまで起こったこと/起こっていることについて、(研究者は研究者としての)仕事を、まず、研究たるその最低限に達しないとしても、まずは、とにかくしましょうよ、でないとみんな死んでしまうよ、という話をしだして、もうずいぶん経ってしまっている。
  そのかん、仕方がないから、自分で中途半端な本を出すということもしてきた。『ALS――不動の身体と息する機械』(2004、医学書院)がそうだし、今度出してもらった『造反有理――精神医療現代史へ』(2013、青土社)もそうだ。そして『唯の生』(2009、筑摩書房)の一部、第2章「近い過去と現在」、第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」、第4章「現在」もそうだ。(この本、今みたら、アマゾン的には版元品切れになっているみたいだ。珍しく手元にも1冊しかない。どうしたものか、すこし考えてみる。)さらに、2つのインタビュー+稲場さんの文章+註の『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』(生活書院、2008)もそうだ。こういうことについてはこちらのHPの「歴史」というところから、関係する雑文やら、(落ちた)研究助成申請書類やら読むことができる。これまでに出版された本の頁へのリンクもある。

* * *

  今回はいったん途切れたものの続きを。
  『現代思想』39-17(2011-12臨時増刊)が、「臨時増刊号 総特集:上野千鶴子」だった。そこに掲載された「わからなかったこと、なされていないと思うこと」という文章からの引用を、同時期に出た『家族性分業論前哨』の広告として連ねてきた理由については第17回をご覧ください。
  以下、第17回、第18回第19回第20回の引用の続き。以下。『現代思想』、たぶん、まだ売っているので、全体を見たい人はどうぞ。

――以下――

残されることの例2・どれだけをという問題
  この――支払うという形をとるとして――そのお金のこと、誰からどのように集めて、どれだけを供給し(どれだけについて有償のものとし)、どれだけを払うかという問題は、やはりとても大切な問題だ。
  どれだけを供給するのか。その「基準」をどう考えるのか。「介護認定」をもっと実態に即したものにするべきであるとされ、「医学モデルから生活モデルへ」だとか、「社会モデル」へだとかといったこともたしかに言われはした。そうした方がよいことを認めてよい。ただ、いずれにしても、結局は査定がなされることになる。それがよいのかである。
  少なくとも介助について、私たちが言ってきたのは――多分、運動体の機関誌だとか集会だとかで口にされるのを別にすれば、それを公言してきたのは中西と私ぐらいで、私は中西が言っていることでおもしろいと思うのは、他より、そのことだなのだが――出来高払い、あるいは欲しいだけではだめか、ということだ☆08。いつもその方法がとれるわけではない。例えば所得保障については、人が金はあるにこしたことはないと思うなら、それは、無理か、無理に近い。しかし、「ケア」の場合、人がそれをあればあるほどよいとは思っていないのなら、むしろ人がいる必要のない時にはいない方がよいと思っているなら――すくなくとも中西自身はそういう人だ――、本人の希望通りにしても、また実績通りにしても、さほどの問題は起こらないはずだ。実際、医療については、まがりなりにもそうして――出来高払いで――やってこれた。できないと決まってはいない。
  むしろここで問題なのは、懸念されるのは、「過剰医療」について起こったのと同じこと、つまり供給側の利益のために、過剰な供給が――たんに多すぎるというだけならさほど問題にすることはないのだが、無益で有害で大量な供給がなされることである。そしてそれは、一つには供給側の力が強い場合に――老人病院(cf.立岩[2009])や精神病院(cf.本誌連載の前回=十一月号掲載分、等)で起こったのはそういう事情による――、一つには利用者と供給者が近く――例えば「自立生活センター」は理念としてそうあるべきことを主張してきた――供給側の利害を利用者が理解あるいは共有しているといった場合である。ではどうしたものか。こうした問いが続く。
  供給側、あるいはそこに雇用される人たちの力は、ある部分で弱くされたとも言える。ただ、一つには資格が作られ、あるいは既にある資格があり、そのことに関わる仕事の囲い込みとそれへの抵抗があってきた。このことについて基本的に言うべきことははっきりしている。消費者保護のために仕方なく必要である場合以外は資格は不要である(立岩[1999])。しかし、あるいはそして、それは自らの領分を確保したり拡大したりするために――その人たちを養成する教育や(再教育や)それを行う教育者や教育機関その他もろもろ皆含めて――使用されもする。そして「(仕方なく)必要である」か否かは、実際のところをよく知らないとわからないし――というほどでもなく、いくらか知ればそうそう手間のかかる特別の人しかできないことでないことがわかるのだが、それは知られるごとなく、そして――「専門家」は――(医療)社会学者のようなひねくれた人たちを除けば――たいがいよいものであると思われているから、そちらの言うことを聞いてしまう。そういった中で、もともとそうない全体の仕事やお金の取り分が左右され、今まで仕事ができていて人たちができなくなり、利用する側は利用できにくくなったりもしていり、他方ではあってもありがたくないものができて、増殖していったりもする。そこにどんな力が作用しているのか、それらをどう評価するのか、そうしたことが――べつだん社会学(者)によってである必要もないが、すくなくともそう名乗る人たちによっても――調べられ、考えられるべきこととしてある。
  そうした問題がうまく解消できれば、解消しつくすことなどできないだろうがそこそこに軽減できるなら、査定は不要、本人が決めるということで基本よしということにはなる。ただ、仮想の上のことであるとしても、より多くをと言う人はいるかもしれず、どれだけが正当化される供給量なのかという問いを立てることはできる。これもまた、政治哲学系ではいくらかの議論があるが、私が思うにそこに示される種々の答は満足できるものではなく――例えばベーシックインカムの主要な論者の一人であるヴァン・パレースがもってくる「非優越的多様性」という基準・方法が受け入れ難いものであることは、立岩[2010b]の第6章「差異とのつきあい方」でも述べた。そしてこの国でもまともに考えられたことがあると思えない。それで、本誌「連載」の第五三回「差異とのつきあい方・2」(二〇一〇年四月号掲載)で私の案をざっと示した。それはごく簡単なものなのだが、さらに簡単に言うと、まず同じ額が各人に給付され、その使途は各人の自由とされ、次に、その使用に際し各人の身体(と社会とのあり様)に関わって必要となる追加費用については全部が社会的に給付されるという案だ。私としては、だいたいそれでよいのではないかと思っていて、そしてその(ごく単純な)ことがどこかに明示的に書かれたのを見たことはない。だから書き足すなりしてまとめようと思う。そして、堀田義太郎がこの主題についてなされてきた議論についてよく知っているのでそれを紹介してもらおうと思う。そしてそのさきに、というか手前に、世話する仕事を巡って、有償/無償を巡る議論があった。あるいはまだある。堀田は、今どきにあえて無償を主張する。それは――どれだけおもしろいかわからないのだが――争点にはなる。それで共著の本(立岩・堀田[2012])を出してもらうつもりだ。
  こうして、ケア倫理(学)やらケアの社会学やらずいぶんのことが書かれ、言われているにもかかわらず、そして『ケアの社会学』も出されたにもかかわらず――ちなみに副題は異なるが同名の本として三井[2004]があり、それがどのように以上に示した問いに答えていないかについてはその(すこし分量のある)書評(立岩[205])に記した――、実際には、考えて答えを出さねばならないところが、そのままに残っている。」

「☆08 調べてみると、中西たちの議論や草稿を受けて、私が取りまとめのような役を引き受けさせられ自身でもかなり文章を書いた『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』(ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会[1994]、紙媒体の報告書はたぶんなくなっているが、データは残っている→今でもおおむね言っていることはもっともなことだと思うし、歴史的な意義もあると考えるので、電子(書籍)版で購入できるようにしようと思う)や立岩[1995]ではここまでの主張はなされていない。はっきり述べている文章としては二〇〇〇年の本誌での連載「遠離・遭遇――介助について」(全四回)――立岩[2000]に収録された――が最初のようだ。」

□文献
ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』、ヒューマンケア協会
安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』、藤原書店
三井さよ 2004 『ケアの社会学――臨床現場との対話』、勁草書房
進藤雄三・黒田浩一郎 編 1999 『医療社会学を学ぶ人のために』、世界思想社
立岩真也 1995 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」、安積他[1995:227-265]
―――― 1999 「資格職と専門性」、進藤・黒田編[1999:139-156]
―――― 2005 「書評:三井さよ『ケアの社会学――臨床現場との対話』」、『季刊社会保障研究』41-1:64-67
―――― 2009 『唯の生』、筑摩書房
―――― 2010b 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」、『社会政策研究』10:166-186
立岩真也・堀田義太郎 2012 『ケア労働――論点・展望』(仮題・近刊)、青土社

――ここまでで終わり――

  ここでは文献に関わる追記だけ。「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」(立岩[1995])は、2012年で生活書院から文庫版で出してもらった第3版(新しい章が2つ加わっている)でもそのまま。昨年と今年、JICA(国際協力機構)、日本リハビリテーション協会からの依頼で、アジア・中近東・環太平洋といった地域の国々の(若い)障害者に日本で研修してもらうプログラムの一回として、3度ほど話をすることがあった。そこで使ってほしいものとしてこの章の頭の部分を指定され、英訳してもらった。近くHPに掲載する予定。当たり前といえばしごく当たり前のことが書いてあるのだが、この章のもとになった章を書いた1990年頃には(その後も)「公私問題」というのが混乱して使われていた(きた)ように思う。この「問題」について具体的で明確なことを言っている。そして、書いたことのごく基本的な線は、今度出た深田耕一郎の『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』に描かれる新田勲たちの路線と変わらないはずでもある。とういうか、この章を含む『生の技法』に書かれていることは新田たちが始めた運動が起点・起点になって書かれている。そのうえで、どこのへんに 「分岐」があるのか、このことについてはまた別に書ければと思う。
  また、「障害者運動・対・介護保険――2000〜2003」は、2004年に出るはずの本に収録されるはずで書いたのだが、本は出ず、それきりになっていたのを、『社会政策研究』の第10号(最終号)に原稿を依頼されたおり、そのまま、掲載した後、それにかなり加筆して『生の技法 第3版』に新たに加えた第10章・第11章の第11章「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」になった。
  次に、『ケア労働――論点・展望』という仮題で記した本は、 2012年に『差異と平等――障害とケア/有償と無償』という題で出版された。この本は第1部「差異と平等――「どれだけを」への答、そして支払う・支払わないを巡って」、第2部「近い過去を忘れないことにし、今さらのながらのことを復唱する」。
  第1部の第1章「差異とのつきあい方」は私が書いた。「ケア」を「どれだけ」得られる(べきな)のかという問題について、その問題の全体に対する答ではないが、これまで明示的に言われてこなかったことを記した。
  そして私と堀田が「有償/無償」について書いている。第2章「無償/有償」(立岩)、第3章「ケアと市場」(堀田)、第4章「ケアの有償化論と格差・排除――分配バラダイム・制度主義の意義と限界」(堀田)。私が有償派、堀田が無償派ということで、それぞれ書いている。そうして一致点が見出された、わけではない。だが、かなり絞れるところまで絞れた議論にはなっていると思う。
  こういう話を詰めないことには、「不払い労働」で「搾取」されているとか、されていないとか、(きちんと)言えないことはわかると思う。そんな議論が(議論も)、すくなくとも十分には、なされていない。そして『家族性分業論前哨』で考えたこと、それらを合わせ、そしてその先を考えなければならないのだと思う。だが、私がその本に収録した文章のかなりの部分を書いていた1990年代の前半からずいぶん経ったのに、ずいぶん経ったその間、そういう議論が、まったく不思議なことだと私は思うのだが、(十分には)なされていない。それで本を出してもらった。第2章はたしかに長い(長すぎるかもしれない)。ただ、繰り返しになるが、もとは2003年の『思想』に掲載された「家族・性・資本――素描」(これは本の第1章になった)を読んでもらえればだいたい言いたい(言うべきだと私が思う)ことはわかってもらえると思う(し、そんなに長くない)。以上、だいぶ間をあけた後の、再度の宣伝でした。

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■生活書院の本×3

◆立岩真也・村上潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 2012/12/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 1200+ [amazon][kinokuniya]
◆深田 耕一郎 20131013 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院,674p. ISBN-10: 486500016X ISBN-13: 978-4865000160 \2800+税 [amazon]/[kinokuniya] ※

『家族性分業論前哨』表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙    『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』表紙