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【Web連載】


立岩真也「学者たちが、ではなかったこと:『流儀』・02」 連載:予告&補遺・32

立岩 真也  (2014/01/27)
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  2008年に出してもらった『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』稲場雅紀山田真・立岩真也)のまずは山田インタビューの部分(+註)の紹介+補足をしている。
  前回は山田インタビューの冒頭だった。今回はそれに続く4段落で、まだ私の「まえせつ」の部分。

  「それ〔「まずは非常にべたな意味で、「この間何があったのかしら」ということを記録にとどめておく仕事がやはり必要なのではないかということ」→第31回〕と同時に、そういう蓄積のされ方とか歴史の経過そのものが、やはり日本には日本独特の流れがあって、他方、例えば米国では、一九五〇年代に人体実験をめぐる事件が起こり、それが倫理委員会のようなものの成立を促し、そこの中でバイオエシックスというある種の学問が成立し、教科書ができ、研究所ができ、辞典ができたりするという、オーソドックスな学問的な制度化・体系化が起こり、現在に至っています★04
  それは学問の世界の内部にありますから、例えば日本の学者、あるいは学者志望の院生たちが過去を紐解くとき、そしてその次を展望していくときに、持って来やすいのはむしろそちら側であったりする。するとその医療や医療の倫理をめぐる議論、社会的な動向について何をわれわれが語るかというと、そちらの方を語るというような状況になっています。
  もちろんそれはそれで非常に大切なことであり、必要なことであるのだけれども、ではこちら側の社会において、そういったことに対応することはなかったのかというとそうではない。ただその形がずいぶんと違う。
  昨日【二〇〇七年十二月二二日】、「山田真に聞く」なる資料を作りまして、そこに、「障害の位置――その歴史のために」という文章――書かなくてはいけなくて今年(二〇〇七年)書いたのですが――そこからの引用を少し載せました★05。とくに内容があるわけではなくて、名前が列挙されているだけだけれども、様々を問題にしたその人たちは、アカデミシャンとして、自分の専門領域、例えば倫理学なら倫理学の専門家が専門的な主題として、学問的な場所において、本業としてそういう問題を語ってきたわけではない。山田さんにしても、あるいはもっと先輩にあたる毛利子来さん★06にしても、町医者として、在野、市井からものを言ってきた人たちであるわけです。

★04 それをどのように捉えるのか、使うかについては立岩[1997:10-11,21]等。【『私的所有論』は第2版・文庫版になった→立岩[2013]。以下は初版から変更されていない。(第2版では、註の加筆箇所を明示した加筆を行ない、また二つの補章を新たに加えた。)
  「〔「わが国」での言説が啓蒙であるかでなければ困難の指摘で終わってしまう〕この点では、むしろ、(特に英語圏の)「生命倫理学bioehics」の過激さを歓迎すべきだ。ただそれは、そこに言われていることが何か正しいことだと思うからではないし、主張される原理・結論をそのまま受け入れようということでもない。実際、日本の論者の多くがそれをそのまま受け入れられないのは、確かにある種の慎重さ、思慮深さがあるからである。だからこそ元気に走りきってしまえないのであり、だから、私は、英米の生命倫理学の論者の方が何か優れているなどとは全く思わない。単純で強引なことを言い切った方が目立つというだけのことだと言ってもよい。ただ、私がそれを使うのは、むしろそこに言われていないもっと微妙な感覚を明らかにするための思考実験の材料としてである。しかもその過激さは――それが適切なものである場合――私達が確かにもっているものを拡大して見せてくれる。その主張は私達が思っていることとまったく無縁なものではなく、私達が生きている現実の少なくとも相当の部分を占めているものでもある。明晰な論理は私達にあるものを裸形で見せてくれる。この両方の意味で、私は、いくつかの場面で論者の立論を検討することがある。」(立岩[1997:111→2013:39])】
  米国における生命倫理学の登場とその意味について、立岩[2009]で何冊か本をあげて、述べている。【←『流儀』で立岩[2009]としたものは立岩・有馬[2012]『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』として出版された。当時(今もだが)所謂尊厳死法案が上程されるかもという状勢でもあり、また私が名前だけの大会長ということであった日本生命倫理学会の大会があったこともあって、安楽死尊厳死の主題に限り、分量を削って定価を押さえた本にした。結果、『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』(Rothman[1991=2000]、『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』(香川知晶[2000]を紹介した文章は省いた。ただ、「カレン事件」を巡る裁判・議論を追った『死ぬ権利――カレン・クインラン事件と生命倫理の転回』(中川[2006]のかなり長い紹介は収録されている。)】
★05 立岩[2007]「障害の位置――その歴史のために」より。
  「その人たちや組織・運動に関わって研究者、というより、その他の人たちがいた。とくに学会といった組織にかかわらないところで、様々なきっかけから、実際に関わりながら、ものを書いてきた人たちがいる。知った上で言うのではないが、こうした人々も他の国々よりむしろ多いのかもしれない。
  関わった人は、研究者という肩書きであっても、なにか文章を書くことが、さらに研究をすることを主な仕事と考えていたわけでもなかった。小学校の教諭、会社員、労働組合の職員、地方公共団体職員、著作業、その他の人たちがいて、大学の教員はその一部だった。そしてその人たちにしても、大学にそうした「研究」の足場をもっているわけでもなかった。大学の教員をしていてものも書いた人たちとしては、山下恒男石毛えい子篠原睦治といった人たちがいた。最首悟も長く大学に居座ってはいた。医師では山田真石川憲彦がいたし、毛利子来も関わることがあった。特殊学級の教諭を長く勤めてきた北村小夜がいた。古川清治は出版社に勤務していた、など。
  それと違う集まり・動きも以前からあった。社会福祉の従事者や特殊教育領域の教員と、大学等でその養成にもたずさわっている人たちのつながりである。日本共産党といった政党のつながりで、学者たちと、障害をもつ本人たち、というよりは学校の教員や福祉施設の職員などとの関係はあり、そうした人たちの全国規模の組織として「全国障害者問題研究会(全障研)」があった。ただその集団とここに記している人たちは仲がわるかった。むしろその集団とその思想を批判することにずいぶんな労力が割かれたことがあった。それは「左翼」内部の対立を引き継ぐものでもあった。大学における学生運動に政党と政党嫌いとが関係していた時期、養護学校・学級でなく普通学校・学級に一人の子が行こうとするその運動を支援する運動が、大学の自治会の運動の大きな課題とされたりしたことはこうした事情にも関係している。一方の主張は、「全面発達」を言い、伸ばせるものは伸ばそう、そのためにはそれに適した教育環境があってよいとして特殊教育を肯定するのだが、他方は、それを隔離であるとし、できようとできまいとみながいっしょにいる場がよいのだ、その場が必要なのだと言うのである。その争いは消耗な争いでもあったのだが、同時に、主張・思想を――そのよしあしはさしあたり別として――「純化」していくことを促すものでもあった。後者の側は、「できなくてよい」と言い切ろうとするのである(その論点の一部について考えたものとして立岩[2001b][2002])。
  これらの人たちの中に学問として哲学・倫理学を専攻する人はあまり見当たらない。さらに、なにかの領域の学問の専門家として語るというのでもない。考えることも大切だと思った人もいるし、思いながらも、その人たちのある部分は支援者というより運動の前面にいなければならない人たちでもあったから、次から次に起こるできごとに対応するだけで時が経っていくという人もいる。ただ、このことは、そこで主張されたり疑問に付されたことが「学問」的な検討・考察の対象にならないということを意味しない。」(立岩[2007a:120-122])
  山田は「障害児を普通学校へ全国連絡会」に、その発足から関わっていて、現在も世話人を務めている。その活動に関わる本、冊子もたくさんある。いま役に立つ冊子はHPなどから注文すれば入手できる。また雑誌では『季刊福祉労働』が必ず毎年一号、学校・教育に関する特集を組んできた。これらをまとめて、その活動を記録しておくとよいのだが、やはり、なされていない。【『障害児教育のパラダイム転換――統合教育への理論研究』堀正嗣[1994]等の重要な著作はあるものの、主には一九七〇年代からの各地での具体的な就学運動について、ほとんど研究はなされていない。とりあえずこちらでは、全国連絡会の創刊号からの機関紙のコピーを入手し、ファイリングするところまではしている。】
  どうして「学問」にならなかったのか。いろいろな答があるが、一つの答えは――このインタビューが示すことでもあるのだが――問題が「体制」の問題として捉えられたことである。そしてそれは、基本的には、よいことであると私(立岩)は考えている。
  【「体制」の問題、という捉え方についてはこの本の後半。二つの「派」の対立については『そよ風のように街に出よう』での連載立岩[2007-]で行きつ戻りつしながらいくらか記している。また『現代思想』での 連載の一部「社会派の行き先」のうち立岩[2013]『造反有理――精神医療現代史へ』に収録されなかった部分で述べている。
  前出の『私的所有論』も、かなりの部分、学者でない人たちが考えてきたことが下地にある。そのことは記してあるのだが、多くの人は気がつかないようだった。そこで生活書院での連載の第21回第22回第23回第24回第25回でいくらか紹介してもみたのだった。またその本の第2版の補章でもこのことについての註を置いた。
  「☆01 時代の雰囲気とは別に、しかし必然性をもって、ものを書いた人の書いたものが、その人たちは「学者」でないことが多いのだが、あったにはあった。よく知らないからでもあるのだが、本書では控えめに、注などで、幾人か・いくつかについて記した。新たに加えた文では、補章1の注4(797頁)で田中美津、注6(798頁)で吉田おさみ、注9(802頁)で吉本隆明最首悟、注16で森崎和江(809頁)、ほかに本補章で、稲場雅樹山田真米津知子、また初版では、第5章の注1(347頁)、注12(359頁)、注22(364頁)、第6章の注1(418頁)、注43(450頁)、第7章の注23(534頁)、第8章の扉(538頁)、注1(608頁)、注3(611頁)、第9章の扉(620頁)、注2(709頁)、注9(715頁)、注20(724頁)、注21(724頁)、注27(726頁)等で、石川憲彦石牟礼道子奥山幸博小沢牧子北村小夜最首悟篠原睦治堤愛子野辺明子福本英子古川清治宮昭夫村瀬学横田弘毛利子来横塚晃一山下恒男山田真米津知子渡辺淳の文章・文献にわずかに、ほとんどの場合本当にわずかに、ふれた。」(立岩[2013:843-844])】
★06 毛利子来(もうり・たねき) 一九二九年生まれ、小児科医。【岡山医科大学(現・岡山大学医学部)卒】。東京・原宿で開業――このことを山田に聞くと、かつて原宿の毛利の医院のあった辺りは今のようでなく、開業したころはスラムのようなところであったのだという。HP『たぬき先生のお部屋』http://www.tanuki.gr.jp/。「学術的」な、そして毛利の最初の著作に『現代日本小児保健史』(毛利[1972])があって、山田によると、毛利の著作で最もきちんとした本だという。アマゾンのマーケットプレース(中古品市場)を見ると、四万円を超える値がついている――その後、学者たちが書いた研究書があまりないということでもある【その後いくらか安くなって、購入して、私たちの書庫に収蔵してある。】すぐれた育児本として毛利[1987]『ひとりひとりのお産と育児の本、新版が毛利[1990]、三訂版[1997]。毎日出版文化賞を受賞している。現在は品切れ、再販未定ということになっている。その事情はよくわからない。『育育児典』がその後継ということなのかもしれない。共著書に毛利子来・山田真・野辺明子編[1995]『障害をもつ子のいる暮らし』等。その他、著書非常に多数。毛利もまた(そして後で出てくる石川憲彦もまた)「障害児を普通学校へ全国連絡会」の活動に関わってきた。例えば『季刊福祉労働』掲載の二五年前の文章に[1983]「情報と運動を交流し、支え合うために――「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の歩み」。このような文章がウェブで読めたらよいと思う。協力者を常時募集している。


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■生活書院の本×3

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 20081130 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya]
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 [amazon][kinokuniya]
◆新山 智基 20111201 『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』,生活書院,216p. ISBN-10:4903690857 ISBN-13:978-4903690858 3150 [amazon][kinokuniya] ※

『流儀』表紙    『私的所有論  第2版』表紙    『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』表紙