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【Web連載】


その時まで待て、と尊厳死法に言う+ 連載:予告&補遺・35

立岩 真也  (2014/03/03)
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  また「尊厳死」の法制化の動きが出てきている。議員立法ということで、委員会も通さず、実質的な審議もせず、さっと通してしまおうということになっているという話もあって、ことは「理屈」の問題ではない、ということであるようだ。(「時事」的なことはについては→「安楽死・尊厳死:2014」。「海外情報」に関しては全面的に 児玉真美さん発の情報に依存していることは前回も記した。)
  とはいえ。ということで、この期に及んで言えることは、一つだと思う。
  福祉・医療が保障されない社会では人は(死にたくいないのに)死にたいと言わざるをえないし、実際死んでいる。それは、まったく明白な事実である。
  議員のみなさん、尊厳死協会のみなさんも経済的状況が生死を左右してならないとお考えであり、そのことを明言されている。
  ならば、保障されることが「さき」である。それまで法を制定するべきではない。おわり。
  最も議員のたくさんいる政党について、上のようにお考えの人がどれだけいるか、正確なことは知らない。それでもそれなりにはいるのだと思う。そして公明党は、そういう政党であると自らを規定してきた政党であると思う。
  次に現在野党である政党たちについて。これは議員個々人の「死生観」の問題であるから、党議拘束を外して投票、という話がなされていて、「尊厳死法制化を考える議員連盟」は超党派の集まりである。会長は民主党の国会議員である。しかし、上のように考えるなら、これはまったく政治路線の問題であり、政治的争点であるほかない。そういう問題であることをわかってもらう。となれば、個人の信条の問題なので与野党問わずといった話にはならないはずで、という具合に、本来は、もっていかれるべきことなのだ。この主題を、いま、種々の――といってもそう数はないのだが――政治的対立、争いの中に引き入れること、そもそもそういう問題なのだがら、そのような「自覚」を促すこと、それが今すべき、できることなのだと私は思う。

  というわけで、他に言うこともない。それでも補足すれば、今述べた立場は、「死の決定権」を本人に委ねた上で、その「条件」を問題にするという構造の話になっている。その意味では、この社会では受け入れられやすい、穏当な筋の話である。だからこれで行こうと言っているのでもある。
  ただ、その「条件」というのものをどのように考えるかで議論は変わってくる。「資源」に限るのか、(普通は個々人のものとされる)「価値」のことも考えにいれるのか。私は後者の立場に立つのだが、むろんそれには異論もあるだろう。そんなことが、もし、気になる人は拙著『良い死』(2008)の第1章「私の死」。
  それから『良い死』の続篇というような位置づけの『唯の生』の第5章「死の決定について」は、もとは2000年に出た『所有のエチカ』(大庭健・鷲田清一編)に収録されもので、小松美彦の論を検討した文章。小松の論が基本的には、人は自分の死を決めてならないという――上述の立場とは異なるが、しかし十分にありうる――立場に立っていることは、それを読んでもらってもわかるだろう。

* * *

  とにかく今言うべきことは最初に述べたことにつきるわけで、あとはもうよい、とも思う。が、前回、日本尊厳死協会が自分たちは「安楽死」は否定していて「尊厳死」だけを認めるよう運動しているのだという話について、歴史的経緯としてそんなに単純でなかったこと、単純でなく来たことを記した。そして今回は、理屈としてもそう単純でないことはずだということを書くとした。ので、すこし。
  有馬斉との共著書『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』(2012)の「序」で私は有馬 斉が担当した第V章「功利主義による安楽死正当化論」について次のように記している。

  「そして、この章の後半で有馬が紹介していることで大切なのは、積極的安楽死と消極的安楽死、尊厳死、治療停止、不開始…等いろいろと区別されているものが区別しがたいという主張である。立岩はこの主張にほぼ同意する。(「自然」に委ねるのと「人工的」に行うことに違いがあるという言い方はあるだろうが、やはり本章で紹介される人たちが言うのと同様に、この区別の有効性は疑わしい。このことについては『唯の生』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」。)すると、このことは、いまこの国で盛んに言われていること、つまり、自分たちは「安楽死」を認めるわけではない、あくまで「尊厳死」――最近はこの言葉もあまり使われない傾向がある――を主張するのだという主張に危ういところがあることを示しているということである。だから、区別した上で一部を認めるべきだと主張する人たちは、この章に紹介する論に反論し論破せねばならないということである。」(『生死の語り行い・1』,pp.4-5頁)

  では有馬が紹介する論者たちはどのようなことを言っているのか。これはかなり長い。まずは有馬による紹介を読んでみてください。以前から言っていて、いまだ果たしていない、この章を私がどう読むかについてはさらに先のばしにする。
  ここでは、同じことはずいぶん前から言っている、言われているという話。やはり『唯の生』の第6章になっているのは「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」で、これは『現代思想』2004年11月号に掲載されたものの再録(〔 〕内が単行本収録にあたっての補記)。かなりの回数――ただ十分な時間をとれたということはせいぜい1度のことではあったが――この主題について話をしてきた人でもある清水哲郎の論について検討した文章から引用する。

  「本誌〔『現代思想』〕に二〇〇二年から二〇〇三年にかけて連載された文章([2002-2003])の中でALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちのことを書いた。その部分を大幅に書き足し、二倍ほどにして、今度本にした([2004])◇5。この病気では、筋肉が動かなくなっていき、自分で呼吸するのが難しくなっていく。生きていこうとすれば呼吸器を付ける必要があるのだが、そこで、人工呼吸器を付ける、いったん付けた呼吸器を外すという二つが区別される。そして、呼吸不全の状態になってもその人が呼吸器を付けないことを望めば、それは認められるとされる。実際そうして亡くなる人がたくさんいる。呼吸器を使えば一〇年、二〇年と生きられることもあるのだが、付けずに、そのずっと手前で死んでしまう人がたくさんいて、全体の六割とか七割になると言われる。他方、いったん付けた呼吸器を外すことは、「現在のわが国では、法律上、認められていない」などと言われる。そして実際行なわれていないことになっている。またこのことについて、死をもたらす積極的な処置をすることは許容されないが、自然の経過に委ねること、死ぬにまかせることは認められると言われることがある◇6。
  何かを行なわずに死に至ることと何かを行なって死に至らせることとは違うというこの話は、すこしわかる気がしつつも、それでも基本的にはおかしく、なにか詭弁のように思える。清水もこのことを考えるし、他にもこの区別に疑問をもつ人たちはいるから、清水はその人たちの議論を紹介する。延命治療や安楽死についてのP・シンガーの論も紹介し、積極的行為/消極的行為の区分が有効でないことを確認する。

   「積極的行為と消極的行為の間に線を引くことは成功しないという点で、私はシンガーに賛成する。つまり意図が同じであれば、行為者がその意図の下で行なうことを積極的行為として記述できるか、それとも消極的行為として記述できるかということは問題ではないからである。加えて、しばしば消極的行為に分類される治療停止などは、実施する側からいえば決して消極的なものなどではない。機具を外す、スイッチを切るといった一連の積極的所作なのである。」(清水[2000 : 93])

  この点はその通りだと思う〔そのことは第1章でも述べた〕。その説明はここでは省くし、省いてよいと思う。次に、シンガーその他が主張するのは、その人たちならいかにも言いそうなことだが、だから両方の死を認めるべきだということである◇7。治療の停止は認められるだろう。それが認められるのと同じに、また――この国でまた他の国で実際にそうであるように――呼吸器を付けないことが認められるのと同じに、死のための積極的な処置を行なう安楽死もまた認められるべきであると言う。
  こう言われると、なるほどと思ってシンガーたちに同調する人たちがいる。他方、それではまずいと思う人もいる。その人は、一緒にされてしまったものを分けなければと思い、分けられていた出発点に戻ろうとすることになる。そしていったんたいした違いがないと思った二つの間に違いを見出そうとするかもしれない。さきほどの呼吸器の場合なら、前者は、呼吸器を付けないことと呼吸器を外すこととは同じであるとし、呼吸器を付けないという行ないは普通に行なわれているのだから、外すことも認めるべきだと言う。後者は、いやこの両者はやはり違うと言い、付けないことは認めながらも外すことは許容しないというところに戻ろうとするのである。
  しかしそのようにだけ考える必要はもちろんない。この二つの――二つの間で考えてみると、前者の方に分のある――対応があるだけではない。もう一つある。予め言っておけば、それが私の立場である。積極的行為/消極的行為にそれほど大きな違いがないことを認める。その上で、両方についてそのまま是としないという立場である。呼吸器の例では、呼吸器を外せと本人に言われてもそのまま従わないのと同じに、呼吸器を付けないでよいとその人に言われても、はいわかりました、とは言わないということである。
  もちろん問題は、認めるとか、肯定するとか、反対するとか、よしとしないとか、それらがどんな意味をもつか、具体的に何を指示するかである。私が言ってきたのは、その人の生死に対する決定を認める、しかし安楽死は批判するということである。これは当然、法制度など社会規範の設定について厄介な問題を残すことになる。どんな規範があれば、あるいはなければよいのかを、すぐにははっきりさせられないのである。ただ、少なくとも、現在進行しつつある事態、つまり、医療者など周囲の者たちは中立の位置を取り、本人が死にたいと、はっきりと理性的にその意志を表明したなら、それをそのまま受け入れようという流れに対しては、それは違うと明確に言う、それだけのものではある。このことについて今までも書いてきたし、今度の本でも、私の主張に存する困難のことも含め、ひとまず書けると思ったことを書いたから、再説はしない。清水の論の検討を続ける。」(『唯の生』,pp.313-316)

◇(註)5は略し、◇6と◇7を以下。

「◇6 関連する――ALSの場合、「かろうじて生命を保っている」とも「延命による苦痛」とも言えないから、同じではあるとは言えないはずだ――記述として例えば以下。
  「人工呼吸装置によってかろうじて生命を保っている患者の希望に基づき、延命による苦痛を取り除くために装置を外す、という行為は患者の死を直ちに招くであろうが、それでも「死を意図したわけではない」ということになるのか」(清水[2000 : 83])
  この問いに対する直接の答はこの文の直後には示されてはいない。私と清水は、今年その成果が植竹他[2004]として出版された調査プロジェクトのメイリング・リストのメンバーでもあったのだか、そこでのやりとりで呼吸器の取り外しのことが話題になったことがある。その時の清水の論理は今回とりあげる本に書かれていることと少し異なっていたように思う。ただ、それは今のところ発表されていないので、今回は本に書かれている限りのことについて考えてみる。
◇7 Rachels[1986=1991]、Singer[1994=1998]、Kuhse[1997=2000]、等々。これは「殺すこと」と「死なせること」という対比でも語られる。児玉[2000]がBrock[1998]を紹介しつつ解説している。また、「二重結果の原理」の検討から、清水を含む各論者の議論を批判し、二重結果の原理の適用が可能であるとし、そこから「「非意図的積極的緩和死」とでも呼ぶ」死が肯定されうるとした論文に山本[2003]があるが、未検討。他日を期したい。
 〔この後『思想』に掲載された論文として清水[2005]。新聞に掲載された文章として清水[2006]。この文章は樋口範雄[2007]で肯定的に言及されている。また関連した編書に『高齢社会を生きる――老いる人/看取るシステム』(清水編[2007])。〕」(『唯の生』,pp.332-333)

□文献
◇Brock, Dan 1998 "Medical Decisions at the End of life", Kuhse & Singer eds.[1998]
◇樋口 範雄 2007 『医療と法を考える――救急車と正義』,有斐閣,236p. ISBN-10: 4641125236 ISBN-13: 978-4641125230 2310 [amazon] ※ be
児玉 聡  2000 「殺すことと死なせること」http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/killing.html
Kuhse, Helga 1987 The Sanctity-of-Life Doctorine in Medicine : A Critique, Oxford Univ. Press. 230p.=2006 飯田 亘之・石川 悦久・小野谷 加奈恵・片桐 茂博・水野俊誠 訳,『生命の神聖性説批判』,東信堂,346p. 4830 ※
◇Kuhse, Helga & Singer, Peter eds. 1998 A Companion to Bioethics, Blackwell
Rachels, James 1975 The End of Life : Euthanasia and Morality, Oxford University Press=199102 加茂直樹監訳,『生命の終わり――安楽死と道徳』,晃洋書房,389p. ISBN-10: 4771005060 ISBN-13: 978-4771005068 2800 [amazon] ※ d01.et.
清水 哲郎 2000 『医療現場に臨む哲学II――ことばに与る私たち』,勁草書房,195+6p.,2200 ※
◇―――――  2005 「医療現場における意思決定のプロセス――生死に関わる方針選択をめぐって」,『思想』976(2005-08):4-22
◇―――――  2006 「延命治療の停止 「ルール化」より個別性に目を」,『朝日新聞』2006-5-15夕刊:8〈U:333〉
Singer, Peter 1994 Rethinking Life & Death, The Text Publishing Company, Melbourne=19980225 樫 則章 訳,『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』,昭和堂,330p. ISBN-10: 481229715X ISBN-13: 978-4812297155 2415 [amazon][kinokuniya] ※ d01.be.
◇清水 哲郎 編 2007 『高齢社会を生きる――老いる人/看取るシステム』,東信堂,208p. ISBN-10: 4887137915 ISBN-13: 978-4887137912 1890.[amazon] ※ a06
◇立岩 真也 2002-2003 「生存の争い――医療の現代史のために」(1〜14)、『現代思想』30-2(2002-2):150-170、30-5(2002-4):51-61、30-7(2002-6):41-56、30-10(2002-8):247-261、30-11(2002-9):238-253、30-12(2002-10):54-68、30-13(2002-11):268-277、30-15(2002-12):208-215,31-1(2003-1):218-229,31-3(2003-3),31-4(2003-4):224-237,31-7(2003-6):15-29,31-10(2003-8):224-237,31-12(2003-10):26-42
◇――――― 2004 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※ als.
◇山本 芳久 2003 「「二重結果の原理」の実践哲学的有効性――「安楽死」問題に対する適用可能性」、『死生学研究』2003春:295-316(東京大学大学院人文社会系研究科)


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■生活書院の本×3

◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 2000+ [amazon][kinokuniya]

『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』表紙    『海のいる風景――重症心身障害のある子どもの親であるということ 新版』表紙    『アシュリー事件――メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』表紙