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【Web連載】
『生死の語り行い・1』がまた入り用になってしまっている・1
連載:予告&補遺
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立岩 真也
(2014/02/10)
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2008年に出してもらった
『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』
のことを、その本を買ってもらうために書いてきた。書いたというより、その一部を引用し、いくらかを加えて、次(の版?)に備えるというようなこともあって、引用+補記を
第31回
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第32回
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第33回
と、3回で行なってきた。だが、まだ山田インタビューの(私による)「まえせつ」が続いているという遅々たる進行具合だ。いったん中断する。(その間に、もう残り少なくなった、『流儀』第1版第1刷、買って読んでおいてください。)
これからしばらく、また出てきた「尊厳死」の法制化の動きについて。ここのところの動きについてはこちらのサイト内
「安楽死・尊厳死:2014」
である程度のことを追っているので、まずそちらをどうぞ。(とくにこのところの諸外国の一部での動きには激しいものがある。それは私の方ではまったく追えておらず、生活書院刊の本では
『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』
、
『海のいる風景――重症心身障害のある子どもの親であるということ 新版』
、この主題についての大月書店刊の本では
『死の自己決定権のゆくえ――尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』
の著者
児玉真美
さんのブログ記事をリンクさせていただいている。)
ここでは、小さい?ところから。
日本尊厳死協会
が朝日新聞社に抗議、というほどでもない、小言というのでもない「要請文」を2月14日に出していて、協会のサイトに、「困ります。尊厳死も、安楽死もごっちゃでは」(コラム・ひとりごと)という短文といっしょに掲載されている。2月12日付の記事で尊厳死と安楽死をごっちゃにして書いてあって、それはよろしくないというのである。(その要請文・コラム全文は→
「安楽死・尊厳死:2014」
。)
まず、その指摘ははずれているというわけではない。どう言ったらよいのか、単純に勉強不足とも言える記事をこのごろいくつか見かける――例えば「病棟転換型居住系施設」についての朝日新聞社の「社説」および「社説余滴」→HP内
「病棟転換型居住系施設」
を参照のこと。
ただそれはそれとして、という「補足」を。2つあるが、今回は1つ。
日本尊厳死協会の前身は
日本安楽死協会
であり、その組織の創設者であったのは
太田典礼
(
『私的所有論 第2版』
,p.290――第2版ですこし補筆、
『唯の生』
,pp.83-87――今でも尊厳死協会が太田をたてまつっていることを紹介、他)であり、彼は安楽死を支持し、組織の改称にも不満だったが、それでは「聞こえ」がよくない、広範な支持を得られないということで、仕方なく受け入れた。そしてその後たしかに、尊厳死協会は安楽死でなく尊厳死が是認されるべきこと、法制化されるべきことを繰り返し述べている。ただ同時に、太田の没後も太田をその始祖としてその功績を讃え続けてもきた。これは単純な事実でしかなく、私も幾度も書いてきたけれど、事実なので、繰り返しておく。「停止」とか「不開始」についての本はここのところたくさん出ているようだが、それらにはこういう「基礎的」なことは書いていない。
有馬斉との共著書
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
の第W章「ブックガイド・医療と社会」で幾人かの人、その人たちの本を紹介したのはそんなこともあってのことだった。この章は2001年辺りに書いた文章に註を(箇所によっては大幅に)加筆したものだが、以下に引用するのは2001年に書いた文章のまま。
「この〔日本尊厳死〕協会の前身は「日本安楽死協会」であり、こちらは一九七〇年代に安楽死の合法化を主張した。この組織の中心にいたのは、後でもすこしふれるが、優生思想家であり優生保護法にも関わった太田典礼という人物だった。
それが尊厳死協会の今の活動に直線的につながると言いたいのではない。ただ協会が法律の制定を断念し組織名を変えた時、「誤解を招く」とか「日本社会では時期尚早」といった類いの説明はあったにせよ、過去をどのように捉えているのかは明確でない。ホームページ等を見ても、むしろ以前からの連続性は否定されていない。そんな歴史がある。
ところが、二つの協会編の本や関係する人の著作はかなりの点数出版されているのだが、それを取り上げ、記録し、論じたものはほとんどない。第一回で米国における生命倫理の歴史を追った本を取り上げた。かの国の歴史については本が複数出ているのに、日本で何があり、どんな議論があったかは、知られていないのである。自国のことだから知らなくてはならないということはない。しかしこの主題については、そう簡単に忘れてしまうわけにはいかないことがある。
こうした部分を含めて、ずっと、きちんとものを書いてきたただ一人の人が
清水昭美
である。」(
『生死の語り行い・1』
,p.190)
こうして清水昭美の紹介に移っていく。また次の次に紹介するのは、
斎藤義彦
の著書。その紹介と引用の部分から。
「例えば「日本尊厳死協会」で一九九三年から「痴呆症の尊厳死」を協会のリビング・ウィルの条項に加えようという議論が始まった。それが報道され、九六年には「呆け老人をかかえる家族の会」から申し入れもあり、結局「時期尚早」としたものの、協会とその役員はあくまで自分たちの主張が正しいとした。筆者はこの経緯を簡単にではあるが辿り、その上で、協会の主張が延命措置停止についての判例の規準からも、協会の尊厳死の定義からも逸脱していることを記している(第7章)。
「成田理事長は、同年九月、「家族の会」に申し入れの回答を送った。回答は議論の打ち切りを知らせてはいたが、「痴呆症の尊厳死」への強いこだわりを示していた。「議論の中心は、助かる見込みのない重度老年期痴呆に限られており、しかもその人の人生最後の、唯一の願(事前の自己決定)を容れて、延命措置だけをやめるなら、法的にも人道的にも、それがむしろ当然の措置でなんら問題はないはず。どうしてこれが世間の一部の人が言うように、弱者の切り捨てになるのか、どうして福祉の充実に逆行するというのか全く理解しがたく、誤解も甚だしいと評する外ない」。「家族の会」との認識のズレは一向に埋まっていないことを示す内容だった。」(〔
『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』
〕p.150)」(
『生死の語り行い・1』
,pp.199-200)
私自身幾度か、尊厳死協会の元理事長(
井形昭弘
氏、ちなみに現在の理事長は元厚労省医政局長・岩尾總一郎氏)他と幾度かと話す機会、というか同じ場で話をしたり、うかがったりといったことがあった。それで、たしかに安楽死でなくて尊厳死という標語において現在では一致しているものの、その内実については各人各様であったり、時によって言うことが違うといったことがままあった。『生死の語り行い・1』では、第T章「短文・他」に再録された「私には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」はわからない」(2012/08)にそのことを記した。
「[…]長く[…]法律の制定を主張し活動してきた日本尊厳死協会の(いまは前)理事長という方と、2人の副理事長という方と直接に話をさせていただく機会がこの数年の間にあった。いずれも率直なところ――しかし様々に私にはよくわからないところが残ったこと――を語ってくださった。最近では、7月3日に
東京弁護士主催のシンポジウム
で副理事長の長尾和宏氏(医師)のお話をうかがったが、氏は「死期が間近」な「終末期」がどのぐらいの状態・時期のことを指すのか、決めることはできない、わからないととおっしゃった。それは正直な発言ではあるが、たいへん困る。「末期」と言われて今も生きている、あるいは長く生きた人をたくさん知っているが、そういう「誤診」の可能性のこと(だけ)を言いたいのではない。そもそも「わからない」のである。そして他方、繰り返すが、私のように(たぶん)普通な言葉の受け取り方をする人にとっての「間近」なのであれば、あらためて新しいきまりを作ることもない。
かつて、やはり尊厳死協会の人々は――これも人によって言うことが違うので困ってしまうのだが――「認知症」「植物状態」「(神経性)難病」等様々な状態について「尊厳死」の妥当性を言い、認知症を対象とすると言った時には認知症の人たちの家族の会から抗議を受けた(それでいったん引っ込めた)ということがあった。これらの人々が「間近」であることはない。そうして「間近」でない人を抜いていくと、さきほど私が述べた「正しい」意味での「間近」な人だけが残り、そこに新しいきまりは不要である。とすれば、この法律がなにか実際的な効果をもたらすのは、文案に書いてあるのと違い、「末期」でない人に対してなされる場合だということになる。これは、もう説明の用はないと思うが、よくない。」(
『生死の語り行い・1』
,pp.18-19)
たぶん、それ(曖昧さ、二枚舌的に思えてしまうこと…)は戦略的なものではないのだろうと思う。簡単明瞭な主張が組織としてなされいるようで、つめていくと実は曖昧であったりすることがままある。その幅の中で、もともと「上」の立場にいて、ゆえに言いたいことを言うことを周囲から止められることの少なかった人――それは10万人を超えるたぶん生真面目な「一般会員」とはすこしく異なるところのある人である――が役職に就いて、そのときどきに思うことを言う(ことを許容されている)という具合になっているのだろうと思う。
こうしてこの組織は、その「裾野」には、とにかく「リビング・ウィル」の書類を作っておこうという、親の世代を看取った女性層他の広範な人々がいつつ、医師や弁護士や判事といった比較的に年のいった男性たちによって始められたという安楽死協会以来の体質をどこかに残し、表に出てくるのは、じつは曖昧なところをもとに残していながら単純な主張でありながら、その曖昧さの上に乗っているから、ここまでは本当は言いたいといったことをときに言ってしまいながら、公式には「尊厳死」(だけ)をとずっと言ったきたのだと言い続ける人たちの言葉ということになる。
2つめ、次に「論理」の問題として。安楽死と尊厳死と(有意味な意味で)分けられるものなのかという議論は古くからある。どこがどのように、(正負の)価値として異なるのか。私の知る限りそのことについて推進側からきちんとした説明がなされたことはないのだが、ここは大切なところである。そしてその論点についてはこの本の第V章、
有馬斉
による「功利主義による安楽死正当化論」で論じられている。次回その部分を紹介し、できればすこし議論を前に進めてみたい。
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■生活書院の本×3
◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 2000+
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◆児玉 真美 2012/09/20
『海のいる風景――重症心身障害のある子どもの親であるということ 新版』
,生活書院,278p. ISBN-10: 4903690970 ISBN-13: 978-4903690971 1600+
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※
◆児玉 真美 2011/09/22
『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』
,生活書院,264p. ISBN-10: 4903690814 ISBN-13: 978-4903690810 2300+
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