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【Web連載】
やはり政治的争点であること
連載:予告&補遺
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立岩 真也
(2014/03/10)
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「尊厳死」の法制化の動きについて、言えることは前回に書いた。その事情はよくわからないが、すぐに法案が国会に上程されるといった状勢ではないようだ。関係の国会議員たちを回っている人たちに聞くところでは
「尊厳死法制化を考える議員連盟」
の人たちも一様ではないようだ。前回書いたのは、以下。
《福祉・医療が保障されない社会では人は(死にたくいないのに)死にたいと言わざるをえないし、実際死んでいる。それは、まったく明白な事実である。
議員のみなさん、尊厳死協会のみなさんも経済的状況が生死を左右してならないとお考えであり、そのことを明言されている。
ならば、保障されることが「さき」である。それまで法を制定するべきではない。おわり。》
こういう話をすると、それをきっぱり否定し、真反対なことを堂々と語る国会議員が現にきちんと存在するという。つまり、これ以上社会がすべきことはない、家族がやればよい、施設に行けばよい…と、堂々と語る人がいるのだそうである。
となれば、やはりこれは政治的な争点なのであって、一人ひとりの「死生観」の問題であるから、議員個人の判断で、という話ではないということである。そのように考えて対するべき主題だということである。(報道等については→
「安楽死・尊厳死:2014」
。)
* * *
以下は、前々回から続く「おまけ」の続き。(「延命治療」を)しないこと/(「自殺幇助」を)することという具合に分けられる、尊厳死/安楽死の分け方が成り立つものなかのという話をしている。 前回は、有馬が紹介する功利主義者たちが区別を否定していることを紹介した。次に、清水哲郎も、その主張は有馬のあげる小売り主義者たちと同じではないのだがこの点については同様のことを述べていることを紹介した(紹介している文章を紹介した)。
ここでは、ずいぶん前から言っている、言われているその話がどのように用いられているかという話。
『唯の生』
に収録されている「人命の特別を言わず/言う」。
この章の一部は、同じ題の
「人命の特別を言わず/言う」
(武川正吾・西平直編、2008、
『死生学3――ライフサイクルと死』
、東京大学出版会)がもとになっているが、他に書いたものなど加えだいぶ中身はかわっている。とりあげているのは、ピーター・シンガー(
Singer, Peter
)、ヘルガ・クーゼ(
Kuhse, Helga
)、それからだいぶ違う主張をしている社会学者として
加藤秀一
。
ここで関係するのはその第1節「新しいことは古いことと同じだから許されるという説」で、その1が「伝統の破壊者という役」、2が「既になされているからよいという話」。
シンガー、クーゼといった人たちはこれまでの伝統的倫理の破壊者と自らを規定するのだが、そのときに使われるの論法は、古くから(あるいは現在は)認められていることをもってきた上で、それと「新しい」とされるものに差がないことを言うというものである。その一つが、雑駁に言うと、尊厳死が認められているのだから、それと(たいして)変わらない安楽死も認められてよいというのである。そのことを次のように書いた。
「2 既になされているからよいという話
いわゆる積極的安楽死は許容される。障害を有する新生児を死なせることも肯定される。この本ではむしろ後者の例が多く出てくる。そしてこの場合には、本人の意思をもとに、ということではないから、この本の主張は、本人の決定の尊重という筋のものではないということでもある。
では、この人たちはその主張をどのように行なうのか。大きくは二つの、ただ結局は一つに収まるとも考えられる道筋がある。一つは論敵の主張を吟味・批判し、自らの方がまともであると言うことだ。死なせることは既に支持されていると語る。また「あなたの主張を一貫させるなら、それは私たちの味方になることだ」と主張することである。一つは自らの主張をより積極的に正当化することである。前者から見ていく。
まず、シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』(Singer[1994=1998])は人々の現実に訴える。こんな具合だ。
「オランダで安楽死が公然とおこなわれるようになった話の始まりは、よくある状況からである。すなわち、さまざまな能力を失った老女が、ナーシング・ホームで暮らしながら死にたいと思っているような状況である。ナーシング・ホームで働いたことのある人なら、誰でもそのような患者を知っている。そのような場合、医師はたいてい患者が肺炎にかかるのを待つ。」([181])
高齢者の施設では、治療しないことは以前からよく行なわれていた、だから、という話である。そしてそれを認めるなら、もっと「積極的」な行ないも、考えれば両者はそう違わないのだから、堂々と正式に認めればよいではないか。こういう筋になる。『生と死の倫理』は「一般市民」向けの本だから、「もうみんなやってるでしょ」という言い方がいくらか強めにはなっているかもしれないが、他でも基本的には同じだ。そしてシンガーの主著ということになるのだろうか、『実践の倫理』(Singer[1979=1991])、その改訂版である『実践の倫理 新版』(Singer[1993=1999])でも同じような書かれ方は随所にある。例えば以下。なお、新版で「胎児を殺すことが多くの社会で認められている」という箇所は、初版では「我々には胎児を殺すつもりがある」(Singer[1979=1991 : 194])となっている。
「妊娠後期の胎児に障害のある可能性が高い場合、妊婦が胎児を殺すことが多くの社会で認められている。また、成長した胎児と新生児とを分ける境界線は決定的な道徳的分岐を示すというものではないのだから、なぜ、障害があるとわかっている新生児を殺すほうが悪いことであるのか理解し難い。」(Singer[1993=1999 : 243])
このごろよくなされる話も、これと似たところがある。もう「現場」ではなされている、それが非公認のままでは「裁判沙汰」にならないとも限らないから、公認してもらおうというのである。ただシンガーたちの場合は、現在なされていることと、まだ認められていないこと、この二つは考えてみれば同じなのだから、認められていないことも認めようという拡張の主張になっている。この人たちは哲学者であるから、実は同じであるというつなぎが、理屈でつながっている。
クーゼの『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])ではその部分にかなりの紙数が割かれている。この本は専門書ということになろうが、同じことが専門書のように書いてあるのだ。
理論的な本ではあるが難解なところはない。むしろ、同じことが繰り返し書かれているから、言いたいことはたいへんよく伝わる。そして主張は、やはり、はっきりしている。たんに人はもうやっているからというのでなく、なぜある人たちの死が認められるべきだと考えるのか。
こんな筋になっている。第一に、「生命の尊厳」を言う人も、死に至る治療の停止・差し控えは認めている、認める場合があるとする。第二に、そうした控えめな行ないと、死に至る/至らせる積極的な行ないとが基本的に違わないことを言う。そして第三に、以上より、より積極的な処置も認めるべきであると言う。つまり、生命尊重などと言っているが、すでに選別し殺しているではないかという。もうし少し詳しく説明する。
クーゼにとっての論敵は(1)「生命の神聖性原理」(SLP=the sanctity-of-life principle)を主張する人たちである。その原理とは「意図的に患者を殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長あるいは短縮に関する決定を下すに当たりその質あるいは種類を考慮に入れることは絶対に禁止される。」([16])というものである。
次にクーゼは、実際にはこの原理が、この原理を採っているように見える論者によっても採用されていないことを言う。実際に採用されているのは、著者が(2)「条件付き生命の神聖性原理」(qSLP)と呼ぶものであると言う。それは「患者を意図的に殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長か短縮に関する決定にその質あるいは種類を考慮に入れること、これらは絶対的に禁止される。しかし、死なないように処置するのを差し控えることは時として許される。」([31])という原理である。
さらにクーゼは、差し控えることと積極的に死に至らせることとの間に基本的な違いはないことを主張する。すると、前者だけを認めるqSLPを主張する人たちも、その論を一貫させるためには、(3)より積極的な処置を(も)認めるべきである。こうなる。
基本はわかりやすい話だ。人工呼吸器を付けたら生きてしまうから、呼吸器を付けないと決めることは、人工呼吸器療法の「不開始」などと言われるが、それは自ら死を決めることと違うだろうか。あるいは、今度は呼吸器を外したら呼吸はできなくなるからやはり死ぬのだが、それを外すのは「治療停止」であるとされ、安楽死ではなく尊厳死であると言われ、さらには「自然死」であると言われたりもするのだが、やはりそれは、死なせること、あるいは自ら死ぬことと違わないのではないか。
これに対して反論するとしたらどんな方向があるだろうか。三つある。[…]」(
『唯の生』
、pp.20-23)
次回に続く。
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