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【Web連載】
「末期」について
連載:予告&補遺
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立岩 真也
(2014/01/16)
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3月14日の『産経新聞』に「「自分の最期は自分が」「周囲の空気で…危険」岩尾総一郎、平川克美 両氏が激論」(金曜討論)というものが掲載され、
「安楽死・尊厳死 2014」
に全文引用しておいた。ご覧いただければと。
日本尊厳死協会
の理事長を務めた人としては、初代の
太田典礼
氏と、岩尾氏の前任者の
井形昭弘
氏についてはある程度わかっているのだが、岩尾氏がどんな人なのか、厚労省医政局長を務めた人であるという以外のことをあまり知らない。聞くところでは、(言ってよい場所では)ずいぶん「率直」なことを語る方だともいう。どこかで何か見つけたら教えてください。
さて、その記事でその岩尾氏が述べていることは、私だって「そら」で言えるぐらい、法制化推進側が言ってきたことそのままの繰り返しである。であるから、私(たち)にしても幾度も応じてきたのであって、やはり、とくに繰り返すことはない。
ただ、「私たちは常に『不治かつ末期』になったときに、と主張している。まだ十分生きられる、末期でない人に何かするなどということは毛頭、考えていない。」という箇所、ここは、立場はともかく、意味はわかるると思う人がけっこういるのではないか。そこで、
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
に収録されている拙文「私には「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」はわからない」(2012/08/24)より。
「この法案では「終末期」が以下のように「定義」されている。「この法律において、「終末期」とは、患者が、傷病について行い得る全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく、かつ死期が間近であると判定された状態にある期間をいう。」(私が読んだものでは第5条1項)
第一に、「回復の可能性がな」い場合はたくさんある。障害者という人たちは、すくなくとも制度上はその身体の状態が固定された人たちを言うから、その限りでは、すべて「回復の可能性がない」。法律上の障害者の定義――それがよいものだと言っているのではない、よくないと私は考えている――などもってくる必要もない。回復の可能性のない障害・病を抱えている人はたくさんいる。すると、一つに、「当該」の――この法案では――「傷病」の治療という意味では手だてがないということであれば、それはしても無益であり、かつ治療は多く侵襲的であるから、加害的であさえありうる。それは行なう必要がない、あるいはすべきでない。だからそれはよい。もちろん法律的にも問題はない。
すると、「かつ」の次、つまり「死期が間近」という文言が問題になる。もちろん、誰が何をもって判定するのかという疑問もある。複数の医療者が、というのがいちおうの回答のようだが、その複数の人とはほぼ同僚だろうから、どこまで有効かという疑問も当然出されている。その上で、医療者の「経験知」による「見立て」が「あと何時間」というレベルではかなり当たることは否定しない。そして「死期が間近」とはそのぐらいの時間を指すと考えるのが普通ではないか。
となると、停止するにせよ、開始するにせよ、その短い時間のあいだに何を新たにする必要があるのだろうかと思う。できるだけその人が楽であることに気を使いながら、維持し、看守ればよい。こうした時点で、新たに手術などしないことは、現行の法律からも、別に法律論にもっていかなくても、問題にされないだろう。とすると、なぜ新たな法律がいるのかということになる。
長く同様の法律の制定を主張し活動してきた日本尊厳死協会の(いまは前)理事長という方と、2人の副理事長という方と直接に話をさせていただく機会がこの数年の間にあった。いずれも率直なところ――しかし様々に私にはよくわからないところが残ったこと――を語ってくださった。最近では、7月3日に東京弁護士主催のシンポジウムで副理事長の長尾和宏氏(医師)のお話をうかがったが、氏は「死期が間近」な「終末期」がどのぐらいの状態・時期のことを指すのか、決めることはできない、わからないととおっしゃった。それは正直な発言ではあるが、たいへん困る。「末期」と言われて今も生きている、あるいは長く生きた人をたくさん知っているが、そういう「誤診」の可能性のこと(だけ)を言いたいのではない。そもそも「わからない」のである。そして他方、繰り返すが、私のように(たぶん)普通な言葉の受け取り方をする人にとっての「間近」なのであれば、あらためて新しいきまりを作ることもない。
かつて、やはり尊厳死協会の人々は――これも人によって言うことが違うので困ってしまうのだが――「認知症」「植物状態」「(神経性)難病」等様々な状態について「尊厳死」の妥当性を言い、認知症を対象とすると言った時には認知症の人たちの家族の会から抗議を受けた(それでいったん引っ込めた)ということがあった。これらの人々が「間近」であることはない。そうして「間近」でない人を抜いていくと、さきほど私が述べた「正しい」意味での「間近」な人だけが残り、そこに新しいきまりは不要である。とすれば、この法律がなにか実際的な効果をもたらすのは、文案に書いてあるのと違い、「末期」でない人に対してなされる場合だということになる。これは、もう説明の用はないと思うが、よくない。」
これでだいたいおわかりかと思う。また他でも同趣旨+αの文章を書いているからそれでよいかなとも思うのだが、一つ加えておく。
さきほど引用した2012年時点での法案の「全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく、かつ死期が間近であると判定された状態にある期間をいう」について。
これを、「全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく」と「死期が間近である」とを分けて読むか、それとも、「死期が間近である」には「全ての適切な治療を受けた場合であっても」もかかっていると読むか。
後者であるはずである。「適正な治療」を提供しなければ「死が間近」になることはいくらでもあるからである。透析を受けている人は透析をやめればそう時間をおかずに死んでしまう(繰り返しになりますが、有吉玲子
『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』
、お勧めです)。ペースメーカーを使っている人、毎日薬を飲まないとまずい人、…。事故にあって気管確保・輸血・…しなければ命を失う人、…。これらの人について、尊厳死の対象となる「末期」であるとはされないはずである。
とすると、後者、「全ての適切な治療を受けた場合であっても[…]死期が間近である」状態がこの尊厳死法の対象となるということになる。「全ての適切な治療を受けた場合」に「死期が間近」でない人は対象とされないはずである。とした時に、「停止」されるのは「死期を間近」にするような処置ではではないことになると普通は解せる。もっとも法案の文では処置全般ではなく「治療」とあるからより限定的なことを言いたいのかもしれない。しかし例えは人工透析は医療で、人工栄養はそうであるとか、ないとか、そうした区分に意味はないのだから、ここでは広義にとるべきである。
とすると、推進側が主張している「やめてよい行ない」とは具体的にどういう行ないなのか。その人たちが主張している多くのことが「死期を間近」にする行ないではないか。
とすると、文字通りに受け取るならここで許容の対象として認められるべき行ないはほとんどないということなる。にもかかわらず、推進側は――このような法案を示しておきながら――常に、一度や二度のことではないのだから、それをやめればすぐ、ほどなく、死に至るような処置が正当化されるべきであるとしている。今度の岩尾発言でも、「栄養をチューブで補給され」、「チューブにつながれて」という常套的な表現がそれを明らかにしている――ついでに記しておくと「水ぶくれするように亡くなっている」のは、栄養補給がわるいのではなく、栄養補給の「仕方」がわるいのである。つまり、それをやめれば、すぐにあるいはほどなくなくなる処置を、認めているということである。
とすると、一つ、本来なら、やめてしまうと死を直接にもたらすこれらの行為が続けられていても、その人が「末期」の状態であると言えなければならない。それはいかなる状態を指すのか。どのようにしてそれは判断されるのか。そして加えれば、もしそのような状態にあるのなら、引用した拙文にあるとおり、その短い時間を適切な処置をして亡くなるのを待っていればよいというだけのことである。もう一つ、にもかかわらず、新たな法を作ろうというのであれば、それは「末期」を、広くそしてよくわからない仕方で広げているということになる。何かをしなければ、続けなければ、すぐに「末期」になり、死んでしまう人が、事実上想定されている。
そこで何が起こるかである。だから、「末期でない人はだいじょうぶ」と言われたところで安心できないのは当たり前である。こうした疑問に答えてもらわないと、「まだ十分生きられる、末期でない人に何かするなどということは毛頭、考えていない」と言われても困るのだ。
ここまで、いくらかややこしくなってしまった文章――もっと簡単に言えるはずのことです、また考えます――を読んでくれた人は、ここまで引用してきた「安楽死」と「尊厳死」の区別がどこまで有効かという論点に以上述べたことも関わっていることをわかってくれるだろうと思う。(やはり続く)
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